2010年05月03日

ギリシア人とイスラエル人の融合と「日本トルコ同祖論」の謎

「アマテラス」と「スサノオ」の祖先がギリシア人だったとすると、日本の天皇家はイスラエル民族ではなかったことになる。
残念ながら、「日ユ同祖論」は或る種の熱狂的暴論だったのだ。
しかし、全く無関係かと言えばそうではない。
「イスラエル人『卑弥呼』と白人『イエス・キリスト』の謎」で書いたので重複するが、紀元前722年、イスラエル10支族はアッシリア帝国の捕虜として拉致され、アッシリアを敵とするスキタイによって解放された。
ギリシアにはヒッタイトの末裔が浸透しており、ギリシア起源のスキタイ騎馬民族はヒッタイト民族の末裔である。
元々、イスラエル民族はヘテ(ヒッタイト)人を敬い、ダビデの時代から混血も少なくなかった。
それ故、イスラエル民族は騎馬民族でもある。

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飛鳥昭雄+三神たける著『失われた古代ユダヤ王朝「大和」の謎』 でも、次のようにある。
「スキタイの発祥は黒海周辺だといわれており、民族的にはアーリア系で、ギリシア系の文化をもっていたことが分かっている。
が、騎馬軍団で遠い国まで遠征すれば、当然ながら多民族との交わりが多くなり、文化や習俗はもちろん、血縁的関係も深くなった。
失われたイスラエル10支族と接触があれば、間違いなく、彼らと合流したはずだ」


そして、アフガニスタンのパターン人(パトゥシュン人)、インドのカシミール族、ミャンマーのカレン族、ミナシェ族、中国のチャンミン族なども、失われたイスラエル10支族の血を引いていることが明らかになっている。
イザナミの出身地とされるアフガニスタンやインドにも、イスラエル10支族の子孫が実在している事は注目に価する。
また、インドと中国を結ぶルートにパミール高原と天山があるが、天山を隔てた西のカザフスタン人のDNAは、日本人のそれと90%同じである。

紀元前2000〜1500年、今日のカザフスタン付近に、鉄器文化を持ったインド・ヨーロッパ語族が進出してきた。
彼らは「アーリア人=高貴な人」を名乗り、年代的に見ても「ヒッタイト人」である事は間違いない。
アフガニスタン北部のバクトリアは元々、アッシリアが分裂して出来た4王国の1つであるメディア王国の一部で、ゾロアスター生誕の地でもある。

その後、紀元前518年、アケメネス朝ペルシアに制服され、ペルシア帝国の一部となった。
メディアの部族のいくつかはスキタイの部族名とも一致し、北イスラエル王朝滅亡後、失われた10支族とスキタイが合流した経緯も納得できる。
尚、ペルシア神話(ゾロアスター教)はインド神話に大きな影響を与え、ゾロアスター教の善神アフラ・マヅダの正体は「アリオン」だという。

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紀元前597年、南ユダ王国のユダヤ人がバビロニアに滅ぼされ、スペインに亡命したが、一部はバビロンに捕虜として連れ去られ、後にペルシア(スキタイ)によって解放された。
紀元前334年、マケドニアのアレクサンドロスがペルシア軍を壊滅させ、この時にアレクサンドロスの軍に大勢のユダヤ人が参加し、秦の支配者となったらしい。
夢蛇鬼説では、マケドニアもペルシアもヒッタイトの末裔である。
マケドニアは、同じギリシア系民族であるアテナイ・テーバイ連合軍を破ってギリシアの覇権を握った事から考えて、同族のペルシアに侵攻した事は不思議ではない。

そして紀元前37年、エルサレムがヘロデ王に征服され、この頃に高句麗が成立しており、ユダヤ人が高句麗の建国に関与したのではないかと睨んでいた。
高句麗人はカリエン人・バビロン人だが、「ユダヤ人」も含まれていたからだ。
何故なら、前述の通り、紀元前597年に南ユダ王国のユダヤ人がバビロンの捕虜となり、そのままバビロン人と同化したユダヤ人もいたはずだからである。
では、高句麗のカリエン人の子孫であるミャンマーのカレン人が、「イスラエル10支族」の血を引いているのはどういう事なのか。

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「三国史記と失われたイスラエル10支族の謎」で詳述したが、元々、半島北部から満州地方にあった高句麗の始祖・朱蒙(温祚の父)は「扶余族」だが、 「夫余族」の始祖の名は「解夫婁(ヘブル)」といい、ヘブルとは「ヘブライ」のことである。
「扶余族」は北東アジアを席巻していた騎馬民族で、 「タタール人=ヒッタイト人」だとすれば、扶余族は「ヒッタイト+イスラエル10支族」のハイブリッド民族である可能性が濃厚となる。

また、インド・アフガニスタン・イラクに隣接する「トルキスタン」も、元々はアーリア系の国家で、北方のカザフスタン同様にヒッタイト民族の流入があったと考えられる。
トルキスタンは「テュルク人(トルコ人)の国」という意味で、7世紀頃からトルコ系ウイグル族の進入があった。

一方、トルコ共和国はかつてヒッタイト帝国が栄えた地に存在するが、トルコ人は隣国のギリシア人やフランス人、スペイン人等との混血を除いて、自分たちのルーツが中央アジアの騎馬民族であり、それが西方へ移動してトルコ人になったと信じている。
つまり、それは古代トルキスタン人(ヒッタイト人)であり、トルコ人はヒッタイト人の郷帰り民族だと考えられる。
更に彼らは、中央アジアの騎馬民族が東方へ行ったのが日本人だと信じており、かなりの親日国であるらしい。
実際に、純正のトルコ人の顔は、戦前の日本人と良く似ていると言われている。
ここに「日本トルコ同祖論」の仮説が成立する。

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そして、中央アジアの騎馬民族が「ヒッタイト+イスラエル10支族」であるなら、トルコ人にもイスラエル10支族の血が流れている事になる。
「日ユ同祖論」というよりも、日本人とトルコ人が同じ祖先を持っているとした方が的確である。
トルコ人がギリシア人やスペイン人との混血があったとしても、ギリシア人にもヒッタイトの血が流れており、多くのスペイン人にもユダヤ人の血が流れている。

また、日本人同様、トルコ人にもインド人の血が流れていると思われる。
古代トルキスタンはシルクロードの要所として発達し、古代ギリシア・ローマ文化や仏教、イスラム教などが交錯した。
そして、「トルコ共和国」「東トルキスタン共和国」の国旗はインドの国旗と同じく、三日月と星が描かれている。
アリオンの預言者の北川氏によれば、三日月は「日向族」、星は「出雲族」のシンボルらしい。

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卑弥呼の祭政形態である鬼道が、太陽神アポローンに仕える「ピューティア」と呼ばれるギリシアの巫女の特徴を備えている事を紹介したが、以前述べた通り、これはモーゼの祭政形態にも共通する。
そして、卑弥呼は牛(ツルカルナイン=角がある人)であると同時に、蛇(ヤマタノオロチ)でもあった。

モーゼは牛神「バアル」を崇拝し、黄金の子牛を祀っていた。
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂のモーゼ像に角が生えており、ギュスターヴ・ドレの聖画でもモーゼの頭に角が描かれている。
モーゼが「牡牛族」だったことは疑う余地がないが、蛇に変身する魔法の杖や、旗竿に絡む青銅の蛇を持っていた。

これは、2匹の蛇が絡み付くヘルメスの杖と符合するだけではなく、ギリシア神話の太陽神アポローンの息子アスクレピオスが持っている杖にも蛇が巻き付いている。
その他、ローマ神話のアイスクラピウス、フェニキアやカルタゴで信仰されたエシュムーンも、蛇が巻き付いた杖を持っている。
それらの原型は、シュメール及びバビロニア神話の冥府の神ニンギッジドゥが持つ杖で、やはり蛇が巻き付いている。
そしてニンギッジドゥは、「角のある蛇」を従えている。

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『竹内文書』には、モーゼが来日した事が記されているが、熊本県の弊立神社の秘宝「モーゼのお面」、モーゼと共に渡来したユダヤ人一行が奉納したとされる「水の玉」の存在を考えると、卑弥呼の鬼道とモーゼの関連性は否定できない。
モーゼが来日したかどうかは兎も角、地中海からフェニキア人やエドム人、そしてイスラエル人などが渡来していた事は間違いないだろう。
『出雲風土記』の「因幡の白兎」の神話が、マレー半島の「鹿とワニの民話」に酷似しているが、その中に「ソロモン王」が登場することも鹿兎(シカト)できない。

明治の歴史学者・吉田東五は、
「卑弥呼の城跡は、隼人城の北の姫城村にある」と主張した。
同じく、明治の那珂通世も次のように述べている。
「卑弥呼は熊襲の女酋で、北九州の国々まで威令を奉じた。
女王之所都は曽於郡水郷に姫木城があったと伝えられており、姫木は姫の城で、女王に関係のある地名だろう」


加治木氏はこのように述べている。
「幕末の歴史学者に鶴峯
彼も卑弥呼の邪馬臺国は姫木だといった。
その地域は、いまは隼人町と国分市に分割され、現地に行ってみると想像以上に広大で、その中央に姫木山が急峻な絶壁に囲まれて聳えている。
その姿はモーゼが十戒を授かったというシナイ山によく似ていて、いかにも別世界の仙境を思わせる山城跡である」

(黄金の女王・卑弥呼)

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京都の祇園祭は7月17日に行われるが、同日、イスラエルではシオン祭が行われる。
だが、加治木は次のように主張している。

――大掛かりな設備で知られる祇園祭の「山鉾」や「山笠」や「山車」などは皆、ジンドゥの行事なのである。
それは北はネパールから南はマレーシア、バリ島に至るまで、ジンドゥ教徒のすむ地域で、すべて見られる祭り行事であり、日本のそれとまったく同じだといっていい。
ここで注意していただきたいのは、日本のその行事には、すべて「山」という名が文字の形でついていることである。
この山は「ヤマ」すなわちシバを表しているのである。
シバを日本では「ヤマ」として信仰していたことがわかる――


祇園祭はイスラエルがルーツなのか、インドがルーツなのか……。
恐らく真相はこうだ。
天孫族(日向族+出雲族)はギリシア系インド人だが、「ギリシア系」とはアレクサンドロス率いる騎馬民族「スキタイ」であり、その中には多くのイスラエル民族が混ざっていた。
それ故、天孫族によって「インド」「ギリシア」「イスラエル(ユダヤ)」等の古代オリエントの宗教要素や文化・言語が、日本に流入したのだろう。

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尚、「山」について加治木氏の説明を紹介しておきたい。
@シュメールでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、彼等が神と、その継承者を「シュメール=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、神話の古代国名を生んだのである。

Aシュメールがスメラになったのは、それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。

Bそれより前、バビロンに倒されたシュメール人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系を整えた。

Cこれが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」に漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、このためなのである。

Dこの地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、往来していた。
それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に残っているマレー語やパーリ語やヒンドスタニーの単語が証拠であるし、『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群を形づくっている。


これらを融合したものを導入し、最大勢力に発展したのが「アショカ仏教」だという。
そして、「スメラミコト」はヘブライ語で「サマリアの王」だと言われいる。
「サマリア」とは、10支族が住んでいた北イスラエル王朝の首都である。
更に興味深い事に、4世紀頃のトルコで「スメラ修道院」というギリシア正教会(現在は廃墟)が建立されている。
posted by 夢蛇鬼 at 03:25| Comment(2) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月02日

「アレクサンドロスとアショカ王」の謎と「秦始皇帝と卑弥呼」の秘密

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紀元前327年、アレクサンドロスがマカダ国のナンダ朝を滅ぼした。
その時、チャンドラグプタがアレクサンドロスに気に入られ、紀元前322年に、マウルヤ(孔雀)朝の初代王に即位したという逸話があり、チャンドラグプタは、ギリシア人の史料に「サンドロコットス」の名で記録されている。

マウルヤ朝は、アレクサンドロスの死後、後継者争いの後に誕生したギリシア系の国々、ペルシア、バビロニア、エジプト等との国交が盛んだった事が、アショカ王塔や新ペルシア帝国の記録に残されている。
そして、新ペルシア帝国のセレウコス皇帝は、王女をチャンドラグプタと結婚させ、義理の親子となった。
つまり、マカダ国の3代目の王であるアショカの祖母は、ペルシア人(ギリシア人)だったのだ。

「彼が、世界に広めようとしていたアショカ仏教は、単にシャカ族の王族であった釈迦の教義というよりは、もっとギリシア色の濃いもので、エジプトやバビロンの宗教哲学も取り入れた一大総合宗教だったのである」
(黄金の女王・卑弥呼)

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尚、デリーの鉄柱「アショカ・ピラー」は、チャンドラグプタ2世、即ち、アショカ王の父・ビンドゥサーラが建立したという説もある。
詳細は「イスラエル人『卑弥呼』と白人『イエス・キリスト』の謎」を読み直して頂きたいが、ギリシアにはヒッタイト人の末裔が浸透していた。

紀元前4世紀後半には、ギリシア人国家「マケドニア」のアレクサンドロス大王が、アケメネス朝ペルシャを征服後、パミール高原以西までを征服し、インド・ヨーロッパ・アフリカ・アジアを征服し、ギリシア人及びギリシア文化を流入した。
パミール高原やパキスタンに浸透しているフンザ人もペルシア系で、アレクサンドロス遠征軍「スキタイ」の末裔だと言われている。
もっと言えば、釈迦が誕生する以前から、ユーラシア大陸からインド亜大陸までをスキタイが席巻し、釈迦はそのスキタイ(中国語でサカ族)の王子として誕生した。

紀元前518年頃、現在のアフガニスタンの位置にあったメディア王国が、アケメネス朝ペルシアに征服されてペルシア帝国の一部となったが、紀元前328年頃、アレクサンドロスに征服され、アレクサンドロス率いるギリシア人が在留した。
『竹内文書』の「イザナミ・アフガニスタン出身説」も、卑弥呼がギリシア系の血統だったことを証明している。
的確に言えば、それはバクトリアだった可能性が高い。
紀元前256年頃、アレクサンドロスの後継者「ディオドトス」が反乱を起こし、アフガニスタン北部にギリシア政権「バクトリア王国」を建国。
バクトリアのギリシア人は、インドにおいても宗主権を行使した。

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「アレクサンドロスと秦始皇帝の謎」で詳述したが、バクトリア王国は仏典で「大秦」と記され、秦(ハタ)は「幡」に通じ、神功皇后の子「八幡」に繋がる。
中国の「秦」は大秦(バクトリア王国)の植民地で、金髪碧眼だったという伝説を持つ秦始皇帝の正体が「ディオドトス」だった可能性が高い事は既に述べた通りである。
そして、始皇帝陵から出土した「兵馬俑」は「ペルシア軍=スキタイ」で、殉死の生贄を埴輪で代用している。

これは、殉死を禁止した垂仁天皇を思い出させ、また、マグモニーグルの透視で判明した卑弥呼の墓と共通する。
つまり、卑弥呼の部族はこの風習を受け継いでいたのである。
更に言えば、卑弥呼は秦始皇帝(ディオドトス)の子孫だった可能性もある。
何故なら、ディオドトスはアテネ人だったからである。

また、ゾロアスター教の開祖ゾロアスター(ザラスシュトラ)はバクトリアの王だったという伝説があるが、ピタゴラスはゾロアスターの弟子だったと言われている。
そして、ピタゴラス学派の考え方は、プラトン哲学及びギリシア思想の主流となった。
紀元前343年には、プラトンの弟子アリストテレスがアレクサンドロスの家庭教師となったが、この流れを見ていくと、アショカ仏教には「ゾロアスター教」や「ギリシア神話」の思想も流れていた事は想像に難しくない。

そこで木村鷹太郎氏が、「アラシト」を「アリストテレス」に比定していた事は興味深い。
そして、ゾロアスター教は「拝火教」と和訳されているが、 「火は日」「水は月」であり、ヒミコを「火見子・火巫女・火神子」等と当て字する事も出来る。

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鬼道のギリシア色側面について、加治木氏はこのように述べている。

――ヒミコはなぜ宮殿の奥深くにいて人に会わなかったのか?
なぜ、ただ一人の男子だけが、その言葉を伝えたのか?
その理由がはっきり分かる。
それはギリシャで太陽神アポローンに使えた「ピューティアと呼ばれる巫女」の特徴を全部備えているからである……
古代ギリシャのデルプォイ神殿の背後にある洞窟や、イオニアのディディマの神殿の奥深くに、そのピューティアはいて、岩の裂け目などで湯を沸かし、その音から神の言葉を聞き取って、男性の神官(日本ではサニワという)にそれを伝える。
神官はそれをまた解釈して信者に解説して伝える。
ヒミコの場合と全く同じだし、後世の天皇も、直接だれとも会わず、自分は御簾の中にいて、会いに来たもののコトバは、大中小の「納言」という役人がそれを取り次ぎ、天皇のコトバもまた彼らが取り次ぐという特殊な制度になっていた。
これもまた、ヒミコの場合と全く同じで、それがギリシャ起源のものであることを証明している――


「アマテラス」と「スサノオ」の祖先は、ギリシア人だったのだ。
posted by 夢蛇鬼 at 01:11| Comment(7) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月01日

アショカ王の「カースト仏教」と鉄柱オーパーツの謎

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紀元前317年頃、インドで栄えたマガダ国にマウリヤ朝が興り、3代目のアショカ王(在位:紀元前268年-232年)時代に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一したとされる。
「アショカ王暴君説」もあるが、それが事実なら、スサノオよろしく「荒らぶる王」だったことになる。
だが、それを証明する歴史的資料はなく、暴君説は後世の創作とする意見もある。
いずれにしても、アショカ王の石柱には、パーリ語やギリシャ語で様々な文章が刻まれており、「上座部仏教」を支持していたらしい事が分かっている。

上座部仏教は「小乗仏教」とも呼ばれているが、これは大乗仏教に対する蔑称であり、世界仏教徒会議で「小乗仏教」という呼称を使用しないことが決議されている。
また、上座部仏教はアショカ王の時代に、スリランカ、タイ、ミャンマー(ビルマ)などの東南アジアに伝播した為、「南伝仏教」とも呼ばれる。

釈迦は重要ではない戒律の変更を認めていたが、釈迦の死後、戒律の変更を支持する大衆派と、保守派の上座部の「根本分裂」が起こり、更に枝葉分裂が起きて「部派仏教」の時代に入った。
その中で最も大きな勢力を誇ったのが「説一切有部」で、大乗仏教が主な論敵としたのはこの「説一切有部」だった。
その後、大乗仏教は他の部派仏教を吸収する形で北インドから東アジアに広がったが、説一切有部の分派であるスリランカの一派がこれに対抗し、再び「上座部」の名称を用いたことで部派仏教が終焉を迎え、仏教は「大乗」と「上座部」に二分された。

現在の「上座部」は、この部派仏教の一宗派の教えを起源としており、根本分裂の頃の「上座部」とは異なるという指摘がある。
上座部仏教では、釈迦の教えを純粋に守り伝えてきたとされるが、大乗仏教の経典に残る部派仏教の教えや、パキスタンで発見された別の部派仏教の教典と、上座部のパーリ教典の相違からも確認されている。
要は、現在の「上座部」はアショカ王の時代のそれとは同一とは呼べないが、仏教は大別して「大乗仏教」と「上座部仏教」があるという事だ。
本来の上座部仏教は、釈迦が定めた教義と戒律、智慧と慈悲の実践、即ち「根本分裂」以前の「初期仏教」を根幹に据えていた。

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【上座部の教義】では、輪廻を繰り返す生は苦しみであり、その原因は心の執着(貪瞋癡)である。
心の執着を断ち、輪廻を解脱する方法が「教典の学習」「戒律の厳守」「瞑想修行」だとしている。
確かにこれは、初期仏教の経典「阿含教」の真髄と一致する。
大乗仏教はこれを、「自己の修行により自分だけが救われる小乗仏教」と呼んだのである。
私の個人的意見だが、自己を救えない者が他者を救うことは出来ず、その自己を救済する方法が「上座部」であるなら、それを広めることで各々が自分で自分を救済し、人類救済に繋がると思うのだが……。

この「上座部仏教」の賛否は兎も角、アショカ王が支持していたのが「上座部仏教」だった。
だが、釈迦の教義のみを純粋に守り伝えるというスタンスではなく、アショカ王は仏教以外の様々な宗教をも保護した事が分かっている。
アショカ王の政治は、ダルマ(仏教の法)を前面に押し出さず、バラモン教、ジャイナ教、アージーヴィカ教などを、仏教と対等の立場として位置付けていた。

アショカ王のダルマの内容は、「不殺生」「正しい人間関係」「父母に従順」「礼儀正しく」「バラモンやシャモンを敬い、布施を怠らないこと」「年長者を敬うこと」「奴隷や貧民を正しく扱い、他者の立場を配慮すること」などで、バラモン教・ヒンドゥー教のカースト制度も採用している事が分かるが、あくまでも共生の理念が根本にある。
これは、邪馬台国の社会システムにも共通する。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国の厳しい階級制度について記されているが、仏教の「慈悲」の思想によって共存共栄が図られていた。

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加治木氏は『黄金の女王・卑弥呼』の中で、このように述べている。

――ソナカの初代がインドを出発したのは、紀元前三世紀の半ばだから、ヒミコの時代まで五百年たっている。
それでも日本列島に到着したその支配者は、やはりソナカの名を持ち続けていた。
この数世紀にわたる永続する支配力は何によるのだろう?
その答えは、その統治システムにある。
それはインド独特の「カースト制度」である。
これは「四姓」という階級を永久に持続させるシステムで、時代とは無関係に、機械的に「同じ仕事」をこなしていく。
古代の変化の少ない経済基盤は、権力闘争ですべてが破壊される以外には、ほとんど変わらなかったから、その「権力闘争」が起こらないシステムの社会構造が、うまくいけば国は栄えた。
それはちょうど「アリ=蟻」の社会である。
だから今からみればずいぶん不合理な、非人道的なカースト制だが、当時はそれがうまく機能したし、また仏教の教義として「慈悲・絶対の平和主義」があった。
だからカリエンその他の人々とも共存し、国民にも広く支持されたのである。
このこともヒミコの「鬼道」の中身として、忘れてはならないものなのである――


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尚、『雑阿含経』には、アショカ王の前世の因縁についての説話がある。
釈迦が弟子のアーナンダーを連れて行乞していると、徳勝童子と無勝童子が砂遊びをしていた。
徳勝は釈迦を見ると、砂の餅を作って供養し、無勝は合掌した。

釈迦はアーナンダーにこう言った。
「この童子は、私が滅度して100年後に華氏城で転輪聖王になるであろう。
姓は孔雀、名を阿育(アショカ)といい、仏法を以て国を治め、8万4千の仏塔を建立し、衆生を安楽にするであろう」


この予言通り、頻頭沙羅王の王子として、徳勝は無憂(アショカ)、無勝は離憂という名前で生まれたとされている。
さて、アショカ王には数多くの王子がいたが、彼らは総督や将軍として各地に派遣されていた。
これが、「アショカ仏教宣布団」の各リーダーだったのだろうか。

『プラーナ文献』によると、アショカ王の次の王は「クラーナ」だとされているが、他の伝説や仏典の記録とは名前も年代も一致しておらず、アショカ王の死後、王位争奪戦によって王朝は分裂し、紀元前2世紀初頭にはシュンガ朝の勃興により滅亡している。
アリオン説では、ソナカ(出雲族)が王位継承の証である「十種神宝」を所有していたとされ、ソナカがアショカ王の真の王位継承者だった可能性が高い。
だとすれば、アショカ王がイスラエル10支族の末裔だったのだろうか……。
それは、もう少し時代を遡る必要があるが、興味深い話がある。

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インドのデリー郊外に、1500年間錆びない鉄柱があり、オーパーツとして知られているが、一説ではアショカ王の建造物とされ、「アショカ・ピラー」と呼ばれている。
高度な製鉄技術を持つ民族と言えば、真っ先にヒッタイト人が思い浮かぶ。
そして、ソナカ率いる「出雲族」も製鉄民だった。
アショカ王とは、一体何者なのだろうか……。
そう言えば、釈迦も「サカ族=スキタイ」で、夢蛇鬼説では「ヒッタイト+イスラエル10支族」の末裔である。
果たして、真相は如何に……。
posted by 夢蛇鬼 at 04:34| Comment(4) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

インドから渡海した「出雲族=ソナカ仏教布教団」と「鬼道」の関係

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アリオンによれば、人類の進化を促し、真の繁栄に導くことを目的に、紀元前3〜2世紀、パミール高原を旅立った複数のアマ族のグループの内、2グループがインドを経由して、陸路と海路に分かれて日本列島を目指したという。
実は、これと良く似た話が存在する。
そう、天照大神が「ニニギ」と「ニギハヤヒ」を、高天原から天孫降臨させた話である。
だが、この神話の真相は加治木氏が解明している通り、「高天原(コー・オマ・ゲン)」=「熊毛」だった。

しかし、歴史は繰り返す……という事は、それ以前にも「天孫降臨」は起きたはずで、パミール高原からアマ族の2グループが熊毛地方に上陸した事が、それに当たると言えるだろう。
でも実は、アリオンの話に似ているのは「天孫降臨」の事ではない。
紀元前308年〜紀元前257年、アショカ王がインドの辺りから、東西南北に仏教宣教師団を派遣している。
その数、一方向につき、護衛の軍隊を含めて1万人にも及び、5年毎に会議を開いて報告させたことが、岩に刻んで記録されている。
西に向かったグループは、エジプトのアレクサンドリアで仏教を布教したことが、エジプト側にも記録が残っており、その他、シリア、マケドニア、チレニア、イピルス等の国々で布教したことが記録されている。
しかし、東に向かったグループの記録が残っていないらしい。

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だが、各国に散らばったグループの、部族名と行き先の記録は残っているらしく、加治木氏がそれを解読している。

――アショカ王が四方に派遣した人々の顔ぶれを見てみると、「アパランタカへ行ったヨナカ」というのがある。
これは中国で当て字したものを見ると「阿波蘭多迦」となっている。
この国名は「阿波」と「タカ」という名前の組み合わせが日本的でおもしろい。
それは別の字を使うと「芦原の高」(福井県に[芦原=アハラ]温泉がある)と書くこともできる。
また「ヤナカ・ロカに行ったマハーラッキタ」がある。
これも東京都の「谷中(ヤナカ)」と同じ発音だし、梁河・柳川といった当て字もできる。
「タムバ・パンニディーパへ行ったウッチヤ」というのもある。これは「丹波」に合う。
次が「スバンナ・ブーミーへ行ったソナカ」だ。
私たちの「ソナカ」とまったく同じ名の人がいるのである。
この「ロカとかディーパとかマハーラッキタ」とかいうのは、「世界、地帯、島、地方」といった意味のコトバであるから、ソナカ氏が行ったのは「スバンナ」というところだった。
これに「邪馬臺国」を見比べてみると「邪=ス」「馬=バ」「ン=の」「国=ナ」と、いかにもそれらしく見えるのである――


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――また他の当て字を使って「諏訪の国」と書くこともできるから、これは確かに日本のことだという気がするかもしれない。
しかしそう思うのは早合点で、この国はミャンマー(=ビルマ)のことだと分かっている。
だが「それでは日本と全然、無関係だ」と思うと、それもまた早合点なのである。
この「スバンナ」は、アショカ王やお釈迦様が使っていた古代インド語の「パーリ語」で、黄金という意味である。
これは日本が「黄金の国ジパング」としてマルコポーロに紹介されたことを思い出させる。
それは十三世紀のことだが、彼はその情報を中国人から聞いたのである。
その中国ではいつから日本と黄金を結び付けて考えていたのか分からない。
「こがね(黄金)花咲く」とうたわれた奥州は、まだ正確には分からないほど、もっと古くからの産金地だったからである。
同じ十三世紀に、暴風にあって沖縄へ流れ着いた九州の商人が写生したスケッチがあるが、その風俗は完全に、今ビルマからタイにかけて住んでいる「カリエン人」と同じなのである。
それはどちらも鉢巻きを左結びにするところまで同じだし、沖縄の婦人たちが、髪の毛を巻いて、一本のカンザシで止める、あの風俗もまた共通なのである。
……だからソナカ氏一行が、ビルマからマレーに、そしてインドネシアにと、足をのばして日本まできた可能性は、いよいよ強くなってきた。
なぜなら卑弥呼の「鬼道」は「シンドゥ教」の要素が多分に入っているだけでなく、それ以外にソナカ氏がインド東方に広めた仏教や、そのほかの宗教の要素らしいものまで、また多分に入っているからである――


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やはり、ソナカ(スサノオ)はインドから日本に来ていたのだ。
だが、これは紀元前3〜2世紀の話であり、卑弥呼(神功皇后)の夫のソナカ(仲哀天皇)の事ではない。

アリオンは言う。

「海路グループの族長は、スサノオの曾祖父、およびスサノオの父フツであった」

つまり、後にスサノオを生んだ部族「ソナカ王家=出雲族」が渡来したという事なのだ。
では、卑弥呼の「鬼道」の本当の正体は、一体何なのか。

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引き続き、『黄金の女王・卑弥呼』から抜粋したい。

―――純粋のインドのシンドゥ教は、今でもスリランカのタミル人が宗教戦争を繰り返すくらい神経質で、とても卑弥呼のように多くの宗教要素を「取りいれる」ことはありえない。
これは古代はもっとひどかったことが分かっている。
仏教はそれとは正反対に、シンドゥ教もギリシャの神々も取り入れた。
ガンダーラ仏を見ればお分かりのように、仏像はギリシャ文化の産物なのである。
とすれば卑弥呼の一見シンドゥふうの「鬼道」は、そのソナカ氏の「アショカ仏教」だったとしなければならなくなるのである。
というより彼女の夫がソナカという名をもっており、卑弥呼自身も神功皇后としての名乗りが「ソナカ・タラシヒメ」だったのだから、その「鬼道」と記録されたものこそ、ソナカ家が代々、インドより東方の国へ広め続けてきた「アショカ仏教」そのもので、なければならないことになる――


本当に「鬼道」は仏教だったのか、そして「鬼道」が神道になったのか……。
そうすると、神道の本質は「仏教」という事になるが……。
そして、「シンドゥ」の本当の意味は……。

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加治木の結論は次の通りである。

――「鬼道」がどんなものか大体分かったが、まだ疑問が残っている。
それは仏教とも神道とも、どうも様子が変わり過ぎていることだ。
それはインド発生か、それともヒミコの人種構成に見るように中東起源のものだろうか。
ひとつ日本以外の痕跡を調べてみよう。
先に倭と同じ「エンブダイ」からきたらしい名にだまされた「ジャワ・邪馬台説」を見たが、あそこはなにか教えてはくれないだろうか?
魏の次の晋が末期に余命を保った東晋王朝の時代、三九九年にインドへ旅してマカダ国へも行き、 『仏国記』をのこした中国の僧法顕は、仏教史上では最も有名な人物の一人だが、その『仏国記』の中にも、彼がその旅で実際に見た「ヤバダイコク=耶婆提国」が登場する。
これは名は邪馬臺国に似ているが、彼が記録した旅程と、その位置関係からみて、それが例の「ジャワ・邪馬台説」のヒントになった当時のジャバ国、現在のインドネシアのジャワ島のことだと、はっきり確認できる国である。
その国は、その当時「シンドゥ教国」で、仏教徒も少しはいたが、それはごくわずかだったと書いている。
これは前にお話したように、国の名前はもともと「ジャムブ・ディパ=中国の当て字=閻浮提(エンブダイ)」から、「ジャバ」になったものであった。
だが、この法顕の当て字では「ヤバ」とは読めても「ジャバ」とは読めない。
これは日本のほうも「ジャマダイ」から「ヤマダ」に変わったのと、全く同じ現象をみせている。
ここで少し読者の誤解をといておかねばならない。
それはシンドゥという名の本当の意味だ。
インドでシンドゥ教が、宗教として発展し定着したのは、ヒミコ時代よりずっと後の八世紀のことである。
そしてインドには宗教というコトバはなかった。
だから日本で、古代に呼ばれた「シンドゥ」も宗教名ではなくて、シンド人という「種族名」だったのである。
またジャワで「ジャバ」が「ヤバ」に変わった法顕の時代に、そこでは「仏教」はすたれて「シンドゥ教」になっていたように、倭国でも「鬼道」がすたれて「神道」に変わり、同時に「ジャマダイ」も「ヤマダ」に変わった、という相関関係がはっきり認められる。
ということは、ここで疑問になった「鬼道と仏教と神道の違和感」の原因は、 「神道」とは鬼道ではなくヒミコの後の「人種名」だったためなのだ。
鬼道は神道ではなかったのである……――


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私は過去、「日向族=ユダヤ人」「出雲族=失われた10支族」で、ユダヤ教が神道になったと仮説していたが、検討外れだったようだ。
だとすれば、「日ユ同祖論」も根本的な見直しが必要である。
だが、本当に無関係なのか。
その前に、世界各地に仏教布教団を派遣した「アショカ王」に迫ってみよう。
posted by 夢蛇鬼 at 14:00| Comment(4) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

尼寺の拝み手「卑弥呼」と倭人の正体と日本建国の秘密

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いきなりだが、『黄金の女王・卑弥呼』より抜粋する。

――鹿児島湾に面した大根占(オオネシメ)という町がある。
鹿児島の方言は、大隅側は沖縄語の影響が強いとお話したが、この名は地元では「オニシメ」と発音されている。
これに当て字すると「鬼姫」という名ができる。
これは怖い名だが「鬼道」と書かれた卑弥呼の仕事と、何か共通する何でもある。
また広東語などの南中国語では、「倭人」を「オニ」と読む。
とすれば確かに卑弥呼も天照大神も神功皇后も、実名ともに「鬼姫」だったことはまちがいない。
皆、よろいかぶとに身を固めて、戦争をした記憶をもっているからである。
そしてこの地方では、幼児が夜遊びをしたり、いうことをきかないと、「ワンがくっど(ワニ=倭人が来るぞ)」といっておどかす。
いまもなお、潜在意識の下に、かつて倭人が攻めてきて上陸した記憶が残っているのである――


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『出雲風土記』の「因幡の白兎」の物語は、マレー半島の「鹿とワニの民話」をルーツとしているが、「ワニ」とは海人族の「倭人」のことではないだろうか。
因みに、インドにはワニを神聖な生物として飼育する寺院があり、船の守護神である海神の「金毘羅」は、ヒンドゥー教のガンジス川の神「クンビーラ」をルーツとしているが、それはガンジス川に棲むワニを神格化したものである。
また、パプア・ニューギニア、インドネシアなどに、ワニをトーテムとする部族がいる。

では、「倭」は何を意味するのか。
加治木氏によると、福建語で「倭」の上古音は「ウワイ」で、これは鹿児島の「上井」姓や中国の「優婆夷」と同じ発音で、インド語の「ウパシカ=女性仏教徒」の当て字だという。
「倭国」とは、女性仏教徒の国という意味だったのだ……。
だとすれば、卑弥呼の「鬼道」は仏教で、「天照大神」は仏教の神だったことになる。
加治木氏は、「アマテラス・大神」を「尼寺之・ウガン(拝み手)」という解釈も試みているくらいだ。

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『日本国誕生の秘密はすべて「おとぎ話」にあった』(徳間書店)には、次のように書かれている。

――台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。
それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、<アテナ>出身者は嘉手納(かてな)、<チラナ>出身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。
「<マレア>なる岬の沖を過ぎ、<ラコニア>の沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、やがて四面環海の土地、歓喜の<ヘリオス>(日の大神)の国・<タイナロン>にぞ、着きにけり……」と書いてあります。
<ラコニア>は<六昆>で今のタイ国ですが古代には<ミャンマー>の<ヤンゴン>=ラングーン(六昆)までを含んでいました。
マレアの岬はマレー半島。
四面を海で取り囲まれた大きな土地は、その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。
<ヘリオス>の妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、これが「音を音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。
だから最初の「日本」はタイナロン=台湾で、古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。
これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、本来はこの<ヘリオス>と<ヘラ>のことで、そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。
ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、「天照大神」様と呼ばれたために、後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。
これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります――


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少し加筆しながら整理しよう。
・「琉球」の語源は「リュキア(古代ギリシア領)」で、その中核が、バビロンから来た「カリエン=和人=高麗人」だった。
・永良部島の名を残した「エラム人」は、ペルシアの前身で「スサ」を首都とした。
・インド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれたギリシア人は与那国島の名を残し、「アテナ」出身者は嘉手納、「チラナ」出身者は知覧の名を残した。
・ヒッタイト人は沖縄の「波照間島」(沖縄語でハティマ=ハティ国)の名を残し、朝鮮半島を納めた「アカハチ」や中国の清帝国の祖・金王「ヌルハチ」も、ハティ(ヒッタイト)との繋がりを示している。
・ハティ語はシリア特有の象形文字として見付かっており、ヒッタイトの「ハットウシル三世大王」の印章が発見された「ヨナ国島」とも、切っても切れない関係にある。
・紀元前14世紀のヒッタイト王の名は「ムーワタリ」だが、鹿児島には「馬渡(マワタリ)」という姓があり、九州北部の「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば「ヒッタイト」の当て字である。
・三種の神器の1つである神剣も、日本の鉄器時代の初めのものだけに、ヒッタイト人の物であり象徴である。
・カッシート人は「香椎人」で、その王称「アグム」は『記紀』の天皇を指す言葉「吾君」と酷似している。
・カッシート人は、紀元前1595年、バビロン第1王朝がヒッタイトの侵攻を受けて壊滅した後、バビロニアで勢力を拡大した民族で、カリエン人と同族か、それに近い関係だと思われる。
・その人たちは全部、船に乗って渡海したが、日本語の「フネ」と古代ギリシアの海軍の主力「フェニキア」と切り離して考えられず、沖縄語では「フ二チ国」になり、本土語では「フナキ」で船木姓に一致し、フニチ国は「船津国」と当て字できる。
・ギリシャ神話の「ヘラ」を沖縄語で発音した「ヒラ」に、 「ヒ=日・ラ=国」と当て字されて「日本」が誕生した。
・天照大神は本来、「ヘリオス」と「ヘラ」のことで、そのため性別が決まらない。

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「日本」の国名の由来が、ギリシア神話の女神「ヘラ」だったとは、実に壮大な仮説である。
更に、「卑弥呼の血統には、アテネ人の血と知性と技術と思想と信仰が重なり合っている」とし、仏像はギリシア人によって、ギリシアの神像をモデルに造られ始め、アテネの守護神「アテナ」の像が、十一面観音や馬頭観音になったらしい。
そして卑弥呼は、天照(ゼウス)大神に使えるピュティア(稗田阿礼)として天に送られ、天孫(アマゾン)の指導者として「アテナ」の地位にあったという。
加治木氏は、「卑弥呼」と「稗田阿礼」が同一人物だと言っているのだろうか……。

ギリシア神話の主神「ゼウス」は、天候や雷を操る天空神、「ヘリオス」は太陽神(=天照大神)で、「ヘラ」はゼウスの姉にして正妻である。
ゼウスは様々な女神と交わったが、これは、非インド・ヨーロッパ語族の先住民との和合と融合を象徴していると考えられている。
これは、「日向族は先住民を統合していった」というアリオン説に符合する。
また、加治木氏は「卑弥呼がカリエン人と共存共栄をはかっていたことは、彼女の教えが仏教だったことからみて当然のことだ」と述べている。

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カリエン人について、加治木氏説を私なりにまとめてみた。
カリエン人の出身地であるバビロンは、シュメールがアッカドの支配を受けて出来たバビロニアの首都で、牡牛神マルドゥクを主神としていた。
そして、バビロン崩壊と共に東へ逃れた集団が、南インド経由で沖縄から日本列島と朝鮮半島へ広がった。
彼らは世界最大の宝貝産地だった沖縄を拠点に、中国の殷にそれを供給して中国を統一し、高句麗や蒙古はその販売支社だった。
彼らは「カウリー・高離人・カリエン・カレン・高麗」と呼ばれ、 「コーリア」の語源となり、今のインドや英語で宝貝を「カウリー」「コウリー」と発音する。

前漢が滅んだ後に政権を握った王莽と、聖徳太子の手紙を見て怒った隋の皇帝・煬帝が、高句麗人に江南地方で水田を開発させ、その子孫が西に広がって、ミャンマーのカレン、カレンニの2州を作ったという。
福岡県の香椎宮の祭神は「仲哀天皇」と「神功皇后=卑弥呼」で、同じく福岡県の若椙山でオオヒルメ(卑弥呼)は「香椎聖母大明神」として信仰されている。

また、卑弥呼はカリエン人の女王であった。
だとすれは、やはりカリエン人とカッシート人は、共にバビロニアを出自とする以上、同系統の民族だったのだろう。
だが、卑弥呼の血族は、カリエン人でもカッシート人でもない。
あくまでも卑弥呼(日向族)は、先住民である彼らと共存しただけである。

マクモニーグルには、その違いが解らなかったようだ。
彼らは縄文時代から日本列島にいた人々で、その後に入ってきた倭人(天孫族)とは区別する必要がある。
だが、それを前期倭人と見るなら、その勢力圏は日本から江南、ミャンマーまでの広大な地域に拡がっている。
しかし、少し複雑な話になるが、加治木説によれば、鹿児島では貝を「ケ」と発音し、「貝人」と当て字された。
本土では貝は「カイ」であり、『日本書紀』では「蝦夷」と当て字しているが「エミシ」と読む。
また、「毛人」も「エミシ」で「ケ人=カイ人」という事になる。

「カリエン人=貝人=蝦夷=毛人=アイヌ人」

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だが、卑弥呼の部族、つまり「日向族」はカリエン人ではなかったが、「貝の国」を治めていた事は事実である。
「霧島」の語源が「ギリシャ山」だった事は前に紹介したが、以下、 『黄金の女王・卑弥呼』から原文を抜粋したい。

――中国の正史『旧唐書』では倭国と日本国は別で、その日本の条件は鹿児島に合うが、東と北は大山があって国境になっており、その向こうは「毛人の国」だと書いてある。
その大山はぴったり霧島に一致するが毛は沖縄音「キ」。
中国人のジン=人の発音は「リ」と聞こえる。
「シマ」は「之国」で「キリシマ」。
これでみると『記紀』に出てくる「毛人」はギリシャ系の人々だったことになる。
でもなぜ彼らは「毛人」なんだろう?
『平家物語』の中に僧の俊寛が鬼界ガ島に流された話が出てくるが、それに
「島には人、マレなりけり。おのずから人はあれども衣装なければ、この土(日本のこと)の人にも似ず。
言うコトバをも聞き知らず。
身にはシキリに毛生いつつ、色黒くして牛のごとし」
と書いてある。
裸で、毛深くて、がんじょうで、まるで牛のようだ、というのである。
今でも中近東以西の人は私たちに比べて毛深い人が多い。
これが一つの特徴としてとらえられ、ギリシャという名への当て字としても好都合なので、 「毛人」という呼び名が定着した、とみていい。
これを見ると鬼界ガ島の「鬼」もこの「キ=毛」と同じものであって、「鬼界」とは「ギリシャ人の世界」をあらわす名だったのである。
それが『魏志倭人伝』の「鬼国」「鬼奴国」と密接な関係があることはいうまでもないし、なによりも私たちが今、検討している「鬼道」が、その人々の「道=宗教であり、政治でもある=法」だったのだということである――


毛人のイメージは、まさに九州の豪族「熊襲」にピッタリだが、この霧島は「天孫降臨の地」だという。
後期倭人(弥生人)である天孫族を「天津神」とも言うが、「チヌ」と呼ばれていた沖縄では「キをチ」と発音し、本土語では「キン」になる。
そして、マレー語で黄金を「アマス」といい、鹿児島では「スをッ」と発音するため「天津」という当て字ができ、実際に「チヌ」は「天」の意味を持っているそうだ。

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話が横道に逸れたが、問題は、ギリシア神話では「アテナ」が太陽神ではないという事である。
だが、前に述べた通り、飛鳥説では「観音菩薩=イエス・キリスト=天照大神」であり、「アテナ=観音菩薩=天照大神=卑弥呼」という等式が成り立つ。
更に興味深い事は、前述の木村鷹太郎によると、「アマテラス」の語源はギリシア語の「アマ・テロス」で、その意味は「完全円満全権統治」だという。
結論として、「倭人」とは、あらゆる民族の混合で構成され、それを卑弥呼の「鬼道」によってアマ・テロスされた民衆だったという事になる。

加治木氏も述べているが、ユダヤ人は人種ではなく「ユダヤ教」によって結ばれた民族であるのと同じく、倭人は「鬼道」によって結ばれた民族だったのだ。
ギリシア系インド人を祖先に持つ卑弥呼の鬼道は、「仏教」だったのだろうか。
だが、沖縄語では「天照大神」を「チンヅウ・ウガン」と発音し、本土語に翻訳すると「シンドウ・オガミ」、漢字で「神道・拝み」になるという。

倭国は、慈悲を重んじる卑弥呼の仏教政権により、 「完全円満全権統治」による共存共栄が実現していたが、 『魏志倭人伝』によると、ヒンドゥー教特有の「階級制度=カースト」があった事が記されている。
「鬼道」の真相を究明する為には、もう1つの天孫族、即ち卑弥呼(神功皇后)の夫・スサノオ(仲哀天皇)の部族である「出雲族」について調べる必要がありそうだ。
そして、「ユダヤ人」「失われた10支族」との関係は……。
posted by 夢蛇鬼 at 04:30| Comment(8) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月27日

インディアンの「三種の神器」と「シンドゥ教」の謎

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千手観音のルーツはシヴァの妃である「ドゥルガー」である。
メデューサが「ヤマタノオロチ」を表現しているように、千手観音も「ヤマタノオロチ」を表しているようだ。

加治木氏の著書『日本人のルーツ』にも書かれている。

――その七つ頭の竜神像が、時とともに変型しはじめ、ついには手の多くある菩薩像やシバ神像を生み出し、極限に達して千手千眼観音像にまで変身することは、ここで活字で説明するより、実物の写真の方が余程わかりやすい。
百聞一見に如かずという言葉のとおりである。
この事実は日本の神話を解明する上で八俣の大蛇とは何を意味するか、天照大神とは太陽のことか、太陽を祭る女性のことか、といった未解決の問題を解くことができる重要な鍵として役立つ。
折口信夫は大神を「日の霊(ひるめ)」すなわち日の神につかえるシャーマンだと説き、岡正雄氏は“天の岩戸”神話の部分は、中国南部からアッサムにかけての地域の神話がもとになっている。
と説き、大林太良氏はインドシナ半島を中心にした各地にだけ、それと類似した要素の神話が分布していると指摘している。
その地域はまさに、竜王護仏像とその仲間が分布している地域であることを、特に注意しておいてほしい。
日本神話ではスサノオノミコトは八俣大蛇と戦うだけでなく、日の神天照大神とも争い、ワカヒルメという女性を殺し、そのため天照大神は天の岩戸に隠れて、世界は暗黒になってしまう。
大蛇と日の神が同じものだとすれば、この二つの争いは、本当は一つのものだった可能性がある。
天照大神は日本人にとって神聖な信仰対象だから崇拝する理由をよく知っていなければならないと思う。
そのためには祖神と伝説との関係を明らかにせねばならない――


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――竜王護仏像を裏返して、正面から観察してみよう。
それはだれが見ても、7つの頭をもった奇怪な姿の大きな蛇が、お釈迦様またはビシュヌー神を守っているところである。
疑問の余地はない。
日本の正史である『古事記』『日本書紀』には八俣の大蛇の神話が載っていてスサノオノミコトが退治したことになっている。
8つの頭をもった蛇というのは特殊なもので、自然には存在しない。
そんなものを作り出した創作力は、そうどこにでもあるものではない。
縄文土器からインドの神像までのつながりが実在する以上、日本の八俣大蛇は、日本だけで創作されたとするよりは、インドや東南アジアの竜王護仏像の知識が入ってきたものと考える方が合理的である。
もっとも仏教は神話時代より、ずっと後世に日本に入ってきたと記録されているから、それは仏像というよりは、シンドゥのものという方が、より正確である。
それをスサノオノミコトが討って退治したというのは、そうした宗教の持ち主。
すなわち福田貝塚に人面注口器などを残した縄文人を征服した、というたとえ話だと考えると、ありそうもない怪物の登場する話が、非常に現実味を帯びてくる。
これは一方では縄文人という考古学的要素から割り出した、日本人の先祖中の一グループと、他方では文献上の対象とが、はじめて一つになったということでもある――


タイトルの「インディアン」は「インド人」の意である。
「三種の神器」は出雲族によって、神話と共にインドから日本に持ち込まれた。
通説では、皇室の「三種の神器」はユダヤの神宝をルーツとしてるが、そう単純ではない。
「三種の神器」は、天孫降臨の際、天照大神から授けられた神宝だとされているが、天照大神が卑弥呼であれば、インド由来の神宝だと考えるのが自然である。

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『黄金の女王・卑弥呼』には、「三種の神器」について次のように解説されている。

――[八坂瓊の曲玉]ヤサカニノマガタマ。八坂はヤバン。瓊は赤い宝石。
すなわちヤバン産の赤い宝石で作った曲がった玉という意味の名だ。
しかしそれは文字の意味だけで、それくらいのことは、これまでも分かっていた。
「マガタマ」は「マガタ国」。
すなわちマガダ国を象徴しているが、それがさらに上級の「マケド」(人の国=ニア)も象徴している。
また三種の神器の原型のリュキアの太陽象徴も忘れてはならない。
それは『琉球』という国名にもなっているからである。
[八咫鏡]ヤタノカガミ。
八たはハティ・アタ(阿多)だから「ハチアタ」と読むのが正しい。
世界最高の金属文化と、王権の象徴。
これもヒミコを共立したアショカ仏教宣布団の重要な構成分子だったのである。
[草薙の剣]クサナギノツルギ。
このクサも古謝(クザ)、 「カッシート=香椎人」(の王=ナキ)を示している。
これは八俣の大蛇を退治して得られた剣だから、一度、スサノオに奪われて、返されてきたもの。
このカシーはマレー、インドネシアでは「愛」を意味する言葉で、ヒミコの別名になっている。
「三種の神器とは、ヤヴァナ人(八幡=ギリシア人)を頭に、ハティ人(ヒッタイト人)、カッシート人(香椎人)で構成された倭人文化の象徴だったのである――


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「マガタマ」の語源である古代インドの「マガダ国」はは、ギリシアに隣接する「アレクサンドロス」の出身国「マケドニア」に由来し、夢蛇鬼説では「ヒッタイト人」の末裔である。
「ヤタノカガミ」が「ハティ・アタ」で、ヒッタイトの金属文化と王権の象徴。
そして、「クサナギノツルギ」の「クサ」が「古謝(クザ)」に由来するなら、文字的には「クジャ」であり、 『魏志倭人伝』に登場する「狗邪(クジャ)韓国」に繋がる。
韓国の三国時代の新羅古墳から出土した「三種の神器」の「クサナギノツルギ」の原型は、 「シャカ族(スキタイ)の黄金宝石装宝剣」で、アレクサンドロスも同じ系統の剣を愛用していたとされている。
また、「マガタマ」に相応するのが「リュキアの銀貨」で、卍の模様が施されている。
卍は仏教の紋章だが、アメリカン・インディアンのホピ族が太陽の象徴図形としている通り、リュキアでも太陽を意味していたようで、勾玉も太陽を表している。
この事は改めて詳述するが、琉球の語源である「リュキア」とは、古代ギリシア領の小アジア半島最南部・ロドス島の東北を指す。

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この「三種の神器」の説明の前に、次のような前置きがあった。

――古代ギリシアと古代インドの、切り離すことのできない接点が、必ず、どこかにあったことを考えないわけにはいかない。
そしてそれは「鬼道」に、仏教とシンドゥ教とギリシア文化が渾然一体となっていることと、さらにインド文化がそのまま日本に移入されている事実から、古代にそんなことが可能だった唯一の事件は、マカダ国から派遣されたアショカ仏教宣布団の到来しかないことが、はっきり浮き彫りになって、読み取れるのである。
そして、その支配者「ソナカ」一族の名と、それに付随してきた人々の名までが記録の中に見つかり、さらにそれ以前に日本へ入った先駆者の人々の歴史もまた、中近東の古代名族の名の分布から読み取れることなどで、私たちのヒロイン「ヒミコ」の人種関係もほとんど明瞭になったといえる。
彼女はどこから見てもアーリア系の女性だったのである――


卑弥呼の「鬼道」は、仏教・シンドゥ教・ギリシア文化が一体となったものだったという。
では、「シンドゥ教」と「ヒンドゥー教」の違いは何か。
ヒンドゥー教は4世紀のインドで、バラモン教と民間宗教が融合する事によって成立したとされており、卑弥呼の部族が日本に渡来した頃、インドではまだヒンドゥー教が成立していなかった事になる。
だが、バラモン教は紀元前から徐々にヒンドゥー教に変容したと考えられているので、ヒンドゥー教成立以前から、その原型は出来ていたと思われる。
そして、ヒンドゥーの語源は、古代ペルシア人が「インダス川の対岸(シンドゥの向こうの国)」と呼んだ事に因むと言われており、当時は「シンドゥ教」と呼ばれていた可能性が高い。

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天照大神は父・イザナギに、 「天上の事」をするよう指示を受けたが、加治木氏はこう解説している。

――「天上」=チンヅウ=本土語のシンドウ。これは「神道」と当て字できる。
「天」=チン。沖縄語で沖縄を「ウチナ」と発音するが、これは「大天」と当て字できる。
そして「天に上げる」は、今でも首都へ向かうことを「ノボリ」といい「地方から来た人」の意味で「おノボリさん」というのと同じことである。
だからこの話は、伊是名島(伊勢の島)から、当時首都だった「沖縄本島へ神道を従事させにやった」という常識的な記録だったのだ――


いずれにしても、シンドゥ教が日本に伝わり、鹿児島には今でも「神道(シンドウ)教」という民間宗教が残っている。
これが「神道」の原型で、鹿児島に卑弥呼がいた事から、「鬼道=神道教」と考えることが出来る。
また、仏教は6世紀に伝来したが、紀元前からインド人が日本に渡来していた以上、紀元前から仏教も伝来していたと考えるのが自然である。
加治木氏は、「鬼道は仏教・シンドゥ教・ギリシア文化が一体となったもの」だと定義しているが、仏教はバラモン教のカースト制を否定した宗教であり、カースト制を継承するヒンドゥー教と共存する事は考えにくいし、ヒンドゥー教徒も仏教徒を弾圧した事は想像に難しくない。

事実、仏教はインドに於いて、ヒンドゥー教の成立に伴って5〜12世紀にかけて衰退し、13世紀にイスラム教徒の攻撃を受け、現在の仏教徒はインド国民の0.71%に過ぎない。
では、 「鬼道」は「仏教」なのか、 「シンドゥ教」なのか、或いは「シンドゥ教の影響を受けた仏教」だったのか……。
その前に、「倭人の正体」、そして、卑弥呼を共立した「アショカ仏教宣布団」について調べてみる事にしよう。
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2010年04月26日

インドから伝来したギリシア神話の謎

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異端の歴史学者・木村鷹太郎の古代史観は荒唐無稽ではあるが、見逃せない部分も多い。
日本神話の起源が、ギリシア・ラテン・エジプト・ユダヤにあると主張している点も興味深い。
木村説によると、「天若日子(天稚彦)」と「下照姫」は、ギリシア神話の「アモール彦」と「プシケー姫」に相応しているとする。
「アモール(エロース=キューピット)」は弓矢を携える稚き小児(稚子)で、アモールの発音は「あまわか」と相似し、天津神が天若日子に弓矢を授けた点も符合する。
そして、下照姫は「宗像神」だが、「宗像」はギリシア語の「ムナ−・ムネ」(記憶・心意)で、心意は「プシケー」ともいうそうである。

「オオゲツヒメ」の物語のルーツも、インドネシアから東南アジアからアメリカ大陸にまで分布している「ハイヌヴェレ型神話」である事を前に述べたが、古代では生贄を捧げて豊穣を祈る儀式が世界各地で行われていた。
そして、スサノオは殺戮神から救済神へと変貌するが、これは生贄の風習が廃止されたことを物語っていると解釈されている。
また、殉葬を禁止し、埴輪で生贄を代用した「垂仁天皇=スサノオ」とも重なる。
もっとも、この神話が顕著に現れているのが「遮光器土偶」で、太地母神の土偶はモヘンジョダロやハラッパなどの「インダス文明」の遺跡からも多数発掘されている。

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加治木説で、「八幡」の語源が「ギリシア人」を意味するサンスクリット語の「ヤヴァーナ」である事を紹介したが、その続きで、『黄金の女王・卑弥呼』の中から、ギリシア神話の「牡牛」の物語を紹介したい。

――悪い夢を見て不安になったフェニキアの王女ユーローパ姫は、侍女を連れて浜辺へ花摘みに出かけた。
するとそこにいたマッ白で美しい牡牛が、いかにも背中に座れというように、姫のそばへきて寝そべった。
王女はついにそれに座ってしまった。
すると牡牛はいきなり立ち上がって走りだし、海に飛び込んで泳いでいってしまった。
恐ろしさに姫がシッカリ角につかまっていると、牡牛は
「怖がらなくていい、私はゼウス大神だ。クレタの島までいって私と楽しく暮らそう!」
といった。父王はたいそう悲しんで二人の王子にさがしにいかせる。
王子たちはとうとう見つけられずに、行った先で新しい国を作った、という話がある。
おわかりのようにフェニキア人から見て海の向こうがユーローパ姫の行った国、「ユーローパ」で、今のヨーロッパとは違うのである。
だからそれはフェニキア系の人が、バルカン半島系の人たちを呼んだ名だ。
「悒婁(ユーロー)伝」に書いてあることは、全てギリシア人のものと一致している。
そしてそこは「粛真(チュクチ)氏」の国だったと書いてある。
このチュクチは漢字で書くと「筑紫・菊池」で、もと九州を支配していた人たちである――


『牡牛=ゼウス大神=スサノオ』

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だが、木村説では「イザナギ」も「ゼウス」と同一視され、黄泉行きの神話は「オルフェウス」及び「オジュッセウス」の黄泉行きと符合し、スサノオは「ペルセウス」で、ペルセウスはペルシアの国名と同一にして首都「スサ」の王であるとし、「スサノオ」と「ペルセウス」の共通性について述べている。

「大蛇を斬るや両者同一たり、女子を救ふや同一たり、宝剱を得るや同一たり、両神全然同一にして、一点疑問の余地あるなし。
然りといえども、須佐之男伝にはペルセウスに加ふるにヘーラクレース神話を合併せることを一言し置く」


分かりやすく解説すると、ペルセウス(スサノオ)は剣でメデューサ(髪が蛇の女妖怪=ヤマタノオロチ・又はオオゲツヒメ)の首を斬り落とし、海の怪獣(ヤマタノオロチ)の生贄とされかけていたエチオピアの王女アンドロメダ(クシナダヒメ)を救った。

『メデューサ=卑弥呼』

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また、木村説では仲哀天皇の父・日本武尊(ヤマトタケルノミコト)は「アポローン」だとしているが、アポローンも「スサノオ」と酷似している。
アポローンは主神ゼウスとレートーとの息子で、妹神「アルテミス」と共に「遠矢射るアポローン」として疫病神の性格を持ち、残忍さを併せ持っている。
だが木村説でも、「アポローン」と「スサノオ」の同一性を認めている。
「アジシキ」はアポロン神の別名「アレキシス」が転訛して「アジシキ」と呼ばれるようになったとしているが、それはともかく、「アポローン」と「アルテミス」の関係は「アジシキタカヒコネ」と「下照姫」の関係(兄妹)に比定することが出来る。

そして、「アジシキタカヒコネ」と「天若日子」が瓜2つだったように、やはり「アジシキタカヒコネ」も「白羽の矢」が御神体とされている。
共に「ツヌガアラシト」であり「スサノオ」だが、木村氏は「阿利叱智(アラシト)」を、紀元前3世紀のギリシアの哲学者「アリシタルコス(アリストテレス)」と比定している。
また、「天の日矛=天若日子」については、紀元前2世紀のギリシアの天文学者「ヒパコ(ヒッパルコス)」だとし、 天の日矛の持ってきた「宝玉」は「星座図」のことだという。

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出石神社には、天日槍命(天の日矛)が新羅国から持ってきたとされる「八種の神宝」を御神体として斎祀しており、「八種の神宝」は『古事記』によると、珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・奥津鏡・辺津鏡の八種とされている。
「八種の神宝」の実体は明らかではないが、皇室の「三種の神器」は元々、「十種神宝(とくさのかんだから)」と呼ばれる「十種の神宝」だったという説があり、その内の「八種」なのだろうか。
『悒婁伝』によれば、粛真氏たちが北へ移動し、それを追ってギリシア人も北へ移動し、そこは「赤玉」の産地だと記されており、それが[八坂瓊の曲玉]の原石だったという。

木村氏によれば、筑紫(デュクシ)は「西方」「月」の意で、「ギリシア」のことらしい。
問題は、[八坂瓊の曲玉]である。
これは皇室の「三種の神器」の1つで、ユダヤの「三種の神器」が日本に移された物だとする説が根強い。
これがギリシアとどのような関係があるのか。

北川氏は、アリオンから次のような啓示を受けている。

「先に到着し、すでに強大な国を築きつつあった日向族は出雲族との協力を拒み、逆に出雲族が保持する皇位継承の証である『十種神宝』の引き渡しを要求してきた」

「十種神宝」は出雲族によって、古代日本にもたらされたようだ。
「十種神宝」については別の機会に改めて詳述するとして、まずは「三種の神器」の謎に迫ってみたい。
posted by 夢蛇鬼 at 17:58| Comment(8) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月22日

世にも奇妙な「スサノオ」の物語と「龍牛合体神」の謎

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スサノオは「ツヌガアラシト=角が有る人」で、所謂「牡牛族」であった。
そして、「竜蛇族(ヤマタノオロチ)」である卑弥呼政権を征討した。
ところが、卑弥呼も「ツヌガアラシト=角が有る人」で、スサノオは高天原から追放されたルシファー(7つ頭の竜)でもある。

「牛(鬼)=スサノオ」と「龍=スサノオ」
「牛(鬼)卑弥呼」と「龍=卑弥呼」


つまり、スサノオが退治したヤマタノオロチは、スサノオ自身でもあったことになる。
逆に、「鬼」である卑弥呼が、自分自身である「龍」を退治したと言うことも出来るのだ。
「牡牛族」と「龍蛇族」のミステリーである。
「牡牛族」と「龍蛇族」の戦いは、現在も続いていると言われている。
「牛」をトーテムとする部族や、「竜蛇」をトーテムとする部族は、シュメールの時代から存在した。

だが、既に述べてきた通り、「牡牛」にも「龍蛇」の要素があり、 「龍蛇」にも「牡牛」の要素があり、また、「牡牛」と「龍蛇」をトーテムとする部族も少なくない。
また、「龍蛇族」同士の対立や「牡牛族」同士の対立、或いは、「龍蛇族」に吸収された「牡牛族」や、「牡牛族」に吸収された「龍蛇族」もいた。

また、出雲族の中にも「蛇」をトーテムとした部族と、「牛」をトーテムとした部族があり、日向族の中にも「蛇」をトーテムとした部族と、「牛」をトーテムとした部族がある。
例えば、出雲神族を自称する富氏の伝承では、出雲族は「龍蛇族」で、スサノオは出雲族ではなく、出雲地方の砂鉄を奪う為に朝鮮から渡来した「牡牛族」だという。

だが、「クシナダヒメ」が龍蛇族の姫であるなら、彼女と結婚した「スサノオ」は、出雲を守護したという事になる。
確かに、牛頭天皇であるスサノオは「牡牛族」だが、スサノオは出雲族の族長である。
そして、出雲族は海路ルートで渡来した海人族だが、元来、海人族は蛇神信仰である。
それ以外にも様々な矛盾と複雑性があり、真実を知ることは不可能である。
そこで私はアリオン説を柱とし、アリオン説を解明していく事にチャレンジしたい。
とりあえずここでは、「牡牛(鬼)」と「龍蛇」は本質的に同じものであると解釈せざるを得ない。

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王仁三郎の『伊都能売神諭』では、次のように示されている。

「大国常立之尊の元の誠の姿は、頭に八本角の生えた鬼神の姿で……」

龍神である国常立尊は「鬼」の姿だという。
しかも、8本の角は「龍(ヤマタノオロチ)」を象徴している。
つまり、国常立尊は、『スサノオ(牡牛=鬼)』と『ヤマタノオロチ(龍)』の合体神なのである。
それは、「艮の金神」を見れば分かる通りだ。
艮の金神である「国常立尊」は、まさに「鬼」の姿で描かれているではないか。

「スサノオのヤマタノオロチ退治」を聖書に求めると、「ミカエルのルシファー退治」と符合する。
だが、地上に落とされた「スサノオ」は、聖書でいう「ルシファー」でもある。
スサノオを追放したのはアマテラスだが、倭人・アマテラスの岩戸隠れは、スサノオが隠れて「鬼」となったことに符合する。
更に、アリオンによると、「ミカエルはルシファーと共に戦う天使」だという。
換言すれば、「牛神」は「龍神」と共に戦う天使という事である。

出雲神話に投影されている「牛」と「蛇」の起源は、シュメール神話の牡牛神「ハル」と女蛇神「キ」であり、エジプトに伝わって「ホル」と「ハト・ホル」となった。
中国では「伏羲」と「女」として描かれているが、面白いことに、 「ホル」と「ハト・ホル」は夫婦だが、「伏羲」と「女」は異母兄妹とされている点である。
日本神話では「スサノオ」と「アマテラス」、又は「スサノオ」と「クシナダヒメ」となり、彼らが「牛」と「蛇」のトーテムを持つ夫婦であり、異母姉弟だった可能性を指摘した。

また、「スサノオ」と「アマテラス」を「アジシキタカヒコネ」と「シタテルヒメ」に置き換える事も出来るが、彼らは兄妹の関係だった。
「伏羲」と「女」の下半身は共に「蛇」だが、シュメール神話の「ハル」と「キ」に起源を求めれば、「牛」と「蛇」の合体神が信仰されていたことを示している。

一説によると、「牛=3」「蛇=4」で、その合体は創世神話の原点である「七枝樹(生命の樹)」を意味するとも言われている。
今のところ、「牡牛」と「龍蛇」のトーテムは、その部族が信じていた象徴に過ぎない……と仮定し、これを真相究明のキーワードから外さなければ、永遠に迷宮の出口は見付からない。

アリオンも、「牡牛族と龍蛇族の対立」という表現はしていない。
但し、「牡牛」と「龍蛇」のトーテムを全く無視するのではなく、参考にしながら話を進めていきたい。

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さて、岐阜県美濃市にある大矢田神社の祭神は「スサノオ命」「天若日子命」「阿遲志貴高日子根命」の3神で、やはり同一神とはされていないが、その関係は不明。
それどころか、「スサノオ命」自体が独立した1柱の神となっている。
では、究極的にこの3柱の神は、人間界に於いては同一人物と見なす事も不可能ではない。

逆に、霊的には1神だが、3人の「スサノオ」が存在したと考える事も出来てしまう。
もし、大矢田神社の祭神が3人の「スサノオ」だとすれば、それは一体何者なのか。
それは文字通り、「スサノオ命」「天若日子命」「阿遲志貴高日子根命」なのだが、何故、1神だけが「スサノオ命」とストレートに表記されているのか。

「天若日子命」と「阿遲志貴高日子根命」はスサノオではないのだろうか。
否、今まで検証してきた通り、両者とも「スサノオ」である事は疑いの余地がない。
では、その正体は……。

「出雲族の族長であったフツは、息子スサノオとスサノオの第5子であるトシ(後のニギハヤヒ)らを伴って、九州に陣取る日向族に戦いを挑むことにした」
(アーリオン・メッセージ)

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「トシ」の正体は恐らく、スサノオとオオイチヒメの間に出来た「大年神」で、「宇迦之御魂(ウカノミタマ)」の兄弟である。
「スサノオ」は文字通り「スサノオ」だが、父「フツ」も「スサノオ」であり、子「トシ」も「スサノオ」だと言える。
勿論、同一人物ではない。
親子三代、いわば「スサノオ家系」である。
アリオンは、このフツの子に対して「スサノオ」と呼んでいる。
大矢田神社の祭神は、この親子三代の「スサノオ」なのかも知れない。

彼らは出雲族であり、「牡牛族」である。
スサノオが斬り殺した「オオゲツヒメ」は、穀物神として信仰されている。
穀物神といえば「稲荷神」だが、全国の稲荷神社の総本宮・京都の伏見稲荷には「宇迦之御魂」が祀られている。
前述の通り、「宇迦之御魂」は「スサノオ」と「オオイチヒメ」の子だが、「トヨウケビメ」「ウケモチ」「オオゲツヒメ」等の穀物神の総称だとされている。

まず、「オオイチヒメ」とは一体何者なのか。
スサノオがアマテラスと政略結婚させられる以前に、スサノオの第5子「トシ」は存在した。
だとすれば、3次元的には「オオイチヒメ=アマテラス(卑弥呼)」ではない。
北川説では、「トシ」は「スサノオ」と「クシナダヒメ」の間の子とされている。
人間界に於いて、「卑弥呼」と「クシナダヒメ」は別人だったと解釈するしかない。

私が気になるのは、「オオイチヒメ」の「イチ」である。
2代目・卑弥呼(アマテラス)である「壹輿(イチヨ)・イヨ・トヨ」と無関係ではないような気がしてならない。
勿論、年代的には、当時はまだ「壹輿」は誕生していないはず。
「オオイチ」という事は、「壹輿」の母を意味しているのではないだろうか。
であれば、「トシ」「宇迦之御魂」「壹輿」は兄弟という事になるが、この事については順を追って検証していきたい。

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さて、稲荷神「宇迦之御魂」とされる「トヨウケビメ」「ウケモチ」「オオゲツヒメ」等の内、「ウケモチ」と「オオゲツヒメ」は同一神である。
そして、穀物神という観点から、「トヨウケビメ」も同一神と考えて良いが、「トヨ」を「台与」と書けば「壹輿」と同一人物である。
オオゲツヒメはスサノオに斬り殺されたが、後に「大年神」の系譜の「ハヤマト」の妻として八神を生んだという記述がある。
後に登場する「オオゲツヒメ」が2代目だとすれば、それは「壹輿」である可能性もある。

そう考えると、稲荷神とは結局、スサノオの御子「宇迦之御魂」と「壹輿」という事になる。
また、「トヨウケビメ」は伊勢外宮の主祭神「豊受大神」と同一神である。
つまり、伊勢神宮は内宮に「天照大神=卑弥呼」が祀られ、外宮に「豊受大神=壹輿」が祀られていることになる。

では、何故「宇迦之御魂」が穀物神とされているのか……宇迦(ウカ)は穀物を意味する言葉だからである。
また、伏見稲荷大社では「宇迦之御魂」を女神としているが、それが事実であれば「宇迦之御魂=壹輿」の可能性も出てくるが、定かではない。
また、兄神の「大年神」も「大年=大稲」で、穀物神を意味するという説もある。

少し話を巻き戻すが、大矢田神社の祭神「スサノオ命」「天若日子命」「阿遲志貴高日子根命」が「フツ」「スサノオ」「トシ」かどうかは別として、「天若日子命」と「阿遲志貴高日子根命」は、身内ですら見間違えるほど瓜2つだったとされている。
これを神次元的に解釈すれば、2神の特性が類似している事を表現しており、本質的に同一神「スサノオ」だという事である。

前に記載したが、アジシキ(スキ)タカヒコネには、「阿遅鋤高日子根」という当て字も用いられている。
「鋤」は農具であり、農耕神と関連づける事が出来る。
また、それが鉄製であれば「出雲族」の象徴となる。

『日本霊異記』の中に、「世にも奇妙なスサノオの物語」がある。

――昔、百姓が畑で鋤を持って立っていると、突然雷雨に襲われ、落雷と共に、頭に蛇を巻き付けた奇妙な子供が出現した。
その子は元興寺の童子となり、道場法師と名乗った。
そして、元興寺の稲田が日照りに悩まされた時、鋤柄の杖を水門に置いて水を引き入れた――


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「雷雨」はスサノオを象徴し、「雷」「蛇」はルシファーの象徴である。
「スサノオ=ルシファー」だが、そうなると「牛」をトーテムとするスサノオが「蛇」となる。
また、この話は「穀物神=雷神=水神=蛇神」を暗示し、鋤に神が宿る(金属に雷が落ちる)ことを意味する。
それ故に、「アジシキタカヒコネ」は穀物神であり、穀物の育成には、雷(電気エネルギー)及び水が不可欠な要素であるを示している。
そして、アジシキタカヒコネは「雷神」と同様の神力を持つ「穀物神」とされるようになった。

『穀物神=アジシキタカヒコネ=雷神』

この等式をよく記憶しておいて頂きたい。
尚、アジシキタカヒコネは別名「迦毛大御神」と呼ばれているが、 『古事記』の中で「大御神」が付いている神は「天照大御神」と「迦毛大御神」だけであり、如何に重要な神であるかが分かる。
という事は、神次元に於ける穀物神としての性格上、伊勢外宮の「豊受大神」の正体は「迦毛大御神=稲荷神(宇迦之御魂+トヨウケビメ=ウケモチ=オオゲツヒメ)」という解釈が可能になる。

話を整理すると、「迦毛大御神=アジシキタカヒコネ=ツヌガアラシト=スサノオ」で、スサノオの御子である「宇迦之御魂」も「スサノオ」であり、「トヨウケビメ」「ウケモチ」「オオゲツヒメ」は、霊的に稲田の神「クシナダヒメ」に集約され、次のような等式で結ぶことが出来る。

伊勢外宮祭神「豊受大神」=稲荷神「宇迦之御魂」=「宇迦之御魂+クシナダヒメ」=「スサノオ+クシナダヒメ」

伊勢外宮の「豊受大神」の正体は「龍牛合体神」なのだ。
「豊受大神」は本来、内宮の「天照大神」より格式が上だと言われているが、その理由が解けたのではないだろうか。
だが、「天照大神」もまた、龍牛合体神なのである。
ややこしい説明で、「世にも奇妙な文章」になってしまったが……。
posted by 夢蛇鬼 at 12:14| Comment(12) | スサノオの正体と天皇家の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月21日

世にも奇妙な「クシナダヒメ」の物語と3人の「スサノオ」の正体

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『日本書紀』ではクシナダヒメは「奇稲田姫」と表記されており、稲田の守護神だと解釈されている。
だとすれば、我が身を犠牲にして豊穣をもたらす「オオゲツヒメ」に代わる神であり、人間次元に於いては、両者は同一人物だった可能性すらある。

『オオゲツヒメ=奇稲田姫=天照大神=卑弥呼』

また、 「卑弥呼=ヤマタノオロチ」でもあった。
そうなると、 「ヤマタノオロチ」とその生贄として捧げられるはずだった「奇稲田姫」が、イコールで結ばれることになる。

『オオゲツヒメ=奇稲田姫=卑弥呼=ヤマタノオロチ』

まさに、奇ししき神話である。
スサノオは「奇稲田姫」を妻とした。
『稲の妻=稲妻』
聖書で「稲妻」は、天から地に堕とされた「ルシファー」の象徴として描かれている。
ご存知の通り、ルシファーは『ヨハネの黙示録』に登場する7つ頭の龍(年老いた蛇)だが、クシナダヒメには「串蛇姫」という当て字もある。
事実、神代の出雲地方には龍蛇信仰があり、稲田の女神は蛇で、稲田姫と大蛇の神婚伝説が残っており、次の等式が成り立つ。

『奇稲田姫=稲妻=ルシファー=ヤマタノオロチ=卑弥呼』

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FBI超能力捜査官ジョー・マクモニーグルの透視では、卑弥呼の部族は「稲作」をもたらした海の民で、卑弥呼は長い「かんざし」で髪を止めていたという事から、「櫛名田比売」の当て字と一致する。
加治木説では、「山田」は「邪馬臺」「八俣」を語源とするものだったが、事実、卑弥呼の信仰は「山」と「田=稲」を御神体としていた。
それが後の「神道」に受け継がれていくのだが、この話は別の機会にしよう。

奇稲田姫の「奇」という字は「奇才」や「奇人」という使い方をする通り、卑弥呼にピッタリである。
また、「奇妙」で「奇怪」だと見られていた「鬼道」にも符合し、 音読みの「キ」も同じで、「鬼才」や「鬼神」という言葉も卑弥呼に相応しい。
奇しくも、卑弥呼は「角がある人=ツヌガアラシト=ツルカルナイン=神の言葉を通訳する女性」であった。

『出雲国風土記』では「久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)」という名で登場し、石川県七尾市にある「久志伊奈太伎比売(くしいなだきひめ)神社」の祭神と同一神である。
それは「稲田の神」として信仰されており、須佐神社(島根県出雲市)、八重垣神社(島根県松江市)、須我神社(島根県雲南市)、八坂神社(京都府京都市)、櫛田神社(富山県射水市)、櫛田宮(佐賀県神埼市)、その他、各地の氷川神社で祀られている。

ヤマタノオロチは「八頭八尾の大蛇」だったが、ビシュヌ神(天之御中主神)を除けば「七頭七尾」のアナンタ(ルシファー)となる。
「久志伊奈太伎比売神社」のある石川県の「七尾」という市の名称は、それに由来しているのだろう。
注目すべきは、多くの櫛田神社で、夫の「スサノオ」や子の「大国主」と共に祀られている点である。
更に、福岡県の櫛田神社の祭神が、「大幡主大神」「天照大神」「素戔嗚大神」となっている事は非常に興味深い。

1つは、全国にある櫛田神社の祭神の殆んどが「クシナダヒメ」だが、福岡の「櫛田神社」では「天照大神」が祀られている点である。
これは「櫛稲田比売=天照大神」である事を暗に示している。
もう1つは、「天照大神(アマテラス)」「素戔嗚大神(スサノオ)」と来れば、もう1神は普通なら「月読命(ツキヨミ)」であるはずだが、「大幡主大神」が祀られている点である。

「大幡主大神=ツキヨミ」なのだろうか。
大幡主大神は別名「大若子命(おおわくごのみこと)」と呼ばれている。
「大若子命」も謎の多い人物だが、「天御中主尊」18世(一説では19世)の孫で、「彦久良伊命」の御子であり、度会氏の祖先だと言われている。
また『伊勢国風土記』では、「神武天皇」の部下だった「天日別命」の子孫とも言われている。
だが、これでは非常に分かりづらい。

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『神宮雑例集』によると垂仁26年、「垂仁天皇」の皇女「倭姫命」が 、伊勢国五十鈴川上流の宇治山田に「天照大神」を永遠に祀る鎮座地を求め、それが現在の皇大神宮(伊勢内宮)だという。
そして、その鎮座祭で「垂仁天皇」の御供をしたのが「大若子命」で、皇大神宮の初代大神主になったとされている。

まず、卑弥呼は人間としての「天照大神」である。
つまり、卑弥呼は神「天照大神」の預言者故に「天照大神」と呼ばれた。
更に言えば、卑弥呼は「天照大神」の受肉・現人神だったと解釈しても良い。
そして、「倭姫命」と「卑弥呼」は同一人物だと考えられている。

という事は、卑弥呼政権を倒した狗奴国王「卑弥弓呼=垂仁天皇」は、卑弥呼を殺してはおらず、婚姻していたことになる。
或いは、卑弥呼は「仲哀天皇」の死後、「垂仁天皇」と再婚したとも考えられるが、もう一度、北川説を思い出してほしい。

日向族のイザナギ・イザナミは、出雲族の進軍を恐れて、娘の「アマテラス」を「スサノオ」に差し出したのである。
これは、邪馬台国を征討した「卑弥弓呼」や「神武天皇の東征」とも酷似する。

また、伊勢外宮の『渡会氏本系帳』や富山県が編纂した『越中史料』には、「大若子命」が越国の凶賊である阿彦を征討した事が記されているが、北陸は龍神信仰のメッカで、阿彦は龍蛇族であり、本質的に「スサノオの龍退治」と同じである。

『魏志倭人伝』には、「卑弥呼」は狗奴国との戦いで死亡したというニュアンスで書かれている。
端的に表現すれば、「卑弥呼」は「卑弥弓呼」に殺された。
これは『記紀』で、「スサノオの乱暴によってアマテラスが岩戸隠れした」という事件、「スサノオがオオゲツヒメを斬り殺した」という事件、「スサノオがヤマタノオロチを退治した」という事件とも共通する。

だが、「スサノオ」は「クシナダヒメ」を妻としている。
マクモニーグルの透視でも、「卑弥呼」は他殺ではなく、肺炎で亡くなったという。
但し、マクモニーグルは『魏志倭人伝』と同じく、「卑弥呼は結婚しておらず子供もいなかった」と述べている。
マクモニーグルの透視に絶対性はないが、この大きな食い違いは何が原因なのか。

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『日本書紀』に「神功皇后の夫・仲哀天皇は熊襲との戦いで死に、皇后が永く政務を執る」と記されている。
それ故に、マクモニーグルが透視で「卑弥呼」の夫を確認できなかったのだろうか。
福岡の「櫛田神社」の社伝によると、天平宝字元年(757年)、伊勢国の「櫛田神社」の分霊を博多総鎮守産土神として奉祭したとされる。
伊勢国には伊勢神宮があり、皇大神宮建立の経緯は既に述べた通りである。
更に、伊勢の語源は「伊是名島」だった。
つまり、今までの話から考察すると、「櫛田神社」の3柱の祭神の正体は、次のようになる。

「天照大神=倭姫命=クシナダヒメ」
「素盞嗚大神=垂仁天皇=スサノオ」
「大幡主大神=大若子命=スサノオ」


『記紀』の記録によると、「仲哀天皇」は第14代天皇、「垂仁天皇」は第11代天皇となっていて代も名前も異なるが、同一人物の可能性もある。
つまり、『仲哀天皇=垂仁天皇=大若子命』で、三者とも「スサノオ」と呼べる人物である。
島根半島にある日御碕神社の祭神は、「須佐之男命」と「天照大御神」だが、島根県の八重垣神社の祭神は「須佐之男命」と「稲田姫命」となっており、「クシナダヒメ=アマテラス」と「スサノオ=垂仁天皇」が夫婦だったことを証明している。

「スサノオ」と「クシナダヒメ」の間には、8人の子供があったと言われているが、八重垣神社には、須佐之男、稲田姫、足名槌(アシナツチ)、手名槌(テナツチ)、天照大神、市寸島比売(イチキシマヒメ)の6神像が描かれている。
「クシナダヒメ」と別に「天照大神」が描かれているという事は、 「天照大神」の名称を受け継いだ人物が存在したことを示している。

では、「大若子命」は「アマテラス」と「スサノオ」の御子なのだろうか。
福岡の櫛田神社の社伝では、「大若子命は天照大神の側を離れず、その補佐をした神」とある。
卑弥呼(神功皇后)はモーゼと同じく、兄弟(姉弟)による政祭を執っていた。
何故、夫である天皇ではなく「弟」だったのだろうか。

「神功皇后の夫・仲哀天皇は熊襲との戦いで死に、皇后が永く政務を執る」

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では、卑弥呼(神功皇后)の弟とは、一体何者なのか。
卑弥呼が「アマテラス」であれば、その弟は「スサノオ」である。
神話では、「アマテラス」と「スサノオ」は仲の悪い姉弟だった。
「邪馬台国女王・卑弥呼=神功皇后=アマテラス」と「狗奴国男王・卑弥弓呼=垂仁天皇=スサノオ」も犬猿の仲であった。
つまり、「垂仁天皇」と「大若子命」は同一人物だった可能性がある。

まず、卑弥呼の夫と弟が同じ人物という事に異議を持つ方も多いと思うが、卑弥呼の父である「イザナギ」は、神話では1神で三貴士(アマテラス・ツキヨミ・スサノオ)を生んだ事になっている。
勿論、男は出産する事が出来ないので、この話は「三貴子」が異母姉弟であることを意味してるとも考えられる。
同一人物であるなら、何故「素戔嗚大神」と「大幡主大神」が別々に祀られているのか。

推測の域を出ないが、卑弥呼生存中の名前が「大若子命(大幡主大神)」で、卑弥呼死後に「垂仁天皇(素戔嗚大神)」と名乗り、後世の人が他人だと勘違いしたとしか言い様がない。
「垂仁天皇」は「神功皇后」の死後に登場したとされるが、それが「神功皇后」の弟「大若子命」だったのではないかという事である。

では、皇大神宮鎮座祭で、「大若子命が垂仁天皇の御供をした」というのは、一体どういう事なのか。
スサノオ(大若子命=垂仁天皇)が伊勢国に渡った記録はなく、また、伊勢神宮が建立されたのは後世の事である。
つまり、あの話は後世の創作か、又はその子孫が、自分たちを祖先と重ね合わせて記録したとしか思えないのだ。
では、神功皇后生存中に崩御した「仲哀天皇」も同一人物というのは、どういう事なのか。

まず、仲哀天皇(ソナカ=ツヌガアラシト)も「スサノオ」と呼ばれた人物である。
そして、彼が「神功皇后」に忌避されていた事は、『記紀』の様々な箇所から読み取れる。
それは、「アマテラス」と「スサノオ」の仲の悪さを物語っている。
それで、「仲哀天皇」は影役でしかなかったのだ。
つまり、卑弥呼が女王として全面に出て、弟が通訳だった事に比定できる。

だが、卑弥呼は表舞台には殆んど出なかったとされている。
この如何ともし難い矛盾の答えは、既に出ている。
「卑弥呼」という名称は肩書きであり、「神功皇后」は2人の巫女の記録の混合であり、「天照大神」は死後、再び登場する。
つまり、「仲哀天皇」の妃とされる「神功皇后」は卑弥呼だけではなく、「2代目・卑弥呼=岩戸から出てきた天照大神」の記録が混入しているのだ。
八重垣神社に「クシナダヒメ」と「アマテラス」が描かれている事からも、それは容易に想像できる。

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一説では、「ヤマトタケル」は「武内宿禰」の若き姿だとされている。
武内宿禰もまた謎多き人物だが、それが事実であれば、ミッシングリンクの発見である。
何故なら、武内宿禰の子「若子の宿祢」と「大若子命」が同一人物である可能性が高いからだ。
そして、仲哀天皇はヤマトタケルの子である。
即ち、『大若子命=仲哀天皇』。そして、「垂仁天皇」。

『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は100余人の殉死者と共に埋葬されたという。
だが、マクモニーグルが卑弥呼の墓を詳細に透視した結果、殉葬は確認されていない。
『日本書紀』には、垂仁天皇は殉死を禁止し、埴輪を代用し始めた事が記されている。
整理すると、神功皇后(卑弥呼=アマテラス)の夫(仲哀天皇)は、同時に義弟(大若子命)でもあり、皇后の死後、「垂仁天皇」として登場した「スサノオ」だった、というのが私の結論である。

だが、卑弥呼には複数の義弟がいたようである。
『アーリオーン・メッセージ』によると、スサノオとアマテラスの政略結婚に対して、「アマテラス義弟たち」が猛反対したという。
「アマテラスの弟=スサノオ」であれば、この義弟たちも全て「スサノオ」という事になってしまうが、アリオンはそのようには述べておらず、彼らは歴史に名を残していないという。
私的には、これ以上話が複雑にならずに済んで幸いだが……。
posted by 夢蛇鬼 at 14:13| Comment(4) | スサノオの正体と天皇家の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月19日

死国の女王・オオゲツヒメ殺神事件の真相と禁断の関係

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『古事記』の中のイザナギとイザナミの国産みで、2番目に創造された伊豫之二名島(四国)の中の阿波国(徳島県)として、大宜都比売(オオゲツヒメ)が誕生した。
阿波国は元来「粟国」と書き、五穀の神である「オオゲツヒメ」が祀られていた事が由来とされている。

高天原を追放された「スサノオ」は「オオゲツヒメ」に食物を求め、 「オオゲツヒメ」は「スサノオ」に次々と食事をもてなした。
それを不審に思った「スサノオ」が様子を覗くと、「オオゲツヒメ」は鼻や口、尻から食材を吐き出して調理していた。
腹を立てた「スサノオ」が「オオゲツヒメ」を斬り殺すと、頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれ、 「カミムスビ」が取って、五穀と養蚕の始まりとしたと伝えられている。

『日本書紀』では同様の話が、「ツキヨミ」が「ウケモチ(保食神)」を斬り殺す話として登場し、頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれ、「アマテラス」がこれらを取って広めたとされている。
やはり、「スサノオ」と「ツキヨミ」は同一人物だったようだ。
では、「カミムスビ」と「アマテラス」も同一人物だったのだろうか。
いや、「アマテラス」は「スサノオ」の乱暴によって岩戸に隠れた(崩御した)。

「ヤマタノオロチ」を斬り殺したのも「スサノオ」で、「アマテラス」も「ヤマタノオロチ」も「卑弥呼」だったことを考えると、イザナギ・イザナミの間に生まれた「オオゲツヒメ=ウケモチ」の正体も「卑弥呼」だった確率は高い。
そして、「ヤマタノオロチ」から「草薙剣」が出てきた事と、「オオゲツヒメ」から五穀や蚕が出てきた事も似ている。
「オオゲツヒメ」と「アマテラス」が同一人物であれば、それを取ったアマテラス(カミムスビ)は「2代目・アマテラス」という事になる。

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「卑弥呼」と「徳島県」の関係は不明だが、映画でもあったように、四国は「死国」に通じ、「オオゲツヒメ」が切り殺された話や、卑弥呼の鬼道が崇拝する「死の神・シヴァ」に由来するのかも知れない。
『古事記』によるとスサノオは、父・イザナギより「海原を治めよ」との命を受けたが、それを拒否し、母・イザナミの居る「根の国」に行くと言い始め、イザナギは怒って近江の多賀に引き籠もってしまった。

「イザナギ」「イザナミ」は人名ではなく、肩書きだったことを思い出して頂きたい。
であれば、イザナギ・イザナミの娘のアマテラス(卑弥呼)も、「イザナミ」と呼ばれることがあったに違いない。
そして一説では、卑弥呼(イザナミ)の息子も「スサノオ」と呼ばれる人物である。
「卑弥呼=イザナミ=オオゲツヒメ」という等式で考えると、卑弥呼(イザナミ)の息子のスサノオが向かった 「根の国=死者の国=死国」というのは、オオゲツヒメ(卑弥呼)が死んだ「四国」を指しているのかも知れない。
但し、同じ名の複数の人物の伝説が重なり合っている可能性が高いので、卑弥呼が四国で死んだと断定するのは早計である。

話を戻すが、「オオゲツヒメ神話」と似た神話はインドネシア等の南方系にも広く伝わっている。
また、卑弥呼が魏の朝廷に絹を献上したことが『魏志倭人伝』に記されている。

『オオゲツヒメ=卑弥呼』

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この推理は的外れではないようだ。
オオゲツヒメは「大気津比売」という当て字もあるが、加治木氏は『黄金の女王・卑弥呼』の中で次のように述べている。

――ヒミコがした仕事は『古事記』の「大気津比売神」をスサノオが殺したら、その頭に蚕、目に稲、耳に粟、鼻に小豆、陰に麦、尻に大豆が生じた、という話で、その神の名が沖縄語では「オオ=ウ、キ=チ、津=の」で「ウチの姫神」すなわち天照大神=老ヒミコのことだと分かるので、彼女が農産物と織物工業の管理者でもあったことが分かる――

オオゲツヒメはスサノオに殺されたが、後に「大年神」の系譜の「ハヤマト」の妻として八神を生んだという記述がある。
ここに登場する「オオゲツヒメ」は、「2代目・アマテラス」と考えて良いだろう。
次にスサノオは、ヤマタノオロチの生贄として捧げられるはずだった「櫛名田比売(クシナダヒメ)」を助けている。
注目したいのは、この時「スサノオ」は、殺戮神から救済神に変化している事である。

また、注意したいのは、卑弥呼は神話の中で「アマテラス」「オオゲツヒメ」「ヤマタノオロチ」という名前で、同じスサノオに3回も殺されているという事である。
常識的に、「アマテラス」「オオゲツヒメ」「ヤマタノオロチ」は全く別物である。
だとすれば、逆に、同じ「スサノオ」であるはずの人物が、実は2人、或いは3人の「スサノオ」だったかも知れない。

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加治木説に従えば、ヤマタノオロチ(卑弥呼政権)を倒したスサノオのは「垂仁天皇」である。
であれば、アマテラスを岩戸に隠れさせた「スサノオ」も、オオゲツヒメを殺した「スサノオ」も「垂仁天皇」だった可能性が高い。
少なくとも、ヤマタノオロチを倒したのは「垂仁天皇」という事になる。
ならば、クシイナダヒメをヤマタノオロチから救って娶ったスサノオも、「垂仁天皇」であるはずだ。

しかし、アリオンの預言者である北川氏が採用している家系図では、日向族のアマテラス(卑弥呼)と婚姻したスサノオ(仲哀天皇)は、出雲族系のクシイナダヒメとも結婚しているのだ。
これが事実であれば、「仲哀天皇」と「垂仁天皇」は同一人物ということになる。
アジシキタカネヒコは卑弥呼の兄弟とされている人物だが、その家系図では、アジシキタカネヒコ(垂仁天皇)は、スサノオと卑弥呼の子である多紀理姫(三穂津姫・木花咲耶姫)と、大国主(オオクニヌシ)の間に出来た子となっている。

そうすると、『日本書紀』では「大国主」はスサノオとクシナダヒメの息子とされているので、 「大国主」と「多紀理姫」は異母兄妹(又は姉弟)同士の結婚だった事になるが、その真相は不明である。
1つ言える事は、 「仲哀天皇」は神功皇后(卑弥呼)より先に他界し、後に卑弥呼政権を倒して王となったのが「垂仁天皇=アジシキタカネヒコ」であるという記録が最も信憑性が高いと思われるのだが、果たして……
posted by 夢蛇鬼 at 11:27| Comment(4) | スサノオの正体と天皇家の関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする