2010年03月31日

出雲族と日向族の対立

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前述の通り、一般的には「国津神は天津神に封印された」とされている。
この見解として、「日本列島の先住民が天孫族に封印された」とする説があるが、これは適切な表現ではないことを説明した。
また、これを「出雲族が日向族に封印された」とする説があり、これも正しいものの「国津神=出雲族」「天津神=日向族」という定義は間違っている。

『国津神』は日本列島の先住海人族(倭人)及び彼らが信仰していた神であり、『天津神』はパミール高原から天降った「出雲族」と「日向族」及び彼らが信仰していた神である。
そして、天孫族である「出雲族」と「日向族」は共に、『国津神』を併合したが、「出雲族」と「日向族」の間で衝突が起きたというのが真相である。
詳細は順を追って述べるが、「出雲族」の中にも「日向族」の血統があり、「日向族」の中にも「出雲族」の血統があることにも注意したい。

さて、出雲族と日向族は、最初に沖縄地方で合流した可能性があると私は見ている。
当時は、東日本列島と西日本列島が分断していたことを思い出して頂きたい。
少し具体的に言えば、東日本列島と西日本列島の接点は、熊毛を含む琉球古陸及びフィリピンだったと思われる。
その倭人(海人族)の文明圏を中心として、「日向族」は九州地方、 「出雲族」は出雲ではなく北海道及び東北地方を拠点にしたと考えられる。
もっとも、先述の通り、日本列島全域に倭人は分布していたのだが……。

「毛人は日向族に抵抗を止めて順応した」とする説があるが、この日向族に服従した「毛人」こそが「熊襲」だったのかも知れない。
加治木義博氏の言うように、「熊毛」が日向族の最初の「高天原王朝」だとすると、その可能性は十分ある。
また、「毛」の付く地域は毛人(エドム人)が定着した地域だったと考えられる。
改めて述べておくが、エドム人はイスラエル民族の兄弟であり、ヒッタイトと融合した民族で、「先住出雲族」として紀元前1000年頃に日本列島に上陸した部族である。

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紀元30年頃の日本列島のデータでは、北海道と東日本列島が西日本列島に急接近しているが、西日本は九州を北とし、東日本列島は青森県を南にしたままだった。
毛人の中でも、日向族と最後まで協定を結ばなかったのが、青森県を拠点にしていた「蝦夷=アイヌ」と呼ばれる部族であろう。
そして彼らは東北地方に広がり、宮城県に王朝を開いた。

『秀真伝』は出雲族系の「大物主櫛甕玉命(オオモノヌシカタマノミコト)」、その子の「大直真根子命(オオタタノコノミコト)」が編纂したと伝えられているが、これを『記紀』に対比させると、『秀真伝』は紀元1世紀頃に編纂されたことになる。
『秀真伝』の特徴は、日本神話の舞台である「高天原」を東北地方(宮城県)の「日高見国」としている点である。
『日本書紀』によれば、「日高見国」は蝦夷の国だとされ、アイヌ語で「ヒタカミ」は「小森林のある所の盆地」という意味を持つ。
やはり蝦夷はアイヌ人であり、南方系の海人族だったことが分かるが、恐らく「出雲族」が彼らを併合し、「出雲族」による日本で最初の「高天原王朝」を築いたものと思われる。

アリオンによると「出雲族」と「日向族」は、「日本で落ち合った後、一致協力して日本を治め、人類の進化と文化の降盛を促す手はずを整えていた」という。

「出雲族」と「日向族」が一致協力して日本を治めることがどれだけ重要なことかは、宗教研究家の浜本末造が答えている。
浜本説によれば、ニギハヤヒ(出雲族)は「世界の王の魂」を持った御尊体で、ニニギ(日向族)はその魂を受肉して世界を治める「現人神」だという。

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ところが、日向族は出雲族との協力を拒み、出雲族が保持する皇位継承の証「十種神宝」の引渡しを要求してきた。
そこで出雲族と日向族が衝突し、日本の歴史の根源的な歪みが生じて、後世にも様々な悪影響を及ぼすようになったらしい。
出雲族と日向族の皇位争奪戦は、ヒッタイト帝国の王位争奪戦を彷彿させる。

また、「いくつかのグループの内、2つのグループが日本に入ってきた」ということは、イスラエル10支族の内の2支族が日本に入ってきたという見方もできる。
超能力ベラのリーディングでも、「失われた10支族の内、2〜3部族が日本に来ている」という。

だが、古代史研究家の水上涼氏が家紋を研究したところ、イスラエル12支族の全てが日本に渡来していることが判明し、著書『ユダヤ人と日本人の秘密』(日本文芸社)の中で詳細に解説している。
とすれば、「出雲族」と「日向族」の対立は、イスラエルの「10支族」と「2支族」の対立とも無関係とは思えない。
イスラエル共和国の再建まで、ユダヤ人は国を持たない放浪の民と言われてきたが、実は古代日本列島に民族移動し、世界で最も古い歴史を持つ「日本」という国の建国者だったのだろうか……。

次は少し路線が外れるが、少しユニークな仮説を発表したいと思う。
posted by 夢蛇鬼 at 05:34| Comment(2) | 天孫降臨と建国神話の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

国津神の先住民王朝と天津神の征服王朝の謎

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天津神とは渡来系民族で「天孫族」を指し、国津神とは先住民である「倭人」を指すというのが通説である。
既に説明した通り、天孫族はパミール高原から天降った「出雲族」と「日向族」であり、それ以前に日本列島に先住していた南方系海人族が「国津神」である。

日本の先住民には、おおよそ次の9種類が存在したとされる。
「隼人(ハヤト)」「熊襲(クマソ)」「肥人(クマビト)」「土蜘蛛(ツチグモ)」「国栖(クズ)」「古志(コシ)」「粛慎(ミチハセ)」「毛人(エミシ)」「蝦夷(エミシ)」

まず、九州の「隼人」と「熊襲」が、同一系統と考える学者は多い。
次に、九州・近畿・東北に居住していた「土蜘蛛」は、土神で「国津神」と同義語だとする見解がある。
「国栖」は、『常陸国風土記』によれば「土蜘蛛」の別称だとされている。
「古志」は「高志」と記されるケースもあるが、『古事記』には、肥の川の上流に「高志の八岐大蛇」がいたとされており、「コシ=肥人」と考えることができる。
「粛慎」は、佐渡島に船に乗って溜まり、魚を食料にしていたとされている。
「蝦夷」と「毛人」もほぼ同じ民族で、アイヌ人だとされている。
以上の事柄を別の角度から、もう一度見てみよう。

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中国の史書『新唐書』に「ソレ東の海峡中二又邪古(ヤコ)、波邪(ハヤ)、多泥(タネ)の三小王有リ」という一説があり、歴史学者の喜田貞吉は、「邪古」は「夜句」(屋久島)、「多泥」は「種子島」、「波邪」は「波邪島」を意味するとし、「隼人」は「波邪島に住む人」だとした。
尚、「波邪」は鹿児島県全域(熊毛地方)を指し、インドネシア系部族だとされている。

古代史評論家の佐治芳彦氏は、「隼人も熊襲も肥人も、広義のインドネシア人、マラヨ・ポリネシア系だった可能性が高い」と述べている。
法史学者の中田薫氏は、「土蜘蛛」はアイヌ語の「トンチ=カムイ(神)」 だとしている。
また、土蜘蛛の異名である「国栖」は、『日本書紀』では「国主」と記されており、先住民王朝の支配階級だった可能性もある。

「コシ」は 東北及び北陸地方を指すが、喜田貞吉博士によれば、千島アイヌの部族名「クシ」と同語だという。
「蝦夷」と「毛人」は共に「エビス」と呼ぶが、佐治芳彦氏はこれもマラヨ・ポリネシア系だとしている。

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また、畿内には「兄宇迦斯(エウカシ)」「弟宇迦斯(オトウカシ)」と呼ばれる人の記録があるが、「ウカシ」はアイヌ語の「長老」のことだという。
そして、地名学の見地から見て、九州の先住民もアイヌ人だと言われている。
大雑把ではあるが、これらをトータル的に検証すると、日本列島の先住民の殆んど全てが「南方系海人族=倭人=アイヌ人」だったことになる。

梅光女子大学教授の国分直一氏も「日本海人族文化説」を提唱しているが、彼らのルーツは主にシュメール系インド人の「ドラヴィダ族」で、蝦夷は「エブス人」、毛人は「エドム人」である可能性が高い。
そして、エブス人やエドム人と共に、カナン系やイスラエル系、エジプト系のフェニキア人(俗に言う海の「ユダヤ商人」)、更にはイシュマエル人(アラブ人)、アフリカ人等が、倭人の航海ルートで日本列島に上陸し、倭人と融合していったようだ。

彼らの中でも派閥や対立はあったであろうが、全体的には調和した生活をしていたと思われる。
そして紀元前3〜2世紀、天孫族がパミール高原から日本列島に降臨した。
一般的に、「天津神が国津神を封印した」と言われているが、これはアバウトに見れば正しいと言えるが、正確とは言えない。
既に明らかになっている通り、出雲族は倭人とほぼ同一民族だが、日向族も先住民を併合しているからだ。
日向族が併合した先住民が「徐福」であれば話の筋は通るが、どうも「倭人」をも巻き込んでいたようなのだ。

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だが日向族は、出雲族と日本で落ち合って協定を結ぶ予定だったので、先住民を統合したのも自然な成り行きだったとも言える。
北川氏の見解によると、「日向族は九州に上陸して先住民を併合していった」という。
九州の先住民とは、「隼人」と「熊襲」である。

ここで、佐治芳彦氏が興味深い指摘をしている。

「……熊襲の祖神は案外、山幸ことホオリノミコト、つまりヒコホホデミノミコトだったかもしれない。
ちなみにヒコホホデミの陵墓と伝えられる日向の高屋山上陵は、鹿児島県姶良郡の溝辺村にあるが、ここは隼人というよりは、熊襲のテリトリーに入る。
とすれば、ヒコホホデミ――ウガヤフキアエズ――カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)と続く日向王朝は熊襲王朝ということになりかねない。
つまり崇神系の景行天皇のとき日本武尊に討たれた熊襲のカワカミタケルこそ神武王朝の嫡統だったのかもしれないのである」

(「日本国成立の謎」日本文芸社)

恐らく日向族は、九州の豪族である「熊襲」を吸収したのである。
その他、日向族に服従した倭人の部族は、全国的にも少なくなかったようである。
posted by 夢蛇鬼 at 02:49| Comment(0) | 天孫降臨と建国神話の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月30日

失われた琉球王朝と高海原のアマ族の正体

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今までの流れを見ると、出雲族は元々、タジキスタンのクダラを経由して満州や百斉に広がり、その一部は陸路を辿って日本に来たと思われるが、本隊はパミール高原を越えてインドシナ半島から太平洋諸島を渡海し、朝鮮島を経由して日本に渡来した部族ということになる。
そして族長は、スメラミコト(スサの王の血統)である。

出雲族は、インドや東南アジアの島々を経由する際に、渡海手段として南方海人族(倭人)と接触していたことは自然な流れである。
むしろ、出雲族と南方海人族は元々交流を持っていただけではなく、エドム族を祖先とする血を分けた兄弟民族である。
また、海路グループ(出雲族)も陸路グループ(日向族)も「アマ族」だが、アマは「海」だけではなく「天』、つまり「天孫族」を指している。
従って、海路ルートのアマ族は「海人族」と表記するのが適切で、天磐船は「海磐船」となる。

また、海人族が日本列島に渡来したルート(海のシルクロード)も、「高海原(タカアマハラ)」と呼ぶことができる。
そして「タカアマ」とは、南洋マリアナ諸島の「タカ族」と 東南アジア系海人族の「アマ族」の合成語だとする説もある。
尚、ノア一家もまた、大洪水の「高海原」を方舟で漂流し、アララト山系に降臨した天孫民族だったと言えるだろう。
では出雲族は、日本列島のどこに上陸したのだろうか。

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北川氏によると、出雲族は韓国に上陸後、出雲地方に渡ってきたとし、『日本書紀』の記述とも一致する。
だが、それも微妙なところで、日向族と同じく、沖縄地方に上陸した可能性が高い。
まず重要なことは、紀元前3〜2世紀の日本列島が、現在と同じ形・位置だったとは限らないという事である。

これについても様々なシミュレーションによる仮説があるが、私が最も信頼できると思う情報が、飛鳥昭雄氏と三神たける氏の共著『邪馬台国の謎と逆転日本列島』(学研)である。

アメリカ軍は世界中の海底の地質を完全に把握し、プレートテクトニクス理論とプリュームテクトニクス理論を導入し、且つ放射性年代測定を放棄し、高速プレートテクトニクス理論を展開する中で、日本列島の歴史を徹底的に調査しているという。

そして、アメリカの極秘プロジェクトを担う研究所が、飛鳥氏に提供した紀元前3世紀頃の日本列島のデータによると、朝鮮半島は中国大陸と陸続きではなく、朝鮮島の南方に西日本列島があった。

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少し長くなるが、続きは原文を引用したい。

「西日本列島は台湾などの南西諸島とともに、福建省あたりから分離したことが見て取れる。
西日本列島で花開いた弥生文化は、中国の江南地方の文化と共通点が多いといわれるが、なんということはない。
両者は陸続きだったのだ。
これまで、弥生文化は海を隔てて江南から渡ってきたとか、朝鮮半島を経由してきたとかいわれていたが、西日本列島自体が、そもそも江南地方の一部だったのである。
さて、次は東日本列島である。
西日本列島の南にあるのは、地形からいって今のフィリピンである。
驚くことに、フィリピンのすぐ東の沖合いに東日本列島が浮かんでいる。
形状からして、青森県が南になっている。
……(中略)……
はるかオホーツクの北方で中国大陸から分離した東日本列島は、なんと千数百年の間に、一気に南下。
フィリピンあたりにまで移動していたのである。
縄文時代、日本列島は温暖な気候だったというが、なるほど、そういうことだったのだ。
世界的に温暖化が進んだわけではなく、東日本列島自体が南下して、熱帯地方にあったのである。
1996年、バヌアツ共和国のエファテ島で縄文土器の破片が発見され、それが青森県の三内丸山遺跡で作られたものであることが判明したが、その理由も、これなら納得できる。
実は、両者の距離は、かくも近かったのである。
はるばる危険な長い航海をしなくても、すぐに隣の島へ行けたのだ。
おそらく今後、フィリピンやジャワ島から続々と縄文土器が発見されることが予想される。
そして、最後は北海道だ。
東日本列島の東北沖に、北海道とおぼしき陸塊が浮かんでいる。
現在の北海道よりは、二周りは小さい。
地理的に見て、東日本列島と北海道は、ともに南方の島である。
ここに住んでいた縄文人、とくにアイヌ民族は南方系の性質を持っているといわれているが、これはまさしく理にかなっている」


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西日本列島が江南地方の一部だったとすれば、日向族が江南地方から陸路で渡来したのも辻褄が合う。
中国の古文書には、「高天」や「皇天の原」という聖地の名称が登場するが、これが中国大陸における「高天原」だったと考えられる。
ともすれば、それはパミール高原を指していた可能性もある。
中央アジアの真ん中に位置する世界の屋根……パミール高原こそ、高天原と呼ぶに相応しい場所である。

一方、アイヌ人が南方系の性質を持っているのも、東日本列島と北海道が南の島だったことで謎は氷解する。
彼らは、紀元前1000年頃から日本列島に渡来していたドラヴィダ人(シュメール系インド人)や南方系海人族で、中にはエドム人やフェニキア人、ネイティブ・アメリカンと血を分ける部族もいた。

当時、南方にあった東北地方に、縄文文化の痕跡や産鉄神信仰の名残りがあるのはその為である。
日向族は西日本列島の日向地方、出雲族は東日本列島の東北地方に定着したことは、ほぼ間違いないだろう。

問題は「熊毛」である。
「熊毛=クマギヌ=コーオマゲン」であれば、沖縄を含む熊毛地方が日本で最初の高天原という見方ができる。
アメリカの極秘データでは、朝鮮島の南方に中国江南地方と繋がる西日本列島があった。
西日本列島は台湾などの南西諸島とともに、福建省あたりから分離したことが見て取れる。
もしかすると、種子島や屋久島、沖縄諸島も、西日本列島と陸続き、または近隣だった可能性もある。

一方、東日本列島は青森県を南として南下しており、フィリピンの東に位置していた。
東日本列島が南の島だったことから考えて、東日本列島も沖縄と密接に繋がっていたはずである。
当時の沖縄が、青森県とフィリピンの中間に位置していた根拠は、沖縄人とフィリピン人の遺伝子の近さにある。
パプア語と日本語の類似性も指摘されているが、これも海人族によってもたらされたものだと思えば説明がつく。

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また、地質学的には、沖縄諸島は奄美大島、八重山諸島、台湾、中国大陸と弧を描くように繋がっていたと考えられ、これを「琉球古陸」と呼ぶ。
そこにはかつて、琉球王朝が栄えていたが、地殻変動によって、奄美大島、沖縄本島、宮古島と八重山諸島を含む3つの島に分断し、度重なる地殻変動で現在の諸島になったという。
沖縄本島、与那国島、慶良間島周辺の海底で、巨石建造物が多数発見されているのは、琉球王朝の遺跡なのだ。

この地殻変動があったのは約1万2000年前とされ、ムー文明の遺跡だと考える学者が多いが、年代測定法に根本的な問題があるとしたら、正確な年代は不明である。
オコツトによれば、約6500年前の次元転換によって、ムー文明とアトランティス文明が滅亡したという。
それを軸に考えると、6500年前の次元転換とは「ノアの大洪水」を指し、それ以前の地球にはパンゲア大陸と呼ばれる1つの陸塊だけが存在していた。

とすると、「ムー」や「アトランティス」というのは大陸の名前ではなく、パンゲア大陸時代に存在した2つの文明圏を意味すると考えられる。
それはちょうど、現在の「東洋文明」と「西洋文明」のようなもので、ムー文明が東洋文明、アトランティス文明が西洋文明に対応する。
では、琉球王朝の海底遺跡は、6500年前に海底に沈んだムー文明の遺産なのだろうか。
いや、琉球王朝が栄えていたのはもっと後世で、恐らく南方系海人族の産物である。

縄文文化とされる与那国町のトゥグル浜遺跡でも、南方系の石器が発見されている。
インドネシア、ポリネシア、ミクロネシアなどから、黒潮に乗って琉球古陸に上陸した海人族が、与那国島沖に琉球王朝の神殿を建設したのである。
それは早ければ紀元前3000年頃から始まり、もしかすると、紀元前200年近くまで存在していた可能性もある。
そして、熊毛地方や青森県、北海道にも定住した。

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少なくとも、沖縄地方は今でもその名残りを受け継ぎ、東北地方も大きな影響を受けている。
結論、出雲族は沖縄地方から隣接する東北地方に進出した。
それ故、沖縄人とアイヌ人は、出雲族系の末裔といえるだろう。

『秀真伝』でニギハヤヒ(出雲族)が、仙台地方に「日高見高天原王朝」を築いたというのは、あながち荒唐無稽ではない。
そして、鹿島経由(海路)で難波に移動したとされているが、これは紀元前1000年頃に、エブス人が堺市の南港辺りに上陸したコースとほぼ同じである。

さて、アリオンによれば、日向族は日本列島に到着し、原住民を併合していった。
その原住民とは、まさしく「海人族=倭人」である。
ここで、新たなミステリーが生まれることになる。
倭人とは、紀元前1000年頃から日本列島に渡来していたエドム族を含む、いわば「先住出雲族」である。

信じられないかも知れないが、先着の日向族は、先住民である「倭人=海人族=先住出雲族」を併合していたことになる。
が、それはそれで良しとしよう。
その後、日向族は、日向地方へ移動して強大な国家を築き上げたという。
日向の強大な国家……アマテラス……これは邪馬台国の卑弥呼ではないのか。
ここで少し、卑弥呼の謎に迫ってみよう。
posted by 夢蛇鬼 at 18:38| Comment(0) | 天孫降臨と建国神話の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本の高天原と天孫降臨の謎

『記紀』による「天孫降臨神話」では、天照大神の神勅により、邇邇芸命(ニニギノミコト)が高天原から日向国の高千穂の峰に降臨し、これが天皇家の祖先だとされている。
だが、これとは別に、天照大神の神勅により、ニギハヤヒノミコトが天磐船に乗って、河内国(大阪府東部)に天降っている。
アマ族が「パミール高原」から日本列島を目指して出発したのが、日本神話が伝える天孫降臨だと言えよう。
勿論、ここではパミール高原が「高天原」となる。

パミール高原と連なる山脈に天山があるが、パミール高原の「高原」の間に天山の「天」を入れると「高天原」となるのは無理矢理だろうか。
尚、パミール高原と天山山脈に囲まれたキルギス共和国は、日本人のビザ不要の中央アジア屈指の親日国らしい。

そしてキルギスの国旗も、何と太陽である。
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アリオンはこう教えている。
「アマ族は人類の進化を促し、真の繁栄に導くことを目的に、紀元前3〜2世紀にパミール高原を旅立った」

そして、いくつかのアマ族のグループの内、2つのグループが陸路と海路に別れて、最終目的地を日本列島にした。
便宜上、陸路グループを「日向族」、海路グループを「出雲族」と呼ぶが、恐らく、日向族の祖先が「徐福」で、出雲族の祖先が「エドム族」と言えるだろう。

何故、日本列島を最終目的地にしたのか。
国常立尊が、トルコから日本列島に移動したからである。
即ち、ヒッタイト帝国時代、ポールシフトによって地球の霊的磁場の中心が、日本列島に移動したということだ。
「国常立尊」とは何か、「霊的磁場」とは何か……機を改めて解説するが、「マグマ」のことだと解釈してもらえば良い。

アリオンのチャネラー・北川氏も、次のように述べている。
「活火山の多い日本列島こそ、人類の進化と活性化に適した特殊な磁場を持つ地域であるという観測が、当時のアマ族によってなされていたらしい」

ブルガリア政府公認の超能力者ベラ・コチェフスカも、このように言っている。
「日本は地球のヘソのようなもので、宇宙エネルギーを最もストレートに受ける特別な聖地」

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これが神界での出来事であり、それがタイムラグを経て人間界に移写されたのが、天孫族の日本列島渡来だと言えるだろう。
天孫族は現人神であり、神名で呼称されている。
ここで再び『宮下文書』に目を向けると、中央アジアの恐らくパミール高原から、「クニトコタチ」と「クニサヅチ」が率いる集団が、陸・海ルートで富士山を目指して日本列島に上陸した。

最初に到着したのはクニサヅチで、父タカミムスビと共に富士山麓に高天原王朝を築いた。
クニトコタチのグループは、京都府丹波で西日本を治めることになったが、後に富士高天原で合流した。
また、『秀真伝(ホツマツタエ)』によると、ニギハヤヒが仙台地方の『日高見高天原』から鹿島経由(海路)で難波に移り、更に大和のイカルガ峰に天降ったとされている。
そして、ニニキネノミコト(ニニギノミコト)は筑波山麓に降臨した後、富士山麓に移り、その後、筑紫の高千穂の峰に降臨したという。

その他、日本各地に様々な高天原説が存在するが、いずれも天孫族の原郷ではなく、日本列島渡来後の定着地や移動先を指しているようだ。
但し、順番がまちまちでどれが本当なのか分からない。
恐らく、『古史古伝』に記されているルートは、紀元前10世紀頃から断続的に日本列島に上陸して王朝を築いていた、先住民の記録ではないかと思われる。

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北川氏の調査によると、紀元前3〜2世紀にパミール高原を出発したアマ族のうち、先に日本列島に上陸したのが日向族で、パキスタン→ネパール→中国の江南地方を経由して、博多湾沿岸に上陸したようだ。
一方、出雲族は、パキスタン→インド→インドネシア→東南アジアの島々を経由して朝鮮半島に上陸し、壱岐島から出雲地方に上陸したらしい。
この事は『日本書紀』にも記されており、スサノオは高天原を追放される際、新羅国(朝鮮)のソシモリに天降ったが、この地を不服に思い、土の船で海を渡り、出雲国に辿り着いたとされている。

但し、アリオンによれば、出雲族の族長は「スサノオの曾祖父」と「スサノオの父フツ」で、この時スサノオはまだ生まれていなかったようだ。
従って、『日本書紀』でいう「スサノオ」は、出雲族のことだと解釈して良いだろう。
また、ニギハヤヒはスサノオの第5子であり、「ニギハヤヒが高天原から河内国に降臨した」という『秀真伝』の記述は、パミール高原からの天孫降臨の話ではない。

そして、日向族の族長は「イザナギ」と「イザナミ」で、娘に「アマテラス」がいたという。
従って、『記紀』 が伝える「天照大神」は、日向族の「アマテラス」のことではないことになる。
では、日向族と出雲族を天孫降臨させた「天照大神」の正体は一体何者なのか。

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この時代、イエスはまだ誕生していない。
という事は、旧約神「ヤハウェ」のことだとも考えられる。
尚、「スサノオ」は、バアル(スサノオ)の受肉の現人神を意味し、スサノオと呼ばれる人物は過去に何人も存在しているようだ。
歴代のスサの王もそうだが、イエスや王仁三郎も「スサノオ」であった。
バアルはヤハウェと同一神であり、スサノオもまた「天照大神の受肉」だと言えないこともない。
ここで注意すべきは、アマテラスとスサノオは別人であり、イエスでもないということである。

北川氏は、日向族が上陸したのは博多湾沿岸だとしているが、博多湾から上陸して高千穂の峰に高天原王朝を築いたのだろうか。
成立当初の日向国は、鹿児島県も含まれていた。
この真相を探る為には、日向族が編纂した『記紀』を頼りにするのが最も信頼が置けるだろう。

日月神示では「高天原」を「タカアマハラ」と読ませているが、歴史言語学者の加治木義博氏によると、『古事記』では敢えて「コー・オマ・ゲン」と読むように注意書きされているという。
この部分は南九州より南の地域での歴史なので、oとeを除いた三母音の沖縄語で読むと「コー」は「ク」、「オマ」は「マ」で、「ゲン」を「ギヌ」と読むと「クマギヌ」となり、沖縄人であればすぐに「熊毛の」だと分かるそうである。

熊毛(クマゲ)とは、鹿児島県の南の海上にある、種子島と屋久島の離島地域を指す。
従って、日向族は高千穂の峰に降臨する前に、熊毛の島に上陸していたことになる。
現在は、種子島と屋久島のみを熊毛群と呼ぶが、「クマギヌ」が沖縄語だとすれば、奄美諸島や沖縄諸島も含まれていたと考えて良いだろう。
かつて、その辺り一帯に琉球王朝が栄えていたが、果たして、日向族との関係は如何に……。
posted by 夢蛇鬼 at 17:23| Comment(2) | 天孫降臨と建国神話の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世界の高天原と葦原中国の謎

人間界を現世(うつしよ)というが、神界で起きた出来事がタイムラグを経て人間界に移写されていることは、『日月神示』や「スウェデンボルグ」も述べている。
つまり、神話は神界での出来事と人間界での出来事の二重構造になっているのだ。
従って、本当の「高天原」は神界を指し、『日月神示』によれば宇宙全体のことだという。
中でも、我々地球人にとって、直接的な「高天原」は太陽であろう。
では、地上における「高天原」はどこに存在するのだろうか。

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ノアの大洪水後、最初の高天原は、ノア一家がアララト山系から降りたタガーマハラ(タガーマ州ハラン)であろう。
もっとも、アララト山系そのものが「高天原」だったと考えて良い。
そして、アーリア人(恐らくヒッタイト系)がイラン高原に移動したことで、イラン高原も「高天原」になったとも言える。
また、徐福が富士山麓に王朝を築いたのであれば、富士山も「高天原」である。

『宮下文書』によれば、それより遥か以前の約6300年前、ペルシャ東北地方から日本列島に渡来した神々が、富士麓に王朝を築いたという。
年代はともかく、ペルシャの地はエラムであり、首都はスサだった。
エラムが滅亡し、スサの王が東の果ての日本列島に移動して富士高天原王朝を樹立した後、再び世界各地に散らばり、その末裔が日本列島に戻ってきたとすれば、王仁三郎の「里帰り民族説」は、最後の部分だけを霊視していたと考えることもできる。

日本人の原郷を「高天原」だと定義すれば、世界各地に高天原があったということになる。
従って、高天原の所在地について様々な説があるが、いずれも間違いだとは言えない。
要は、アララト山系から降りたノア一家の子孫たちが、日本列島に渡来するまでに定住していた山々や高原などの全てを「高天原」と呼ぶことができる。

それを裏付けるのが「葦原中国(あしはらのなかつくに)」である。
天孫民族は、葦原中国の統治の為に高天原から降臨したとされる。
この「葦原中国」は日本のことだとされているが、高天原が世界各地に点在したとすれば、葦原中国も世界各地に点在したことになる。
まず注目するべきは、ニニギノミコトが高天原から降臨した、日向の高千穂の峰(葦原中国)もまた、「高天原」だということである。
つまり、ノア一家がアララト山系(高天原)から降りて住み着いたタガーマ州ハラン(葦原中国)も「高天原」なのだ。

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その後、セム族はタガーマハラ(高天原)からシュメール地方に降臨した。
シュメール人は、自分たちの国を「ギー・エン・ギ」と呼んでいたが、その意味は「葦の繁る地」で、後に「メソポタミア」と呼ばれるようになったが、それは「河の間」という意味で、チグリス河とユーフラテス河の間にあるメソポタミア(ギー・エン・ギ)地方は、まさに「葦原中国」なのである。
更に、その葦原中国であるメソポタミア地方が高天原となり、そこから移動した土地(古代文明発祥地)が新たな「葦原中国」となる。

事実、シュメール人一派が移住した黄河地方は文字通り「中国」だが、そこは黄河と楊子江の大河に挟まれた地域である。
それだけではない。
古代史評論家の佐治芳彦氏は、『日本国成立の謎(日本文芸社)』の中で、このように指摘している。

「ナイルの三角州に成立した葦原の中ッ国(エジプト)と、インダス河の三角州に成立したモヘンジョ・ダロの葦原の中ッ国、ガンジス河口の三角州の葦原の中ッ国、それにインドシナ半島のメコン河の中流のバンチェンの中ッ国、これはのちに『海のシルクロード』とよばれた古代航海民の開拓した航路上にある。
そして、この中ッ国もすべて西から東へ移動している。
そして、もっとも重要な点は、この葦原の中ッ国の二本の移動線が、豊葦原の中ッ国――日本列島に、みごとに収束されていることだろう」


それでは次に、日本神話における「高天原」と「葦原中国」、そして「天孫民族」の謎に迫ってみよう。
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2010年03月29日

富士高天原王朝と七福神の謎

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「八」は出雲族の象徴だが、もしかすると「ハッティ(ヒッタイト)」を意味しているのかも知れない。
そして、「八」と「秦」で「八秦」→ 「八幡(やはた)」となり、京都府八幡市は製鉄所で有名である。
恐らく、シン(秦)は元々シュメール人が築いた国で、そこにヒッタイト人+イスラエル10支族が融合して「秦」が成立したと考えられる。
その後、ギリシア系バクトリア王ディオドトス率いるペルシャ系騎馬民族+2支族(ユダヤ人)が侵略し、秦の支配者となったようだ。

だが後に、紀元前334年頃、アレクサンドロス大王率いる騎馬民族がペルシア帝国を壊滅させた。
そして、現地のユダヤ人を従わせて、秦を支配していたペルシア系騎馬民族を焼き殺し、長安を作ったという説もある。
この事から、秦を滅ぼして漢を建国した反秦軍は、アレクサンドロス軍だった可能性もある。
先述の通り、漢を建国したのは、秦に反乱を起こして破れた河南人の意志を継承した反秦軍である。

紀元前538年、フェニキアがペルシアの4属領に分割され、捕囚のユダヤ人が解放されたが、この頃にフェニキア人も中国に移動した可能性がある。
フェニキア人は多民族で構成されているが、民族的には主にハム族のカナン人やエブス人系だが、限りなくイスラエル民族に近いと考えられる。
以前述べた通り、カナン人は、イスラエル民族とかなりの割合で混血していた可能性がある。
そして、カナン人とイスラエル10支族はバアル(スサノオ)信仰である。

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また、アレクサンドロスは「イスカンダル双角王」と呼ばれ、牡牛族だったことが分かる。
河南人がカナン人だとすると、秦・ユダヤ人に対抗するアレクサンドロス勢力だったということで、一応話の筋は通る。
注目すべきは、ヒッタイト人は「イスラエル12支族」と同化しており、「ディオドトス軍」にも「アレクサンドロス軍」にも2支族がいた。
そして、紀元8年に前漢が滅び、紀元25年に光武帝(劉秀)が後漢を興したが、この時に、漢の支配者が秦の勢力に移り変わったのではないかと思われる。

少しややこしい話になったが、この流れを1つの仮説として記憶に留めておいて頂きたい。
尚、哲学者プラトンの弟子アリストテレスがアレクサンドロス王子の家庭教師をしていたが、プラトンはゾロアスターの弟子だったという説もある。

さて、秦代に大勢の使者が、日本列島に渡来した記録がある。
王仁三郎によると、太古の富士山にあった「高天原王朝」から天孫民族が降臨し、世界を統治すべく各地に散らばり、最初にできた王朝が出雲で、スサノオは大国主命に日本を任せて朝鮮に渡ったという。
だが、私はこの説には懐疑的である。
王仁三郎の「富士高天原説」は、霊言による口述ではなく、恐らく『竹内文書』の影響を受けた王仁三郎独自の歴史観で、絶対性はなく、あくまでも仮説に過ぎない。

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日本には、アカデミズムが黙殺する『古史古伝』と呼ばれる古文書がいくつか存在し、その1つに『富士古文献』がある。
富士山麓の宮下家によって保存されてきたことから『宮下文書』とも呼ばれているが、それによると、日本人のルーツは中央アジアに住んでいた民族で、富士山を目指して日本列島に移住し、約6400年前に高天原王朝を築いたことが記されている。

6400年前といえばノアの大洪水の少し後で、以前述べた通り、ノアの大洪水後に日本列島に渡来した民族がいた可能性もあることはあるが、残念ながらそれと「富士高天原王朝」は基本的に関係なさそうだ。

まず、『宮下文書』は『徐福文献』とも言われ、徐福伝説と深く関わっている。
司馬遷の『史記』によると、紀元前213年頃、徐福は秦始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を探すべく、85艘の船団で、3000人を率いて日本に渡来したとされており、全国各地に徐福伝説が残っている。
これが「秦氏」だという説もあるが、徐福の渡来が紀元前の秦代であるなら、秦氏(原始キリスト教徒)の可能性はない。
既に察しの通り、徐福一行の正体はイスラエル2支族(ユダヤ人)である。

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だが、中国北宋の欧陽脩(政治家・詩人)の『日本刀歌』の中には、次のような詩がある。

「その先祖徐福は、秦を偽って薬を取りに行くと言い、若い男女と共にその土地で老いた」

もし徐福の渡来が紀元後の話であるなら、「秦始皇帝の子孫」を偽称した秦氏(ユダヤ人)である可能性もある。
しかし、『宮下文書』の記録だけではなく、中国の『史記』にも記録されている以上、やはり2支族のユダヤ人だったと考えて間違いないだろう。

徐福は中国には帰らず日本で他界し、3羽の鶴となって舞い上がったと伝えられており、中国では徐福は「神武天皇」だったとする説もある。
「三」は日向族を象徴する数字で、「神武天皇」は日向族であり、改めて解説するが、日向族の本隊は2支族のユダヤ人なのである。
更に死後、白鳥となった「ヤマトタケル」との関連性もあるだろう。

詳細は、神仙組Tの「初代天皇の座を奪った桃太郎(ピーチボーイ・メーソン)の謎」を参照して頂きたい。
http://mujaki666.seesaa.net/article/125129805.html

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このように古代中国では、大別して2大勢力の対立があったことが窺える。
ところで私は、エブス人、エドム人、そして徐福の話で気付いたことがある。
七福神の信仰は関西から始まったとされているが、まず、宝船に乗った「恵比寿」はエブス人のことであろう。
そして「大黒天」「毘沙門天」「弁才天」の大黒天は製鉄神であり、ヒンドゥー教のシヴァでもあり、「スサノオ」の一表現である。
毘沙門天・弁才天もヒンドゥー教の神が原型となっているが、要はインド経由で古代日本列島に稲作や鉄器文明をもたらした「出雲族」を象徴している。

一方、「布袋」は中国仏教、「福禄寿」「寿老人」は道教の老師で、中国をルーツとしている。
これらは、宝を積んで船で日本列島に渡来した「徐福」を象徴しているのではないかと思われる。
彼らの間で、対立や派閥はあったにせよ、その中枢となる部族が、南アジアと東アジアの中継地点として「パミール高天原王朝」を築いていたらしい。
posted by 夢蛇鬼 at 22:51| Comment(1) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イスラエル民族の双児「エドム人」の謎

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少し時代を遡るが、ソロモン王の時代(紀元前965〜925年)、ユダヤ教はまだ成立しておらず、エジプトやヒッタイトの影響を大きく受けた「イスラエル教」と呼ぶべき宗教だった。
それは、黄金の子牛像「アモン」を主とする多神教である。

聖書に登場する民族の中で、最も重要且つ要となっているのがヘテ人(ヒッタイト人)である。
ヒッタイト人はイスラエル民族から尊敬され、また混血によって深い繋がりを持ち、ユダ王国を支配していたヒッタイト系ユダヤ人も、ヒッタイト人として神と契約を結んだとされている。
その神の名は「ヤハウェ」で、荒らぶる神だと言われている。

ヒッタイト人は元々、太陽神に対する信仰が主だったが、強風や暴風が製鉄の神として、天候神が崇められるようになった。
それはシュメール神話の「マルドゥク」であり、カナン神話の「バアル」、日本神話でいう「スサノオ」である。
そして、スサノオは「ルシファー」である。

「ヤハウェ=マルドゥク=バアル=スサノオ=ルシファー」

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カルタゴでは、フェニキア人が赤ん坊を丸焼きにする「バアル信仰の儀式」があり、ユダヤ人がこのような邪教に陥らない為に、シリアの風の神「ヤハウェ」を主神とする一神教を打ち出したと言われている。
言うまでもなく、ユダヤ人の選択は人として正しい。

だが、フェニキア人の悪魔的儀式は、バアル信仰が原因という訳ではない。
何を隠そう、 「ヤハウェ=バアル」であり、ヤハウェの正体はバアルなのだが、これは一筋縄ではいかないので、この話の続きは別の機会に詳述する。

さて、ソロモンの母親はヒッタイト人であった。
『旧約聖書』の「列王記」で、ソロモンは次のように語っている。

「主は日を天に置かれた。
しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。
わたしはあなたのために高き家、永遠の御住まいを建てた」


スサノオも、これと同じような表現をしている。

――八雲たつ出雲八重垣つまごみに
八重垣造るその八重垣を――


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異端の歴史学者・木村鷹太郎氏は、八雲(ヤクモ)と出雲(イズモ)は「ヤコブ」と「エドム」だと主張した。
エドムは本名を「エサウ」といい、ヤコブ(イスラエル)の双子の兄である。
つまり、エドム人はイスラエル12支族の兄弟民族なのだ。

『創世記』によると、彼らは産まれた時から対抗的な関係にあり、確執のある兄弟だったが後に和解した。
しかし、エサウの子孫であるエドム人とヤコブの子孫であるイスラエル人は、互いに張り合う民となった。
また、エサウは長子の特権として、2倍の相続権と、神からの祝福を与えられていたが、一杯の食物で弟のヤコブに売ってしまったらしい。

元来、弟ヤコブ(イスラエル)ではなく、兄エサウ(エドム)に神権が与えられていたのだ。
そしてエサウが40歳の時、2人のヒッタイト人を妻にめとり、エドム人もヒッタイトとのハイブリッド民族となった。
更に、エドム人はイスラエル民族の中に融け混んでいった。

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ソロモンは、製鉄によってイスラエル王国を繁栄に導いたが、エドムの地(紅海の岸)でタルシン船を製造し、貿易でも巨富を築いた。
マレー半島に、ソロモンの名が登場する『鹿とワニの民話』は、『出雲風土記』の「因幡の白兎」に酷似しており、この当時から「海のシルクロード」が出来ていたようである。

また、大分県の国東半島に、紀元前10世紀頃の製鉄所と思われる、東洋最大の遺跡が発見され、その製鉄方法は聖書の記述通り「赤土から採る」というもので、出雲族(エドム族)が日本列島にも来ていた可能性が高い。
勿論、イスラエル民族も海路ルートで日本列島に渡来していた可能性も高い。

その他、「天皇アラブ渡来説」や「天皇エジプト渡来説」などもあるが、アラブ人やエジプト人が渡来したことがあったとしても不思議ではない。
尚、古代エジプト型の構造船が出土した大阪府堺市では、商売の神様としてエビス(えべっさん)信仰が盛んである。

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紀元前3世紀のエジプト人マネトは、「エジプトを支配していたヒクソスが、後にユダヤと呼ばれる国にエルサレムという町を築いた」と述べており、それはフェニキア人だという。
フェニキア人は、エブス人と呼ばれる民族が主体だったという説もあるが、彼らがエドム人と共に南港に上陸し、堺市に住み着いてエビス信仰をもたらしたようだ。

またこの頃に、イスラエル民族がアメリカ大陸にも渡って、ホピ族と同化していたとすると、モルモン教の主張もあながち的外れではないことになる。
また、フェニキアのユダヤ系カナン人の一部がヨーロッパに移住し、商人として財を築いた彼らは、ヨーロッパの王侯貴族の中に溶け込んで白人となり、いわゆるユダヤ財閥になったと思われる。
そして、中国に亡命したユダヤ人の末裔が、華僑だろう。

尚、ケルト人も日本人のルーツになっているという説もあるが、これは正しくもあり、正確でもない。
ケルト人とは、中央アジアの草原から馬と戦車(車輪付きの乗り物)を持って、ヨーロッパに鉄器文明をもたらしたインド・ヨーロッパ語族のことで、言うまでもなくヒッタイト人(スキタイ人)である。
つまり、日本列島と逆の方角のヨーロッパに移住したヒッタイト人が、ケルト人だと定義して良いだろう。

ちなみに、エサウは「赤い」「毛深い」という意味だが、日本列島の原住民とされる毛人は、エドム人である可能性も高い。
いずれにせよ、エドム人(出雲族)は、海のシルクロードの先住民(ポリネシアン等の環太平洋海人族)と、太いパイプが出来ていたことは間違いない。
posted by 夢蛇鬼 at 21:33| Comment(4) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アレクサンドロスと秦始皇帝の謎

天文学者の飯島忠夫氏は、中国古典の天文記事には、中国で観測されなかったはずのバビロニアの星も記されており、中国の天文学はバビロニアの天文学そのものだという論文を発表した。
だが、バビロニアの天文学はシュメールの天文学を受け継いだものであり、シュメール人を追い出したアッカド人が、バビロニアを築いたという事実から判断すると、やはり、シュメール人一派が中国大陸の原住民となり、長江文明や黄河文明を築いたということになる。
そして、周代や春秋時代という王朝時代を経て、晋、そして秦の時代が始まった。

秦氏は秦始皇帝の子孫を名乗っているが、実のところ「ユダヤ人原始キリスト教徒」だった可能性が非常に高い。
詳細は、飛鳥昭雄氏+三神たける氏の共著『失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』(学研)をお読み頂きたい。

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実際、秦は紀元前778年から始まったとされているので、秦氏が秦始皇帝だったとすると、年代が全く合わない。
秦は紀元前221年に中国を統一し、紀元前206年に滅亡したが、それまでの期間が秦代と呼ばれているが、晋や秦はシュメールの月神「シン」に通じ、原住民の国だったのではないかと思われる。
そして忘れてはいけないのが、ヒッタイト人やイスラエル10支族の中国大陸進出である。

だが、それだけではない。
秦代以前の紀元前597年、南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕虜として連れ去られたが、後にペルシアによって解放された。
ペルシアには数多くのヒッタイト人(スキタイ人)がいた。
2支族もヒッタイトとの結び付きが深く、ダビデの時代から血統的に同化していた。
イエスの自我はゾロアスターだという説があるが、先述の通り、もしゾロアスターがスサの王だったとしたら、ゾロアスターもまた「スサノオ」の御魂を持つ預言者で、ダビデ王やソロモン王、イエスも「スサノオ」だったと言えるだろう。

2支族がスペインに移住したことは定説だが、実は10支族同様、南アジアや東アジアにも多くのユダヤ人が移住していたことが明らかになっている。
イスラエル2支族が中国の原住民国「シン」を支配したのだろうか。
「鹿島史観」を打ち出した故・鹿島昇氏は、中国の古典「秦本紀」はペルシア史を漢訳した偽史であり、始皇帝以前の記録は、アレクサンドロスが戦ったアケメネス朝ペルシアの歴史だと主張した。
尚、ユダヤ人が遺した「マカベア書」に、アレクサンドロスの出自が「ヒッティム(ヒッタイト)の地」と記されており、ヒッタイトの粘土板には「アラクサンドゥス(アレクサンドロス)」の名が登場する。

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そして、秦(ハタ)はハッティ(ヒッタイト)ではないかという説もあり、その関連性も否定できない。
さて、中国ではローマ帝国を「大秦」と呼ぶが、仏典に記されている「大秦」はバクトリア王国を指しており、ギリシア人によって建国されたバクトリアも「大秦」と呼び、中国の「秦」はその植民地だったと考えられている。
そして、秦始皇帝はバクトリア王「ディオドトス」で、兵馬俑はペルシャ軍だというが、実際、秦始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があり、始皇帝陵の陪葬墓で出土した人骨からも、ペルシャ系のDNAが検出されている。

鹿島説では、バビロンに捕虜となっていたユダヤ人(2支族)は、ペルシアによって解放された後、ペルシアに仕えて植民地・中国の建設に参加した者もいた。
その後、紀元前334年、アレクサンドロスがペルシア軍を壊滅させ、この時にアレクサンドロスの軍に大勢のユダヤ人が参加し、秦の支配者となったらしい。
そして、紀元前209年、河南人が反乱を起こしたが、秦の討伐軍に破れ、旧楚の名族である項梁が反秦軍を受け継いだ。

漢の創始者・劉邦はその部下として動き、秦を滅ぼして前漢(紀元前206年〜西暦8年)の時代となったが、これも年代的に秦氏(原始キリスト教徒)と関係があるとは思えない。
ちなみに、万里の長城や、土を押し固めて造られた中国の巨大ピラミッド群は、前漢時代に造られたものだと考えられている。
その後、前漢は一旦滅んだが、皇族の劉秀によって再興され、これを後漢と呼ぶ。

後漢は西暦25〜220年に興った王朝で、「三国志」として知られているが、西暦30年以降に原始キリスト教徒が漢王朝に融け込んだ可能性が高い。
念の為に説明しておくが、本来はユダ族をユダヤ人と呼び、広義の意味では、ユダ族とベニヤミン族を合わせた南ユダ王国の2支族、そして祭司職という特別な立場から12支族に数えない「レビ族」を「ユダヤ人」という。
従って、イスラエル10支族が日本列島に来ただけでは「日ユ同祖論」は成立しない。
posted by 夢蛇鬼 at 07:02| Comment(0) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三国史記と失われたイスラエル10支族の謎

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ヒッタイト帝国滅亡後、ヒッタイト人はヒマラヤ周辺に民族移動したという説もある。
だとすれば、イラン高原を経由してインド亜大陸に入ったということは間違いないだろう。
だが、ヒッタイト人が移動したのは、インド亜大陸だけとは限らない。
ヒマラヤ周辺ということは、パミール高原も該当する。
そして、インドと中国を結ぶルートは、パミール越えと天山越えがあるが、天山を隔てて西にカザフスタンが隣接している。

現在のカザフスタンはロシア語が使われているが、日本人とカザフスタン人のDNAは90%同じで、ゾロアスターが誕生した地でもある。
イラン・インドのアーリア人のルーツとなった中央アジアの遊牧アーリア人は、夢蛇鬼説ではヒッタイト人である。
彼らは司祭を中心とし、部族単位で麦を栽培し、自然現象を神として信仰していた。

紀元前646年、エラムはアッシリアに滅ぼされ、スサは完全に破壊された。
その後、ペルシア帝国が興り、紀元前550年頃にメディアが滅ぼされ、ペルシア人との同化が進んだとされているが、スサの王(スメラ族)の騎馬部隊は北東アジアに進出した。
この頃には、もう一方のヒッタイト人(新ヒッタイトを築いた騎馬民族)との違いは分からないが、いずれもユーラシア大陸を闊歩する遊牧民タタール人になったことは間違いないだろう。

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アリオンによると、スサノオの父の名前は「フツ」だという。
確かに、出雲の宇美神社には、スサノオの父である「布都御魂(フツノミタマ)」が祀られている。
更に、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社には、「布都御魂」「布都斯御魂(フツシノミタマ)=スサノオ」「布留御魂(フルノミタマ)=ニギハヤヒ」「宇摩志麻治尊(ウマシマジノミコト)=ニギハヤヒの長男」が祀られており、フツ、フツシ、フルという名前は、モンゴル系民族の名前だという。

これは、シュメール出身のスメラ族がヒッタイト人となり、スサに移住した後に、モンゴル高原に進出してきたことを物語っているのではないだろうか。
ちなみに、石上は石神に通じ、青森の鉄・巨石文化を象徴する磐石信仰に通じる。
「いそのかみ」という読み方は「五十の神」に通じ、シュメールの「五十柱の神」にも通じる。
また、『日本書紀』には、スサノオが「五十猛神(イタケルノカミ)」を率いて天降ったことが記されている。
だが、モンゴルに定住したスメラ族が、朝鮮半島から日本列島に渡来したのかというと、それがどうも違うのである。

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アリオン曰く、彼らはパミール高原から海路ルートでやってきたという。
やはり、中央アジアの真ん中に位置する世界の屋根「パミール高原」がキーである。
パミール高原を越えた先は、イラン高原から南アジアに移動したヒッタイト人がいる。
彼らは、パミール高原をルートに交流していたことは恐らく間違いない。

それを裏付けるのが、インドの「タータラ」である。
タタラの語源は、タタール族のダッタン語で熱を意味する「タタトル」だと言われているが、インドのサンスクリット語でも熱を「タータラ」という。
ヒンディー語では鋼を「サケラー」といい、出雲で鋼を「ケラ」と呼ぶのに似ている。
また、ミャンマー語でも刀は「カタナ」である。
そして、古代朝鮮語でもタタラは「もっと加熱する」という意味で、明らかに製鉄と関連した言葉で、インド・中国・朝鮮の繋がりを無視することはできない。

古事記によると、朝鮮半島南西部にあった百済や新羅との交渉の場に、「たたら場」という言葉が登場する。
また、パミール高原の麓のタジキスタンを中心に、アフガニスタン北部や中国領ウイグル自治区に居住するタジク族は、中央アジアの多くの民族の系譜を引いているが、インド・ヨーロッパ系の言語を使い、カザフ族やモンゴル族に似て、勇壮なこと好むという。
以上の事から、タジク族もヒッタイト系民族の末裔であることは間違いないだろう。

更に、タジキスタンには「クダラ」という地名が残っているが、クダラの民族が朝鮮半島に移動して、百済を建国した可能性もある。
百済は、346年〜660年に朝鮮半島南西部にあった国だが、『三国史記』では、紀元前18から存在したとされおり、史実とは考えられていないが、紀元前から存在した可能性はある。

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『三国史記』の「百済本紀」によれば、扶余王・解扶婁(カイフル)の庶孫の、優台(ユウタイ)と召西奴(ショウセイヌ)との間に、沸流(フツリュウ)と温祚(オンソ)が生まれたという。
「扶余」とは、満州(中国の東北部とモンゴル高原)に住んでいた民族である。
「カイフル」や「フツリュウ」には「フツ」が付いているが、スサノオの家系なのではないだろうか。
少なくとも、スサノオは扶余族だったはずで、当然ながら扶余族は、モンゴル高原を遊牧する騎馬系遊牧民(タタール人=ヒッタイト人)だったと考えて良い。

彼らがインド地方に移住したヒッタイト人と交流があったことを示す事例も存在する。
釈迦に最後の食事を給したのが鍛冶工のチュンダ(漢訳では純陀)だとされているが、これは百済の武寧王の子「純陀太子」だったのではないだろうか。

ヒッタイトは牡牛族だが、釈迦も牛を神使とし、インドラは「牛の主=バアル」であり、ハラッパーでは角を生やした神像が出土している。
そして、釈迦の時代を考えると、やはり百済は少なくとも紀元前500年以上前から存在したと言える。
ちなみに、桓武天皇の実母・高野新笠は、家系図によると百済の武寧王の子純陀太子から出ている。
釈迦も満州から来たヒッタイト一派の系譜だった可能性が高い。

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以前、釈迦はイスラエル10支族のガド族の末裔である可能性が高いということを述べたが、恐らく扶余族は、10支族とスキタイ(ヒッタイト人)が同化した民族だったのだ。
釈迦を生んだシャーキャ族(サカ族)は、天山・パミール地区からカスピ海にかけて栄えたペルシャ系の遊族民族だとされているが、要はサカ族とは「スキタイ」のことである。
スキタイ一派は農耕も行なっていたが、扶余の宰相が解夫婁に次のように述べ、解夫婁は東扶余に遷都した。

「天の神の子孫がいずれ国を作ります。
東海に迦葉原という地があり、そこは五穀が良く実ります。
ここを離れ、その地に都を遷してください」


このように、扶余族(スキタイ)は農耕民でもあり、日本に稲作文化をもたらしたのもスサノオだと言われているが、釈迦の父は「浄飯王」、つまり米を主食とする民族で、インドの歴史学者チャクラヴァルティも、「シャカ族は、ネパール地域のモンゴル人だった」と述べている。

ヒマラヤからアッサム、雲南にかけての山岳地帯に住む蒙古系人種をキターラというが、インドの古文献にも「シャカ族はキラータ」と書かれており、ネパールのシャカ族の末裔を名乗る一族の赤ん坊には、実際に蒙古斑が出るという。
やはり扶余族は、ヒッタイト民族とイスラエル10支族のハイブリッド民族だったのだ。
その証拠に、扶余王の解夫婁(カイフル)は「ヘブル」と読むが、ヘブルとは「ヘブライ人=イスラエル民族」のことである。

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また、半島北部から満州地方にあった高句麗の始祖・朱蒙(温祚の父)も扶余族だが、『三国史記』の建国神話によると、紀元前18年高句麗の王族が10人の家臣と大勢の民衆と共に南方に逃れ、現在のソウルに建国したという。
「10人の家臣と大勢の民衆」とは、ズバリ「イスラエル10支族」ではないのか。
そして、イスラエル10支族も牛神「アモン=バアル」を信仰する牡牛族で、朝鮮に「牛頭州」という地名があり、ソウルの「ウル」もシュメールの首都ウル(牛の意)とも無関係ではないだろう。
ちなみに、牛を聖獣とする一族を、朝鮮語で「ウル・サラム(牛人)」という。

紀元前922年頃、イスラエル王国が分裂し、2支族がエルサレムを首都とする南ユダ王国を建国し、10支族がサマリアを首都とする北イスラエル王朝を樹立した。
その2世紀後の紀元前722年、北イスラエル王朝はアッシリア帝国に侵攻され、10支族は捕虜として連れ去られた後、歴史の表舞台から消息を絶った。
まず、彼らはユーフラテス河を遡り、メソポタミア地方に来たことは間違いないだろう。
そこにはエラム王国があり、首都スサにヒッタイト王(スサの王=スメラミコト)が移り住んでいた。

「スメラミコト」はヘブライ語で「サマリアの王」だという説があるが、トルコには、4世紀頃に建設されたとされる「スメラ修道院」というギリシア正教会の廃墟が遺されており、スメラミコトの名残りである可能性もある。
いずれにしても私は、彼らが合流した可能性は高いと見ている。

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そして紀元前644年、エラム王国もアッシリア人に滅ぼされた。
既に述べた通り、ヒッタイト人は騎馬戦に長けていた。
ゾロアスターを生んだメディアの部族のいくつかは、スキタイの部族名とも一致している。
この仮説が正しければ、後に北イスラエル王朝滅亡後、イスラエル10支族とスキタイが合流した経緯も納得できる。
つまるところ、これはスメラ族とイスラエル10支族の正式な合体である。

尚、中国の河南省は黄河の南にあることから名付けられた地名で、黄河文明を築いた古代シュメール人一派が定住していたと思われるが、もしかすると後にカナン人の一部が移住したことを暗示しているようにも思える。
そして、カナン人もイスラエル民族に巧みに融け込み、カナン神話の主神「バアル」を信仰する民族である。
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有色アーリア人とゾロアスター教成立の謎

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一説によると、紀元前1160年頃にヒッタイト帝国は滅亡したという。
東南アナトリアに移動して都市国家群を築いた、新ヒッタイトと決裂したグループは、早い時期にアジア全域に進出したことだろう。
恐らく、彼らが「スメラ族」で、タタール人と呼ばれる騎馬系遊牧民の先陣となったと考えられる。
私の仮説では、シュメール王国のスメラミコトはエラム支配時代、またはシュメール王国滅亡後に「スサの王」となった。
そして、ヒッタイト帝国のあったトルコの隣が現在のイランだが、その南西部は「スサ」のあるエラムだった。

エラムは紀元前12世紀頃にバビロニアに侵攻され、バビロニアの影響を強く受けて楔型文字が多様されたが、紀元前8世紀頃までの記録が殆んどない。
この頃に、スメラ族がエラムに移った可能性もある。
また、スメラ族の族長(スメラミコト)が、この時に初めて「スサの王」になった可能性もある。
エラムはメディアと交流があったが、バビロニアの支配を受けたエラム人やスメラ族は、メディアにも進出していたと考えることもできる。
私が言いたいことは、スメラ族がアナトリア(現トルコ)、エラム(現イラン)、パミール高原、メディア(現カザフスタン)のステップ地帯に進出したのではないかということである。

そのメディアで誕生したのが「ゾロアスター」である。
ゾロアスター教は紀元前1000年以上前に誕生したと考えられているが、ヒッタイト帝国が滅亡した時期とほぼ一致し、「マタイによる福音書」で、占星術でメシア(イエス)誕生を予言した「東方の三賢者」の祖がゾロアスターだという伝承があり、シュメールの高度な天文学を彷彿させる。
ゾロアスターはバクトリアの王だったと言われているが、バクトリアが成立したのは紀元前255年頃なので、バクトリア以前のメディア王国のことである。
従って、ゾロアスターがスメラミコト(スサの王)だった可能性も有り得える。

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ゾロアスター教は、日本では「拝火教」として知られているが、火を拝むとはまさに製鉄民ヒッタイトを連想させる。
イランは「アーリア人の国」という意味だが、アーリア人は本来、人種的にコーカソイドである。
ヒッタイト人は「セム系スメラ族」と「アーリア系ハッティ」の混合民族だが、「ヒッタイト」を名乗っていた事から考えて、アーリア人化していたはずである。
それが、エラムやメディアにアーリア言語をもたらしたのだと考えると、アーリア・イラン人が白人ではない理由も氷解する。
そもそも、エラムは言語系統は不明だが、ドラヴィダ語族だったという学説があり、アーリア人の国ではなかったのだ。

アカデミズムでは、紀元前1000年頃にはイラン高原全域にアーリア人が定着し、この時期にイラン高原は鉄器時代に入ったとされているが、これが正しければ、やはり、イラン高原に移住したのはヒッタイトのスメラ族であろう。
そして、イラン高原周辺に移住したヒッタイト人は、インド亜大陸にも進出してインド・アーリア人となったのだろう。
恐らくこの時に、鉄器文明やゾロアスター教の『アヴェスター』をもたらし、『ヴェーダ聖典』を教典とするバラモン教を成立させたのだ。

また、メディア王国のマゴイ族は、血統によって地位を継承する祭司階級だったことから、先住のドラヴィダ人を支配する形でカースト制を作ったのは、彼らだったのかも知れない。
ゾロアスター教とバラモン教・ヒンドゥー教については別の機会に述べるとして、スメラ族の行方を追ってみることにしよう。
posted by 夢蛇鬼 at 05:35| Comment(2) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする