2010年05月09日

世界神話を集約したペルシアと天孫族の謎

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詳述するとキリがないので、要所のみを確認していきたい。
ヒッタイト人は、シュメール起源の12神を崇拝していた。
このシュメールとヒッタイトを繋いだ「フルリ人」が、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人で、シュメールのウル第3王朝で大きな勢力を誇っていた事が確認されている。
また、インド・ヨーロッパ言語で書かれたインドの「ヴェーダ聖典」と、ギリシア神話の類似性が指摘されている。
これは、ギリシア神話がインドに伝わったものだと考えられているが、そうではない。

シュメールのアーリア人一派がアナトリアに移動し、原住民ハッティ(ヒッタイト)と融合したが、もう一派、もしくは後のヒッタイト人が、紀元前2000年頃に北イランに移動し、更にインドに南下してヴェーダをもたらし、バラモン教を生み出したようだ。
だがそれは、単なるシュメール神話やヒッタイト神話ではなく、ゾロアスター教だった。
後に、スキタイ族から誕生したバラモン教徒の釈迦が、形骸化したバラモン教を否定して仏教を説いたが、この話は後に回そう。

エジプトもシュメールの神話と文明を継承したことが、ゼカリア・シッチンによって証明されている。
そして紀元前1285年頃、ラムセス2世の時代、ヒッタイト人がエジプトに侵攻。
古代エジプトの太陽神アメン(アモン)は、元々は豊饒神だったが太陽神ラーと一体化し、「アメン・ラー」としてエジプトの主神とされていた。
そして、アレクサンドロスはエジプト遠征の際、「アモンの息子」と称した。

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エジプトの太陽神は3柱存在し、朝日は「ケプリ」、中天は「ラー」、夕日は「アンク」と呼ばれ、それぞれ異なる姿で描かれている。
アンクは「アテン」の新王国時代の呼び名、つまり「アンク=アテン」で、アメンヘテプ4世は、「アメン」に対抗する神「アテン」を立て、アクエンアテンと改名した。
そうすると不可解な事がある。
ツタンカーメンは「トゥト・アンク・アメン」だが、「アテン」と「アメン」を名前に採り入れている事になる。

アメンは「隠されたもの」を意味し、本当の名と姿は明らかにされず、冥界の奥深くに眠っているとされる。
本当の名前が明らかにされていないというのは、『旧約聖書』の主神ヤハウェと符合する。
そして、太陽神であるのに隠されて見えないとは、「天照大神の岩戸隠れ」に符合する。
もう1つの太陽神であるアンクは「再生復活」を意味し、それは岩戸から出てきた天照大神と一致する。
この神話は、後の「イエス・キリスト」や「卑弥呼」が体現している。

このアテン(アンク)信仰が一神教(ユダヤ教)の始まりだと考えられており、アモン (アメン)は後に悪魔とされるようになった。
忘れてはならないのが、イスラエル民族を生んだアブラハムも、シュメールのウル出身という事である。
シュメール神話はアブラハム族にも継承されていたはずで、アブラハムから生まれたイスラエル民族は、元々は牡牛をトーテムとする多神教だったが、エジプトで「アテン信仰」の影響を大きく受けたようだ。
エジプトには「ピラミッド」という人工山の神殿があり、太陽信仰が盛んだった。
太陽には黄金が豊富に存在することから、「太陽=黄金」であり、エジプト文明は黄金を神聖視したことで知られている。

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イスラエル民族の出エジプトを率いたモーゼは、シナイ山で絶対神ヤハウェから十戒を授かった。
この「ヤハウェ」なる神は「アテン」だと考えられている。
その後、ソロモン王は、エジプトのファラオとヒッタイト王の娘を妻として迎えた。
イスラエル10支族は「黄金の子牛」を崇拝したが、これはシュメール及びヒッタイトの「牡牛信仰」を守り、エジプトの黄金文明の影響を受けたものだろう。
イスラエル「12支族」も、ヒッタイトの「12神」に因んでいるのかも知れない。

また、エジプトを脱出してカナンの地に辿り着いたイスラエル民族は、エジプト人の親戚であるカナン人と密接な関係を築いた。
カナン神話の最高神「エル」は、聖書の「ミカエル」「ガブリエル」などの天使名に採用されているが、エルのアダ名が牡牛を意味する「トル」であった。
そして、エルの主要な息子が「主」を意味する「バアル」で、嵐の神・雷と稲妻の雷であり、ザフォン山に住んでいたとされている。
ちなみに、ユダヤ教は一神教で、キリスト教が三位一体教である事は周知の事実だが、天使や悪魔の数は無数に存在する。
聖書は「神」と「天使」を区別しているが、それは実際には多神教と同じ事である。

さて、カナン人は、エジプト人と同じ神々を共有したように、イスラエル民族も同じ神々を共有していた。
そして、カナン神話とギリシア神話の類似性についても、よく指摘されている。
当然ながら、ギリシア神話はエジプト神話にも類似しており、アテンとアテナも同一神である可能性も否めない。
それ故に、ギリシア神話のルーツはエジプト神話にあるという説もあるが、真相は……。
加治木氏は、卑弥呼の鬼道に、ギリシアの宗教の要素が色濃く反映している事を指摘しているが、そのルーツが「カナン神話」や「旧約聖書」にある可能性が出てきた。

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シッチンは次のように述べている。

「ギリシャの学者たちは、確かにエジプトを訪れたことを記述している。
しかし、彼らが言う古代の知識の源は、もっとほかの所にあったのだ。
エーゲ海の前ギリシャ文明(クレタ島のミノア文明とギリシャ本土のミケーネ文明)は、エジプトではなく、近東の文化を受け継いだ証拠を残している。
古代の文明は、エジプトではなく、シリアとアナトリアというメインストリートを通って、ギリシャへ渡ったのである」

(人類を創成した宇宙人)

ちなみに、ギリシア神話の最高神ゼウスが「バアル」という事になり、ギリシアでも「オリンパス山」と「12神」と「黄金」が崇拝されていた。
世界の神話はシュメールを起源として、相互に関連していたように、ヘレニズムとヘブライズムは元々密接に影響を与えていたことが分かる。
そして時を経て、アレクサンドロスの東征によって、ギリシア神話が中近東に逆輸入されることになる。
オリエント諸国の歴史に通じ、漢文を駆使した、始皇帝の宮廷にいた特殊技能者「儒」の正体は、鹿島説によれば、ペルシアに仕えたバビロンの虜囚の子孫か、アレクサンドロスの軍に加わったユダヤ人だとしているが、彼らから「儒教」が生まれたようだ。

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紀元前213年、始皇帝(ディオドトス)による焚書坑儒事件が起こされた時、対象にされた儒学者はイスラエル10支族の「ガド族」で、2支族の「シメオン族」だったディオドトスと敵対したとも言われる。
いずれにしても、ギリシア神話のルーツがカナン神話にあり、それがヘレニズム化され、アレクサンドロスによって中近東に逆輸入されたというのが真相に近いと思われる。

当時、ポリス同士が争っていたギリシアを支配していたのがペルシア王だったという説があるが、そのギリシアとペルシアをアレクサンドロスが統一したのである。
それは、ギリシア・マゲドニア・ペルシアルシア、そしてイスラエル民族などの融合を意味する。
そして、アレクサンドロスの軍は、中国とインド西部までを支配した。
そこから生まれた「アショカ仏教」は、もはや単なるギリシア系と呼べない。

鬼道の山岳信仰のルーツは、アショカ仏教の「スメラ山信仰」にあった。
そして、スメラの語源が「シュメール」で、山を神体とする信仰から生まれたジッグラト(Ziggurat)が建設されていた。
また、北イスラエル王朝の首都サマリアも「スメラ」が語源だと言われている。
そして、ギリシア的要素を多分に持っていたスキタイ族も、黄金の工芸品・装飾品を多く残したことで知られているが、インドから東南アジア、日本に至る仏教の仏像が金色なのは、ズバリ、天孫族がスキタイ族だった証ではないだろうか。

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それは、ギリシア系ともイスラエル系とも呼べるが、ヴェーダを原典とするヒンドゥー教や仏教を含めて、広義の意味での「ペルシア文化」と呼んでも良いかも知れない。
ペルシアの宗教はゾロアスター教であり、ヒンドゥー教の根幹もゾロアスター教にある。
また、仏教のベースもゾロアスターという事になる。
そこに、ヒッタイト神話やギリシア神話、カナン神話、エジプト神話、旧約聖書などのオリエント神話、及びヘブライズムが混合している事は疑念の余地がない。
それを編纂したのが「アショカ王」である。

京都の祇園祭は、旧約聖書と関連する祭りだが、インドから東南アジアの仏教圏でも共通して行われている事を紹介したが、それだけではない。
同じく京都で有名な「大文字焼き」は、盂欄盆会(うらぼんえ)の終わりに行われるが、盂欄盆の原語はペルシア語で、古代ペルシアの祭りを起源としているそうだ。
これも「山岳信仰」とゾロアスター教の「拝火」に繋がる。
ここでは割愛するが、日本には多くのペルシア文化が見られるらしい。
それは、 「天孫族=騎馬系弥生人=スキタイ・イスラエス系アショカ仏教徒」によって、もたらされたものであろう。
posted by 夢蛇鬼 at 06:25| Comment(2) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月07日

世界最大のミステリー「遊牧騎馬民族イスラエル10支族とユダヤ人」の謎

【紀元前722年】北イスラエル王朝がアッシリアに滅ぼされ、イスラエル10支族はバクトリア(メディア)方面に移された。
その後、 「イスラエル10支族」は歴史の表舞台から姿を消してしまった。
彼らはバクトリア地方に留まり、アッシリア人などの他民族と同化して、民族性を失ってしまったのだろうか。
紀元1世紀のユダヤ人歴史家フラビウス・ヨセフスは、著書『古代ユダヤ誌』の中で、次のように記している。
「10支族は今でもユーフラテス河の彼方におり、膨大な民衆となっている」

「膨大な民衆」といえば中国だが、中国に限ったことではなく、地名が特定されていないので、ユーラシア大陸一帯を指していると考えて良いだろう。
だが、それなら10支族は「失われた民族」とは言えない。

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飛鳥昭雄氏は、著書『失われたイスラエル10支族「神武天皇」の謎』で、次のように推理している。
「少なくとも紀元1世紀までは、失われたイスラエル10支族の別動隊は存在した。
ユーフラテス河の北方、東方に、膨大な数となって存在した。
しかし、不思議なことに、当時の歴史をいくら調べてみても、自分たちがイスラエル10支族の末裔であると名乗っている者がいないのである。
ひとつの民族として、イスラエルと名乗っている連中は存在しないのである。
なぜか。思うに、彼らは、すでに自分たちがイスラエル10支族の末裔であることをとうに忘れていたのではないか。
とうの昔に、自分たちのルーツを忘れてしまっていたのではないだろうか。
だとすれば、いくら探しても、自称していない以上、イスラエルの名をみつけることはできない。
つまり、失われたイスラエル10支族の別動隊は、すでに別の民族名を名乗っていたのである。
では、いったい、彼らの新しい民族名はなんだろうか……」


アマテラスの母イザナミの出身地と考えられているアフガニスタン、そして中国、インドなどでも「イスラエル10支族」の末裔が発見されている。

飛鳥氏の仮説は次のように続く。
「地図を広げて、よく見てほしい。
メソポタミアの北方には、広大なユーラシア大陸の大平原が広がっている。
そこに住む人々は、みな遊牧民である。
イスラエル10支族とまったく同じ遊牧民である。
彼らは、こうした北アジアの大地を彷徨する遊牧民となっていたのではないだろうか。
それも馬で駆けめぐる遊牧騎馬民族になっていたのではないだろうか!!」


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そもそもイスラエル民族は、羊や山羊、牛馬を飼い、馬に乗って戦争する騎馬民族だった。
これはヒッタイトの影響があったのだろう。
そして、ヒッタイトの末裔としか思えない「スキタイ族」について、飛鳥氏はこのように書いている。

「失われたイスラエル10支族の別動隊の行方を知る上で、忘れてはならない民族がいる。
紀元前7〜3世紀の北アジアを駆けめぐった騎馬民族スキタイである。
スキタイ族は世界最古ともいわれるアーリア系騎馬民族で、本拠地は黒海北岸。
ギリシアやペルシア文化に非常に近いものをもっていた……
幾度となく繰り返されたスキタイ族の侵入に、アッシリア帝国も徐々に国力を落としていく。
とくに、アッシリア帝国の末期には、かなりの頻度でスキタイ族はやってきたらしいことがわかっている。
当然ながら、イスラエル10支族も、スキタイ族のことは知っていた。
十分すぎるほどに承知していたに違いない。
ここで、ひとつイスラエル10支族の立場になって考えてほしい。
彼らにとって、スキタイ族は敵には違いない。
だが、アッシリア帝国については、利害は一致していた。
戦略的に見て、両者が同盟的な関係を結んだとは考えられないだろうか。
騎馬民族というのは、一般的に民族の違いに固執しない。
騎馬民族同士の同盟や連合は日常茶飯事である。
しかも、自分たちの政策を受け入れるなら、どんな民族でも吸収してしまう。
懐が深いといえばいいのだろうか。
農耕民族との違いは、ここである。
騎馬民族は、まさにコスモポリタンなのだ。
一般的にスキタイ族はアーリア系であるといわれているが、実際は非常に多くの民族からなっていた。
チンギス・ハーンのモンゴル帝国内では、モンゴル族以外にアーリア系白人をはじめ、中国の漢民族、そしてセム系のユダヤ人まで存在した。
よく騎馬民族をチュルク系、モンゴル系、スキタイ系などと区分するが、実際は、その境界は非常に曖昧である。
使っている言語も、ほとんど同じ。
混血により、人類学的に明確な区別がない。
その意味で、スキタイ族と失われたイスラエル10支族の同盟、もしくは合流があったことは十分考えられる。
しかも、興味深いことに、異民族支配下のイスラエル人は、必ずといっていいほど、国家中の重要なポストに就く。
エジプトの宰相になったヨセフ、同じくエジプトの貴族だったモーセ、アケメネス朝ペルシアの宰相だったモルデカイ、新バビロニア王国でネブカドネザル大王の側近だったダニエルなど、その数は非常に多い。
いや、必ずといっていいほど、支配者の近くには、イスラエル人が存在する。
騎馬民族の場合、有能な人物は積極的に登用する。
血縁関係というよりも、能力主義である。
スキタイ族のなかにも、重要なポストについたイスラエル10支族が存在したのではないだろうか。
そして、やがて、ヒエラルキーを登り詰めたイスラエル10支族は、自分たちの騎馬民族を組織するまでになったのではないか」


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「イスラエル10支族」は、ギリシアやペルシアの文化を持つ「スキタイ族」と同化したことは間違いないだろう。
モンゴル族の前身とされる「匈奴」もスキタイ族の一派だと考えられているが、飛鳥氏は次のように述べている。
「紀元前3世紀ごろ北アジアに生まれた匈奴は、まさにユーラシア大陸を縦横無尽に駆けめぐる。

西は朝鮮半島、中国の中原にまで侵入し、東はヨーロッパ全土を駆け抜け、ゲルマン人の大移動を誘発、西ローマ帝国を滅亡に追いやったかと思うと、さらに、スカンジナビア半島にまで至る。
西洋では匈奴を『フン族』と呼ぶ。
北欧のフィンランドとは、何を隠そう『フン・ランド』であり、東欧のハンガリーは『フン・ガリア』なのだ!!
そのため、騎馬民族の侵入のあったハンガリーの『ハンガリー語』、そしてフィンランドの『フィンランド語』も騎馬民族の言語と同じ語順である。」

では次に、一方のユダヤ人の歴史を見てみよう。

【紀元前586年】南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、バビロンの捕虜となった。
【紀元前538年】アケメネス朝ペルシアがバビロニアを滅ぼしてユダヤ人を解放し、多くのユダヤ人がペルシアに仕えた。
【紀元前334年】マゲドニアのアレクサンドロスがペルシアを征服し、 「ペルシアの王位継承者=スサの王」を名乗った。
両者共にギリシア系でヒッタイト系騎馬民族の末裔だが、この時に「アレクサンドロス軍」と「スキタイ族」が合体したと考えて良いだろう。
忘れてはならないのが、その中に「ユダヤ人」が含まれている事である。

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そして、秦始皇帝の正体がギリシア人「ディオドトス」だったという説を紹介したが、水上涼氏は「日本人とユダヤ人の秘密」で、次のような説を紹介している。

「始皇帝の宮廷にいた、漢文を駆使することができ、オリエント諸国の歴史にも通じていた特殊技能者は[儒]と呼ばれていたが、それはジュウを意味すると鹿島氏はいう。
彼らこそ東洋における史書偽造のプロであった。
彼らの身元は、ペルシアに解放されたが、そのままペルシアに仕えたバビロンの虜囚の子孫か、またはアレクサンドロスの軍に加わったユダヤ人のどちらかである……
鹿島氏は、始皇帝の正体はグレコ・バクトリアの知事だったディオドトスだというのだが、のちに日本に来た子孫たちから判断するとユダヤ人だったらしい。
始皇帝がしきりに山へ行って犠牲を捧げるところは、ユダ族よりイッサカル族を連想させるのだが、彼については奇妙な伝承が伝わっている……」


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ユダ族かイッサカル族かは別として、ディオドトスがユダヤ人だった可能性と、山岳信仰を示している。
ペルシアを征服したアレクサンドロス軍は、バクトリアからシルクロードを経て長安に至り、洛陽を建設した後、紀元前328年、更にインド西部までをも征服した。
アレクサンドロスの死後、オリエント一帯の広大な大帝国は、アケドニア、エジプト、ペルシアに分裂し、セレウコスがペルシアを引き継いだのだが、水上涼氏は次のように述べている。

「セレウコス朝ペルシアの領土は、ティグリス河、黒海、インドに接し、東方はバクトリアまでの領土と従来は考えられていたが、いまでは、アレクサンドロスの遺産として、中国という大きな植民地を継承していたとみなさなければならない。
おそらくその中国、いやシナイとのかかわりを合わせてシナと呼ぼう――は、ベトナムやマレー半島まで含まれていたのであろう。
今日でもマレーシアやインドネシアにはイスカンダル(アレクサンドロス)という名前の人はいるのだ」

(日本人とユダヤ人の秘密)

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また、鹿島説では、以下のようになっている。

【BC246年】ディオドトスがペルシア軍団を率いて中国制覇に乗り出す。
【BC239年】大夫余にいたウガヤ42代「解慕漱(ヘモス)」が満州へ逃れ、北扶余王朝を建国。
【BC230年】ギリシア人の将軍エウチデムスがクーデターを起こし、ディオドトス2世を追放してバクトリア王となり、ヒンドゥークシュ山脈一帯を支配。
【BC221年】ディオドトスが中国を統一して秦帝国を建て、始皇帝となる。

話を要約するのは難しいが、民族合流の流れから「天孫族=アマ族」が形成されたことが分かる。
アマ族がモンゴロイド系とオリエント系から成るのは、その為である。
大雑把に言えば、彼らはギリシア系とイスラエル系のハイブリッド民族で、その他、エドム人、フェニキア人、カナン人、ペルシア人、エジプト人、インド人……等が含まれている事は、間違いないと思われる。
それは、いわば「ヘレニズム」と「ヘブライズム」の融合とも言えるだろう。
posted by 夢蛇鬼 at 01:00| Comment(3) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月06日

ユダヤ人の二重構造と「日本アシュケナジーユダヤ同祖論」の真相

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前にも軽く触れたが、「ユダヤ人」について改めて述べておきたい。
現在のイスラエル共和国の国民は基本的に「ユダヤ人」だが、「イスラエル人=ユダヤ人」ではない。
「ユダヤ人」の定義は、血統関係なく、ユダヤ教で結ばれた民族であり、もしあなたがユダヤ教徒になれば、あなたは即「ユダヤ人」という事になる。
また、母親がユダヤ教徒であれば、本人はユダヤ教徒ではなくても「ユダヤ人」とされる。

「日ユ同祖論」でいうユダヤ人は、通常「失われたイスラエル10支族」を指すが、これは間違っている。
古代イスラエル王国で10支族と2支族が分裂し、両者をイスラエル民族というが、「ユダヤ人」とは後者の2支族のみを指す。
2支族は「ユダ族」と「ベニヤミン族」から成るが、狭義の意味ではユダ族を「ユダヤ人」と呼ぶ。
尚、「ユダヤ教」とは、南ユダ王国の2支族が成立した一神教であり、北イスラエル王朝の10支族の信仰とは異なる。

一般的に「ユダヤ人」というと白人のユダヤ教徒、いわゆる「アシュケナジー・ユダヤ人」と呼ばれている。
少し詳しく説明すると、現在のユダヤ人は大別して、スペイン系の「スファラディー・ユダヤ人」と、東欧やドイツに現れた「アシュケナジー・ユダヤ人」が存在する。
現在のイスラエルには、スファラディーとアシュケナジーが共存しているが、少数のアシュケナジーに支配される形でスファラディーが存在している。

問題は、ユダヤ人陰謀説などで、スファラディーは血統的ユダヤ人で、アシュケナジーは偽ユダヤ人だとされている点である。
何故なら、イスラエルが位置する中東は、セム族で占められるアジアであり、白人のアシュケナジーはユダヤ教に改宗しただけのユダヤ教徒に過ぎない、という理由からである。
同様に、アシュケナジー・ユダヤ人は、古代イスラエル民族の血統ではないと考えられている。

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もっとも、それにはそれなりの根拠と理由がある。
アシュケナジー・ユダヤ人のルーツは、ロシアのコーカサス地方からカスピ海にかけて繁栄したハザール汗国にあり、8世紀頃に国教がユダヤ教となった。
ユダヤ教に改宗したハザール人は、聖書を熱心に研究し、世界初のヘブライ語の辞書を編纂したりしたが、自分たちのルーツがイスラエル民族ではないとの自覚から、ノアの子孫の「アシュケナジー」を民族名としたのである。

だが、そうとは言い切れない。
確かに、ハザール人はトルコ系の白人だったと言われており、「アシュケナジー」は白人の祖となったノアの息子ヤフェトの孫である。
トルコ人は元来、モンゴロイドだとされているが、話はここからである。

ヤフェトの子、つまりアシュケナジーの父親の名をゴメルというが、紀元前6世紀頃、スキタイ族が中央アジアから黒海の北部に進出し、キンメル人(ゴメルの子孫)を追い出したという。
夢蛇説では、スキタイはヒッタイト→ギリシア系騎馬民族である。
彼らはモンゴル高原からコーカサス地方、黒海、カスピ海、そして中央アジアからインド亜大陸まで、ユーラシア大陸全域を凌駕していた。
サカ族やフン族もスキタイ族の末裔だが、スキタイ族は各部族ごとに各地に分散し、現地に浸透していったと考えられ、大別して「モンゴル系」と「トルコ系」に分かれたと言われている。

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トルコ人の出自が中央アジアにあり、また「日本トルコ同祖論」の観点からみると、トルコ人もスキタイ系なのかも知れない。
現在のトルコ周辺は、かつてヒッタイト帝国が栄えた地であり、また、紀元前からペルシア系民族が住み、アレクサンドロスの遠征以降はギリシア系の支配が続いた白人系の国々である。

ただ、一言付加しておくと、各民族の人種については諸説あるが、例えば「スキタイ」はアーリア人種だと言っても、様々な人種で構成されていたようで、また、古今東西、混血が重ねられてきた以上、肌の色を含めて明確に人種を区別することは出来ない。
それでも敢えて推測すれば、イスラエル民族の中でもユダ族は特にヒッタイト人と同化しており、コーカソイドの特徴を多分に持っていた可能性がある。
その「スキタイ」が、ヒッタイト人の末裔であることを否定する材料はない。

コーカサスからカスピ海にかけて繁栄したハザール汗国は、かつてスキタイ族が闊歩していた地域である。
トルコ系民族のハザール人は「勇猛果敢な戦士」だったとされているが、その正体はスキタイ族の末裔なのではないだろうか。
それが事実であれば、アシュケナジーの子孫であるキンメル人を追い出したスキタイ族の末裔が、後世にハザール汗国を建国した可能性が高い。
とすれば、ハザール人はアシュケナジーの子孫ではなく、スキタイ族の末裔ということになる。
勿論、スキタイ族の中にはアシュケナジーの子孫も含まれていた可能性もあるが、スキタイ族とイスラエル人との民族融合があった事を忘れてはならない。

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「失われた10支族」がスキタイ族と合流して日本に渡来した、という説も私は確信しているが、2支族の「ユダヤ人」もヒッタイト人と混血していたし、南ユダ王国滅亡後に一部のユダヤ人はペルシア人に同化した。
両者がどのような関係にあったかは想像の域を出ないが、「スキタイ系イスラエル10支族」と「スキタイ系ユダヤ人」が存在した可能性を主張したい。
スキタイ族は「モンゴル系」と「トルコ系」に分かれ、モンゴル帝国にはモンゴル族以外に、アーリア系の白人やセム系のユダヤ人も存在したと言われている。
主に北東アジアに「スキタイ系イスラエル10支族」が定住したと仮定し、「スキタイ系ユダヤ人」がハザール汗国を建国したと私は考えている。

ハザール人はトルコ系言語を話し、突厥文字を使用し、アルタイ系騎馬民族の特徴を色濃く持っている。
そして、ハザール王国建設の中核となったのは、万里の長城の内外で中国との死闘の末に敗れ去り、新天地を求めて西に向かった突厥の王家「阿史那(あしな)」の一派だったと言われている。
但し、日本にも2支族のユダヤ人は入ってきているし、逆にハザール汗国にも10支族の一部が住んでいた可能性もなくはない。
しかし、2支族と10支族の間に、血統的な大差は有り得ない。

それが事実だとすれば、大変なことになる。
「日本人」と「アシュケナジー・ユダヤ人」が、同じ祖先を持っている事になるからだ。
それは、「日本トルコ同祖論」と通じるものがある。
では何故、肌の色、人種が異なるのか。
それは、日本列島とコーカサス地方の原住民の人種が異なっていたからに他ならない。
勿論、仮説に過ぎないが、原住民との混血によって人種に差が生まれたのである。

尚、トルコの国旗が三日月と星である事にも注意して頂きたい。
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問題は、ハザール汗国は元々、無宗教国家だったとされている事である。
それは、ハザール人がハイブリッド民族だった為に国教が定まっていなかっただけで、個人的な信仰がなかったとは考え難い。
また、中国やインドに散らばったイスラエル民族が仏教に改宗したのを見ると、民族や宗教に拘りを持たず、環境に順応する一面を持った民族にも思える。
同様に、ハザール汗国のユダヤ人は、何らかの理由によって宗教を持たなかったか、或いは、血統的ユダヤ人でありユダヤ教徒である事を隠していた可能性もある。
逆に、今の日本人と同じく、自分たちのルーツを知らなかったのかも知れない。

いずれにしても、彼らは何の因果か、ユダヤ教徒になる道を選択した。
尚、アシュケナジー系とスファラディー系が、血統的に同じユダヤ人である事が遺伝子レベルで証明され、権威ある科学雑誌「ネイチャー」で既に発表されているそうである。
ユダヤ教のラビ(教師)で有名なマーヴィン・トケイヤーの説によると、ハザール人はハザール汗国滅亡と共に絶滅し、ハザール人とアシュケナジー・ユダヤ人は無関係だと主張している。

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ここで言うアシュケナジー系は「白人系」という意味合いだが、飛鳥昭雄氏や宇野正美氏は、アシュケナジー系の中にハザール人がいる事を強調している。
事実、ハザール帝国消滅後、東欧のユダヤ人口が爆発的に増えたのは、ハザール人の民族移動が考えられる。
また、ハザール人は、リトアニアの傭兵になったり、ポーランドやロシアに向かったという説も見逃せない。

ロシア連邦を構成するダゲスタン共和国には、多くのユダヤ人が住んでいるが、彼らはコーカサス山脈に住むユダヤ人や、黒海から来たカライ派ユダヤ人の子孫で、ハザール人の末裔だと言われている。
イスラエル共和国の多くのユダヤ人は、ポーランドやロシアから来たユダヤ人たちだと言われている。
そして、「ダゲスタン」の語源は、トルコ語の「山」にペルシャ語の地名の接尾辞を付けたものらしい。
ここに「トルコ」「ペルシア」「ハザール」「ユダヤ」のキーワードが並ぶことを特筆しておきたい。
いずれにせよ、ユダヤ人は世界中に離散して各民族に融け込み、白人や黒人になったケースは少なくない。

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イスラエル共和国が再建されて世界中のユダヤ人が集まってきたが、ユダヤ人のルティ・ジョスコビッツは、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)の中でこう述べている。

「イスラエルにいたとき、ターバンを巻いたインド人が畑を耕作しているのを見た。
どこから見てもインド人で、インドの言葉、インドの服装、インドの文化を持っていた。
しかし彼らがユダヤ教徒だと聞いたとき、私のユダヤ民族の概念は吹っ飛んでしまった。
同じように黒人がいた。アルジェリア人がいた。イエメン人がいた。
フランス人がいた。ポーランド人がいた。イギリス人がいた。
まだ会ってはいないが中国人もいるそうである。
どの人々も、人種や民族というより、単なる宗教的同一性としか言いようのない存在だった。 
私の母はスラブの顔をしている。父はポーランドの顔としかいいようがない。私もそうなのだ」


彼らは単なるユダヤ教徒故に「ユダヤ人」なのではない。
1500年の歴史を持つインド原住のユダヤ人を「ベネ・イスラエル」といい、「イスラエルの子」を意味する。
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要は、「アシュケナジー・ユダヤ人=ハザール人」と定義するなら、白人系ユダヤ人の全てがハザールのアシュケナジー系とは限らず、また、アシュケナジー系が「スキタイ+ユダヤ2支族」をルーツとし、我々日本人と同祖なのではないかという事である。
少なくとも、今日、世界の支配者として君臨する白人系のユダヤ財閥は、もともと黒人系のカナン人で、イスラエル民族との混血の末、ヨーロッパに移住して白人になった可能性が高い。
いずれにしても、我々日本人と白人系ユダヤ人は、同じ祖先を持っている可能性が高いのである。

勿論、全ての日本人にイスラエル民族の血が流れているとは限らないし、全ての白人系ユダヤ人が血統的ユダヤ人とは限らない。
また、ユダヤ人陰謀説に登場するユダヤ財閥には、創始者も含めてクリスチャンが多い事に注意するべきであろう。
ユダヤ教徒でもない人物に、「ユダヤ人」や「偽ユダヤ人」のレッテルを貼る陰謀論者の思考回路こそ、危険な思想だと私は言いたい。
posted by 夢蛇鬼 at 00:26| Comment(9) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月05日

「イスラエル民族」の二重構造と「ヘブライ人」の正体

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世界各地に「失われたイスラエル10支族」の血を引く民族が発見されているという事だが、なぜ日本人の血液に対してはそのように発表されないのか。
また、誰がどのようにして、失われた古代民族の血液の特徴を知り得たのか。
もっとも、「血を引く」というのは特徴や風習などの一表現で、血液検査によるものではない可能性はあるが……。

しかし、イスラエル10支族の末裔とされるアルザル人の染色体「YAP(−)因子」が、東アジアでは日本人にしか見られないというのは非常に考え辛い。
これは徳島大医学部教授らの研究チームの発表で、不規則な分布をしていることは明らかとなっているが、普通に考えて、イスラエル10支族の血を引く人々は、韓国・朝鮮・モンゴル・中国・台湾等にも、無数に存在するはずである。
また、YAP(−)因子が、「失われた10支族」の遺伝子の特徴だと断定できる根拠は何だろうか。

実は、イスラエルの「アミシャーブ」という特殊機関の調査により、イラン・インド・アフガニスタン・中国・ミャンマー・南アフリカなど、世界中でイスラエル10支族の末裔が見つかり、その証拠が発見されているという。
彼らの遺伝子から、イスラエル10支族の特徴を掴んだのだろうか。
しかし、冷静に考えれば、共に「ヤコブ」を祖とする同民族「イスラエル12支族」に、血液やDNAに大きな違いがあるはずがない。
また、イスラエル民族は多民族との混血が少なくなく、それによるDNAの変化はあったにしても、「2支族」と「10支族」に二分化されるようなDNAパターンの変化は考えられない。

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『ユダヤ人と日本人の秘密』の中で、水上涼氏は「日ユ同祖論」について、このように指摘している。

「日ユ同祖論の不合理なところは、読者も最初からご存知のはずだ。
無人島であった日本列島にユダヤ人が流れ着いて、子孫を増やして日本人となったなどと信じる者は一人もいない。
アイヌ、ツングース、モンゴリアン、そしてポリネシアンで構成された祖先の中に、わずかなユダヤ人が混ざったようなことがあったとしても、なぜ日ユ同祖論を唱えなければならないのか?
しかし、その論が古くから執拗に繰り返されてきたのは、天皇家はユダヤ系という信念のようなものがあったからだ」

「日ユ同祖論の根底には、ハルマゲドン・コンプレックスとでもいうべきものが横たわっていることを忘れてはならない。
明治以来の日本の日ユ同祖論者たちが狂気に陥ってしまったのは、キリスト教に接触したからでもあった」

「それは、はじめから深い狂気にとりつかれていたのだ。
歴史学上の問題からまったく逸脱して、日本人とユダヤ人はどちらが正統かという主導権争いめいた論議になったり、日本人とユダヤ人とは、世界を救う大使命を担っているのだという誇大妄想狂的な心情になったりする。
それは、日ユ同祖論者たちが歴史学者ではなく、いわば牧師だったからだ。
小谷部全一郎、酒井勝軍、川守田英二氏らは、みなアメリカに留学してキリスト教の牧師になることを志した人たちであった」


水上氏は次のようにも述べている。

「日ユ同祖論を考える上で念頭に置かなければならないことがある。
それは、中東からユダヤ人だけが抜け出して日本にやって来たというわけではない、ということだ。
古代文明はシュメールで始まり、エジプトやインドに影響を与え、ここから東への貿易は盛んに行われていた。
したがって、その他の重要な民族も日本に来たわけであり、それらから日本民族が起こったと論じる者もいる」

「エルサレムの先住民族で、富を誇っていたエブス人は、関西地方でエベス様を信仰し、えびす市をたてたりしている人たちの祖先である。
イスラエル十二部族はヤコブから分かれたのだが、そのヤコブの双子の兄弟とされたエドムは、日本では出雲神族となっている。
そこで私はエジプトからカナンにかけて、イスラエル民族活躍の舞台として聖書に描かれた地『バイブル・ランド』全体に日本人の一源流を求めた。
事実、ここにいた民族の多数が、やはり日本に来ていたのであった。
したがって日本は第二のバイブル・ランドであり、我々は選民思想臭のつきまとうイスラエル十二部族の裔というよりも、バイブル・ランドの民といったほうがよりふさわしい」


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神官だった三島敦雄氏は「天孫人種シュメール人説」を主張し、社会主義者だった石川三四郎氏は「日本人ヒッタイト起源説」を提唱し、徳政金吾氏は「日本人エジプト起源説」、酒井勝軍氏は逆に「エジプト・ピラミッド日本人建造説」を唱え、木村鷹太郎氏は「日ギ同祖論」で、中央アジアの民族が地中海やインドへ移動し、後に日本人とギリシア人に分かれたと仮説をした。
いずれにしても、多民族が古代日本列島に渡来した訳だが、彼らはそれ以前から混血を繰り返してきた事は間違いない。

『創世記』には「エサウ(エドム)は四十歳のとき、ヘテ人(ヒッタイト人)とベエリの娘ユデテとヘテ人とエロンの娘バスマテとを妻に娶った」とあり、ヒッタイトとエドム(出雲)の親密性が窺える。
それは「出雲族」の「製鉄」と結び付く。
ヒッタイトは同時に、エドムの兄弟「ヤコブ」から誕生したユダ族とも混血している。
また、ユダ族のソロモン王はエドム人と同盟を結んでいた。
その為か、 「ソロモンの言葉」と出雲族の「スサノオの歌」が一致している。

これは木村鷹太郎氏の発見で、前にも紹介したが、ソロモンは次のように言った。

「主は日を天に置かれた。
しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。
わたしはあなたのために高き家、とこしえのみすまいを建てた」


スサノオも出雲で宮殿を建てた時、雲が湧き起こっている。

「八雲たつ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

木村氏によると、「八雲=ヤコブ」「出雲=エドム」らしい。

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水上氏は次のように述べている。

「イスラエルの他の部族から仲間外れにされたユダ族は、異色の存在であり、他の部族がシュメール的、アジア的、エジプト的要素をもっていたのに比べ、コーカサス的要素を多く持っていたのかも知れない。
そもそもユダヤ人というのは、民族学上のではなく宗教上の概念なのではないのか?
そしてユダ族はヒッタイト系だという、我々の祖先がした分類は間違いではない。
あれほど周囲の民族に罵声を投げつけていたユダヤ人も、自分たちが混血民族であることは認めないわけにはいかなかったのだ」


ユダ族のエゼキエルも次のように言っている。

「主なる神はエルサレムにこう言われる。
あなたの起こり、あなたの生まれはカナン人の地である。
あなたの父はアモリ人、あなたの母はヘテ人である」


また、イスラエル民族の中には、ヤコブがエジプト人に生ませた子の子孫たちも混ざっている。
『旧約聖書』の「エステル記」では、古代ペルシアのスサが舞台となっている。
イスラエル民族は時を経て、ヒッタイト系の末裔と思われる「ギリシア」「マゲドニア」「ペルシア」等の、古代オリエントで活躍した騎馬系アーリア民族や、北東アジアのセム系モンゴロイド等と融合していった。

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さて、ここから本題だが、先に「イスラエル12支族に血液やDNAの違いがあるはずがない」と述べたが、水上氏は「イスラエル民族の二重構造」を指摘している。

――あなたは「イスラエル人とヘブライ人は別人種」と聞かされて何と思われることだろうか。
今日、この二つは同意のものとされている。
ではなぜ、旧約聖書では別のものとして扱われているのだろうか?
またなぜ、区別できるユダヤ人はいないのだろうか?
旧約聖書によると、イスラエル民族の始祖先はアブラハムなのだが、その子イサク、孫のヤコブと続き、ヤコブの十二人の子供たちがイスラエル十二部族の祖先となった、という構成になっている。
ところが、なぜそういう構成になったかを疑問に思うユダヤ人はいない。
それは、あとに述べるが、アブラハムとイサクとに共通するある伝説の意味を理解できないことからきている。
アブラハムは、今から四千五百年前ごろの人とされ、もっと時代を遡るかもしれないとユダヤ人は豪語するのだが、ローマ人によってエルサレムが滅ぼされてから、ヨーロッパに現れるまでのユダヤ民族史は空白であり、記録もなければ、伝承もない――


ヨーロッパのユダヤ人については後回しにして、続きを読んで頂きたい。

――アブラハム、その子イサクにまつわる共通の伝承で、聖書学習が理解できないでいるものは次の挿話である。
彼がゲラルに留まっていたとき、アブラハムは妻サラのことを「これはわたしの妹です」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、人を遣わしてサラを召し入れた。
ところが神は夜の夢にアビメレクに臨んで言われた。
「あなたは召し入れたあの女のゆえに死なねばならない。彼女は夫のある身である」
このようにアブラハムは、妻を妹だと言ったために、ひどいトラブルに巻き込まれたのだが、神によって無事に救われたのだった――


アブラハムは100歳の時にイサクをもうけたが、イサクについても同様のエピソードが「創世記」に記されており、水上氏は次のように推論している。

「この不可解な挿話の繰り返しについては、アブラハムとイサクがもっていた風習とみなすべきであろう。
その風変わりな風習は、我々の祖先もまた持っていた。
我々の祖先もまた自分たちの妻を吾妹と呼んでいたのである」


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そして、次のように結論付けている。

――「出エジプト記」によると、神はモーゼに
「あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主」
と、ていねいに名乗っているのは、アブラハム、イサク、ヤコブはそれぞれ別の部族の伝説的族長だからであろう。
さらに「出エジプト記」33章には次のように書かれている。
さて、主はモーゼに言われた。
「あなたと、あなたがエジプトの国から導きのぼった民とは、ここを立ってわたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って『これをあなたの子孫に与える』と言った地にのぼりなさい」
このように話がくどくなるのは、もともとアブラハム、イサク、ヤコブは別々の部族の伝説的族長で、子孫も別々だからである。
シュメールの年代記記述法にあったが、横に併存しているいくつかの王朝を縦の系譜につなげて国内の統一をはかるという方法が、聖書でもとられていたのだ。
もっともその三つの民族が同時にカナンに入ったとは考えられないので、到着順が縦の系譜になっているのかも知れない。
このようにイスラエル民族は、妻を妹と呼ぶ風習のあるアブラハム、イサク族と別のヤコブ族との二重構造になっていた。
おそらく前の二部族が失われた部族につながるもので、ヘブライ人であり、ヤコブ族がイスラエル人と考えてみたい。
「創世記」ではただ一回の例外を除き、ユダヤ人すべてがヘブライ人と呼ばれており、イスラエル人という呼び名が現れるのはエジプト脱出以後のことである。
どうやら、ここからさまざまな二重構造が生み出されてきているようだ。
ここからわかることはヘブライ人の重み、いわば大物さで、我々にとっても関心を呼ぶところだ。
というのも、ヘブライ人の語源はイブリーなのだが、神代文字(漢字渡来以前にあったとされる文字。
各種古史古伝は神代文字で記述されたとする)の一つアビル文字は、失われた部族であるイブリーの文字だったのではないか、と私は考えている――


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この水上説を一笑することは出来ない。
遊牧民だったアブラム(アブラハム)の一族は、「移動する人々」の意で「ハビル人」と呼ばれていた。
シュメール王国の首都ウルから出発したアブラム族は、パレスチナ地方、そしてエジプトへと移動し、ユーフラテス河の対岸から来た人の意で「アビル人」と呼ばれ、それを語源として「ヘブル人」と呼ばれるようになった。
これが俗に言う「ヘブライ人」という民族の真相である。
勿論、ヘブライ人はイスラエル民族の一部であり、多民族との混血も重ねられてきたに違いない。
彼らが日本に渡来した経緯は順を追って検証していくが、次は「ユダヤ人」に焦点を絞ってみたい。
posted by 夢蛇鬼 at 00:30| Comment(2) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月04日

アルザルに移動した古代ギリシア人と古代文明「アスカ」の謎

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五島勉氏は「幻の超古代帝国アスカ」の中で、インドに「ASKA(アスカ)」という地名を発見し、1万年前はそこが文明の中心地で、文明滅亡後に生き残った人々が日本の「飛鳥」に流れたという仮説を発表している。
年代や文明滅亡については確たる根拠はないが、日本人はインドのASKA人の子孫だというのだ。

ロシアのウラジオストク大学の歴史学者オキノフ博士は、日本人の起源は北極海に面したシベリアの「チクシ」だとしている。
「チクシ」の東に「ヤナ川」があり、九州の「筑紫」及び筑紫地方の「柳川」と一致する。
「天孫(アマ)族」がインドから日本に移住してきたギリシア人である事から見て、五島氏の推理はあながち的外れではないと言えるだろう。

では、オキノフ博士の仮説はどうか。
高句麗より更に東北のロシア沿海州「悒婁=ユーロー」にギリシア人がいたという『魏志倭人伝』の話を思い出して頂きたい。
そこは「粛真(チュクチ)氏」の国と呼ばれ、九州の「筑紫・菊地」を支配していた人たちで、彼らが北へ移動し、それを追ってギリシア人も北へ移動したと加治木氏は述べている。
つまり、シベリアの「チクシ」の語源は、九州の「筑紫」だったことになる。
そうすると、彼らの一部が地球内部世界「アルザル」に入った可能性も考えられる。

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「山」の話の続きと「アスカ」の語源について、加治木氏は次のように述べている。

――アスカの語源がアショカ王の名から来ていることは、飛鳥寺がアショカ王寺を意味していることですぐわかる。
ではなぜ「アショカ」が「アスカ」になっているのであろうか?
お釈迦様の発音は、標準語だと「おシャカさま」だが、天智天皇の出身地・鹿児島県では、「シャ・シュ・ショ」という発音は、今は学校で教わるから別だが、本来の言葉にはなかった。
だから純粋な鹿児島語では「おサカさあ」と発音する。
アショカ王の場合も「ショ」という発音はないから「ソ」になる。
醤油は「ソユ」、焼酎は「ソツ」、アショカは「アソカ」になる。
鹿児島県には非常に古い家系として知られる姓が今も残っているが、その一つに「阿蘇谷」がある「アソガヤ」と読む。
これは一見、阿蘇山の谷を意味しているように見えるが、その山名のほうが後世のものなのである。
だから語尾の「谷」は「ヤ」という国を意味する代名詞で、「アソカ国」に対する当て字なのだ。
これと同じものにはアショカ王の国・マガダ国への当て字「曲田」姓がある。
この地域には他にも同じような超古代からの姓や地名が大量にあるので、その発生年代を緻密に分析してみると、古代鹿児島がアショカ仏教国だったことと、その史実が立体的に立証されるのである……
だからこの阿蘇谷は、その時代には「アソカ国」と呼ばれていた国が実在したことを記録しているのである。
当時、ヒミコは南九州から朝鮮半島までを支配した五彩圏連邦の女王だった。
その首都圏であった九州の中心にそびえる山が、仏教徒国民のシンボルとして、「アソカザン」と呼ばれたのは当然のことである。
これには今も使われている「阿蘇火山」という当て字の発音は、一字一音の誤差もなく、完全にぴったりしている……
アソカの名はその後間違いなく奈良に入った……
ただしそのアソカは、さらに天武天皇の革命でもう一度発音が変わった。
天武天皇は沖縄語人だったから、母音のオをもつ「ソ」の発音がないので、それは「ス」になる。
こうしてアソカは「アスカ」を生みだした。
これがアスカという発音の歴史なのである。
「阿蘇=アショカ山」
『日本書紀』では単に「火のつく山」としか書かない。
真実はヒミコ以来の信仰・仏教のシンボルだった。
山の名が示すものは、後のアスカに至る倭人の根強い仏教信仰なのである――


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「アショカ」という言葉が鹿児島で「アソカ」となり、それが天武天皇によって「アスカ」となった……
という事は、インドの「ASKA(アスカ)」の発音は、日本からの逆輸入なのだろうか。
ただ、スペルに関しては「ASIKA」と書く場合もあるようで、その語源は「ASOKA(アショカ)」なのか、それとも似ているだけなのかは不明だが、関連性は否定できない。
何故なら、ASIKAの場所は東インドのオリッサ州の山中だからである。
彼らの宗教が山岳信仰だった事は分かったが、天孫族は何故、活火山の多い九州を拠点にしたのか……

アリオンの預言者・北川氏はこう述べている。
「活火山の多い日本列島こそ、人類の進化と活性化に適した特殊な磁場を持つ地域であるという観測が、当時のアマ族によってなされていたらしい」

また、五島勉氏は、スペインのASCO(アスコ)、イギリスのストーンヘンジの近くのASCOT(アスコット)、地上絵で有名なペルーのNASKA(ナスカ)、洞窟が出有名なフランスのRASCO(ラスコー)、北米のALASKA(アラスカ)、シリアの首都・DAMASKAS(ダマスカス)などが、全世界に広がる「アスカ文明」の名残りだとしている。
それらは、ASOKA(アショカ)王の仏教宣布団の派遣先だったのかも知れない。
posted by 夢蛇鬼 at 00:00| Comment(4) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月03日

ギリシア人とイスラエル人の融合と「日本トルコ同祖論」の謎

「アマテラス」と「スサノオ」の祖先がギリシア人だったとすると、日本の天皇家はイスラエル民族ではなかったことになる。
残念ながら、「日ユ同祖論」は或る種の熱狂的暴論だったのだ。
しかし、全く無関係かと言えばそうではない。
「イスラエル人『卑弥呼』と白人『イエス・キリスト』の謎」で書いたので重複するが、紀元前722年、イスラエル10支族はアッシリア帝国の捕虜として拉致され、アッシリアを敵とするスキタイによって解放された。
ギリシアにはヒッタイトの末裔が浸透しており、ギリシア起源のスキタイ騎馬民族はヒッタイト民族の末裔である。
元々、イスラエル民族はヘテ(ヒッタイト)人を敬い、ダビデの時代から混血も少なくなかった。
それ故、イスラエル民族は騎馬民族でもある。

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飛鳥昭雄+三神たける著『失われた古代ユダヤ王朝「大和」の謎』 でも、次のようにある。
「スキタイの発祥は黒海周辺だといわれており、民族的にはアーリア系で、ギリシア系の文化をもっていたことが分かっている。
が、騎馬軍団で遠い国まで遠征すれば、当然ながら多民族との交わりが多くなり、文化や習俗はもちろん、血縁的関係も深くなった。
失われたイスラエル10支族と接触があれば、間違いなく、彼らと合流したはずだ」


そして、アフガニスタンのパターン人(パトゥシュン人)、インドのカシミール族、ミャンマーのカレン族、ミナシェ族、中国のチャンミン族なども、失われたイスラエル10支族の血を引いていることが明らかになっている。
イザナミの出身地とされるアフガニスタンやインドにも、イスラエル10支族の子孫が実在している事は注目に価する。
また、インドと中国を結ぶルートにパミール高原と天山があるが、天山を隔てた西のカザフスタン人のDNAは、日本人のそれと90%同じである。

紀元前2000〜1500年、今日のカザフスタン付近に、鉄器文化を持ったインド・ヨーロッパ語族が進出してきた。
彼らは「アーリア人=高貴な人」を名乗り、年代的に見ても「ヒッタイト人」である事は間違いない。
アフガニスタン北部のバクトリアは元々、アッシリアが分裂して出来た4王国の1つであるメディア王国の一部で、ゾロアスター生誕の地でもある。

その後、紀元前518年、アケメネス朝ペルシアに制服され、ペルシア帝国の一部となった。
メディアの部族のいくつかはスキタイの部族名とも一致し、北イスラエル王朝滅亡後、失われた10支族とスキタイが合流した経緯も納得できる。
尚、ペルシア神話(ゾロアスター教)はインド神話に大きな影響を与え、ゾロアスター教の善神アフラ・マヅダの正体は「アリオン」だという。

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紀元前597年、南ユダ王国のユダヤ人がバビロニアに滅ぼされ、スペインに亡命したが、一部はバビロンに捕虜として連れ去られ、後にペルシア(スキタイ)によって解放された。
紀元前334年、マケドニアのアレクサンドロスがペルシア軍を壊滅させ、この時にアレクサンドロスの軍に大勢のユダヤ人が参加し、秦の支配者となったらしい。
夢蛇鬼説では、マケドニアもペルシアもヒッタイトの末裔である。
マケドニアは、同じギリシア系民族であるアテナイ・テーバイ連合軍を破ってギリシアの覇権を握った事から考えて、同族のペルシアに侵攻した事は不思議ではない。

そして紀元前37年、エルサレムがヘロデ王に征服され、この頃に高句麗が成立しており、ユダヤ人が高句麗の建国に関与したのではないかと睨んでいた。
高句麗人はカリエン人・バビロン人だが、「ユダヤ人」も含まれていたからだ。
何故なら、前述の通り、紀元前597年に南ユダ王国のユダヤ人がバビロンの捕虜となり、そのままバビロン人と同化したユダヤ人もいたはずだからである。
では、高句麗のカリエン人の子孫であるミャンマーのカレン人が、「イスラエル10支族」の血を引いているのはどういう事なのか。

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「三国史記と失われたイスラエル10支族の謎」で詳述したが、元々、半島北部から満州地方にあった高句麗の始祖・朱蒙(温祚の父)は「扶余族」だが、 「夫余族」の始祖の名は「解夫婁(ヘブル)」といい、ヘブルとは「ヘブライ」のことである。
「扶余族」は北東アジアを席巻していた騎馬民族で、 「タタール人=ヒッタイト人」だとすれば、扶余族は「ヒッタイト+イスラエル10支族」のハイブリッド民族である可能性が濃厚となる。

また、インド・アフガニスタン・イラクに隣接する「トルキスタン」も、元々はアーリア系の国家で、北方のカザフスタン同様にヒッタイト民族の流入があったと考えられる。
トルキスタンは「テュルク人(トルコ人)の国」という意味で、7世紀頃からトルコ系ウイグル族の進入があった。

一方、トルコ共和国はかつてヒッタイト帝国が栄えた地に存在するが、トルコ人は隣国のギリシア人やフランス人、スペイン人等との混血を除いて、自分たちのルーツが中央アジアの騎馬民族であり、それが西方へ移動してトルコ人になったと信じている。
つまり、それは古代トルキスタン人(ヒッタイト人)であり、トルコ人はヒッタイト人の郷帰り民族だと考えられる。
更に彼らは、中央アジアの騎馬民族が東方へ行ったのが日本人だと信じており、かなりの親日国であるらしい。
実際に、純正のトルコ人の顔は、戦前の日本人と良く似ていると言われている。
ここに「日本トルコ同祖論」の仮説が成立する。

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そして、中央アジアの騎馬民族が「ヒッタイト+イスラエル10支族」であるなら、トルコ人にもイスラエル10支族の血が流れている事になる。
「日ユ同祖論」というよりも、日本人とトルコ人が同じ祖先を持っているとした方が的確である。
トルコ人がギリシア人やスペイン人との混血があったとしても、ギリシア人にもヒッタイトの血が流れており、多くのスペイン人にもユダヤ人の血が流れている。

また、日本人同様、トルコ人にもインド人の血が流れていると思われる。
古代トルキスタンはシルクロードの要所として発達し、古代ギリシア・ローマ文化や仏教、イスラム教などが交錯した。
そして、「トルコ共和国」「東トルキスタン共和国」の国旗はインドの国旗と同じく、三日月と星が描かれている。
アリオンの預言者の北川氏によれば、三日月は「日向族」、星は「出雲族」のシンボルらしい。

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卑弥呼の祭政形態である鬼道が、太陽神アポローンに仕える「ピューティア」と呼ばれるギリシアの巫女の特徴を備えている事を紹介したが、以前述べた通り、これはモーゼの祭政形態にも共通する。
そして、卑弥呼は牛(ツルカルナイン=角がある人)であると同時に、蛇(ヤマタノオロチ)でもあった。

モーゼは牛神「バアル」を崇拝し、黄金の子牛を祀っていた。
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂のモーゼ像に角が生えており、ギュスターヴ・ドレの聖画でもモーゼの頭に角が描かれている。
モーゼが「牡牛族」だったことは疑う余地がないが、蛇に変身する魔法の杖や、旗竿に絡む青銅の蛇を持っていた。

これは、2匹の蛇が絡み付くヘルメスの杖と符合するだけではなく、ギリシア神話の太陽神アポローンの息子アスクレピオスが持っている杖にも蛇が巻き付いている。
その他、ローマ神話のアイスクラピウス、フェニキアやカルタゴで信仰されたエシュムーンも、蛇が巻き付いた杖を持っている。
それらの原型は、シュメール及びバビロニア神話の冥府の神ニンギッジドゥが持つ杖で、やはり蛇が巻き付いている。
そしてニンギッジドゥは、「角のある蛇」を従えている。

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『竹内文書』には、モーゼが来日した事が記されているが、熊本県の弊立神社の秘宝「モーゼのお面」、モーゼと共に渡来したユダヤ人一行が奉納したとされる「水の玉」の存在を考えると、卑弥呼の鬼道とモーゼの関連性は否定できない。
モーゼが来日したかどうかは兎も角、地中海からフェニキア人やエドム人、そしてイスラエル人などが渡来していた事は間違いないだろう。
『出雲風土記』の「因幡の白兎」の神話が、マレー半島の「鹿とワニの民話」に酷似しているが、その中に「ソロモン王」が登場することも鹿兎(シカト)できない。

明治の歴史学者・吉田東五は、
「卑弥呼の城跡は、隼人城の北の姫城村にある」と主張した。
同じく、明治の那珂通世も次のように述べている。
「卑弥呼は熊襲の女酋で、北九州の国々まで威令を奉じた。
女王之所都は曽於郡水郷に姫木城があったと伝えられており、姫木は姫の城で、女王に関係のある地名だろう」


加治木氏はこのように述べている。
「幕末の歴史学者に鶴峯
彼も卑弥呼の邪馬臺国は姫木だといった。
その地域は、いまは隼人町と国分市に分割され、現地に行ってみると想像以上に広大で、その中央に姫木山が急峻な絶壁に囲まれて聳えている。
その姿はモーゼが十戒を授かったというシナイ山によく似ていて、いかにも別世界の仙境を思わせる山城跡である」

(黄金の女王・卑弥呼)

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京都の祇園祭は7月17日に行われるが、同日、イスラエルではシオン祭が行われる。
だが、加治木は次のように主張している。

――大掛かりな設備で知られる祇園祭の「山鉾」や「山笠」や「山車」などは皆、ジンドゥの行事なのである。
それは北はネパールから南はマレーシア、バリ島に至るまで、ジンドゥ教徒のすむ地域で、すべて見られる祭り行事であり、日本のそれとまったく同じだといっていい。
ここで注意していただきたいのは、日本のその行事には、すべて「山」という名が文字の形でついていることである。
この山は「ヤマ」すなわちシバを表しているのである。
シバを日本では「ヤマ」として信仰していたことがわかる――


祇園祭はイスラエルがルーツなのか、インドがルーツなのか……。
恐らく真相はこうだ。
天孫族(日向族+出雲族)はギリシア系インド人だが、「ギリシア系」とはアレクサンドロス率いる騎馬民族「スキタイ」であり、その中には多くのイスラエル民族が混ざっていた。
それ故、天孫族によって「インド」「ギリシア」「イスラエル(ユダヤ)」等の古代オリエントの宗教要素や文化・言語が、日本に流入したのだろう。

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尚、「山」について加治木氏の説明を紹介しておきたい。
@シュメールでは「山」を崇拝する伝統からジグラット=巨塔を神体とした。
この宗教をバビロンの滅亡後、日本列島へもちこんだのが「カリエン」人たちで、彼等が神と、その継承者を「シュメール=スメラ」「王=キ」=「スメラギ」と呼び、バビロンのアキツゥの祭り(正月)が「秋津島」の語源になって、神話の古代国名を生んだのである。

Aシュメールがスメラになったのは、それが日本へくる前にインドに入って「ヒマラヤ」を「スメラ山」と呼んだからであるが、そこでスメラはさらに多くの方言によって、「スベラ」から「スバラ=素晴らしいの語源」「スバ・スワ・シバ・ジマ・ジャマ・ヤマ」などと訛り、その主神を「シバ・ヤマ」神とするシンドゥ教の一派「シバ派」になった。

Bそれより前、バビロンに倒されたシュメール人たちは、中国に入って「周」と呼ばれ、殷人の帝国・商を倒して天下を取ったが、以後、「山」を崇拝する伝統が中国各地の名山崇拝となり、それを台湾を「ホーライ=ギリシャ神話の季節の女神」と呼ぶギリシャ系中国人・徐福らの「方士」が受け継いで「道教」の体系を整えた。

Cこれが秦の始皇帝のとき、徐福が日本に「ヤマ教」としてもちこんだもので、それは本来「オリンパス山」を神の住いとするギリシャ宗教につながる山岳宗教だから「ヤマ」で、種子ガ島・南種子町の「広田海岸遺跡」から発見された「貝製装身具」に漢字の「山」と、ギリシャ文字の「アイ・クマ」とが書かれているのは、このためなのである。

Dこの地域には、さらに古くからインド語や、マレー語を話す人々が定住していたし、往来していた。
それは土器などの共通性と貝製腕輪などの出土品、それに今も大量に日本語の中に残っているマレー語やパーリ語やヒンドスタニーの単語が証拠であるし、『記・紀』の神名や人名もまた動かない証拠群を形づくっている。


これらを融合したものを導入し、最大勢力に発展したのが「アショカ仏教」だという。
そして、「スメラミコト」はヘブライ語で「サマリアの王」だと言われいる。
「サマリア」とは、10支族が住んでいた北イスラエル王朝の首都である。
更に興味深い事に、4世紀頃のトルコで「スメラ修道院」というギリシア正教会(現在は廃墟)が建立されている。
posted by 夢蛇鬼 at 03:25| Comment(2) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月02日

「アレクサンドロスとアショカ王」の謎と「秦始皇帝と卑弥呼」の秘密

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紀元前327年、アレクサンドロスがマカダ国のナンダ朝を滅ぼした。
その時、チャンドラグプタがアレクサンドロスに気に入られ、紀元前322年に、マウルヤ(孔雀)朝の初代王に即位したという逸話があり、チャンドラグプタは、ギリシア人の史料に「サンドロコットス」の名で記録されている。

マウルヤ朝は、アレクサンドロスの死後、後継者争いの後に誕生したギリシア系の国々、ペルシア、バビロニア、エジプト等との国交が盛んだった事が、アショカ王塔や新ペルシア帝国の記録に残されている。
そして、新ペルシア帝国のセレウコス皇帝は、王女をチャンドラグプタと結婚させ、義理の親子となった。
つまり、マカダ国の3代目の王であるアショカの祖母は、ペルシア人(ギリシア人)だったのだ。

「彼が、世界に広めようとしていたアショカ仏教は、単にシャカ族の王族であった釈迦の教義というよりは、もっとギリシア色の濃いもので、エジプトやバビロンの宗教哲学も取り入れた一大総合宗教だったのである」
(黄金の女王・卑弥呼)

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尚、デリーの鉄柱「アショカ・ピラー」は、チャンドラグプタ2世、即ち、アショカ王の父・ビンドゥサーラが建立したという説もある。
詳細は「イスラエル人『卑弥呼』と白人『イエス・キリスト』の謎」を読み直して頂きたいが、ギリシアにはヒッタイト人の末裔が浸透していた。

紀元前4世紀後半には、ギリシア人国家「マケドニア」のアレクサンドロス大王が、アケメネス朝ペルシャを征服後、パミール高原以西までを征服し、インド・ヨーロッパ・アフリカ・アジアを征服し、ギリシア人及びギリシア文化を流入した。
パミール高原やパキスタンに浸透しているフンザ人もペルシア系で、アレクサンドロス遠征軍「スキタイ」の末裔だと言われている。
もっと言えば、釈迦が誕生する以前から、ユーラシア大陸からインド亜大陸までをスキタイが席巻し、釈迦はそのスキタイ(中国語でサカ族)の王子として誕生した。

紀元前518年頃、現在のアフガニスタンの位置にあったメディア王国が、アケメネス朝ペルシアに征服されてペルシア帝国の一部となったが、紀元前328年頃、アレクサンドロスに征服され、アレクサンドロス率いるギリシア人が在留した。
『竹内文書』の「イザナミ・アフガニスタン出身説」も、卑弥呼がギリシア系の血統だったことを証明している。
的確に言えば、それはバクトリアだった可能性が高い。
紀元前256年頃、アレクサンドロスの後継者「ディオドトス」が反乱を起こし、アフガニスタン北部にギリシア政権「バクトリア王国」を建国。
バクトリアのギリシア人は、インドにおいても宗主権を行使した。

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「アレクサンドロスと秦始皇帝の謎」で詳述したが、バクトリア王国は仏典で「大秦」と記され、秦(ハタ)は「幡」に通じ、神功皇后の子「八幡」に繋がる。
中国の「秦」は大秦(バクトリア王国)の植民地で、金髪碧眼だったという伝説を持つ秦始皇帝の正体が「ディオドトス」だった可能性が高い事は既に述べた通りである。
そして、始皇帝陵から出土した「兵馬俑」は「ペルシア軍=スキタイ」で、殉死の生贄を埴輪で代用している。

これは、殉死を禁止した垂仁天皇を思い出させ、また、マグモニーグルの透視で判明した卑弥呼の墓と共通する。
つまり、卑弥呼の部族はこの風習を受け継いでいたのである。
更に言えば、卑弥呼は秦始皇帝(ディオドトス)の子孫だった可能性もある。
何故なら、ディオドトスはアテネ人だったからである。

また、ゾロアスター教の開祖ゾロアスター(ザラスシュトラ)はバクトリアの王だったという伝説があるが、ピタゴラスはゾロアスターの弟子だったと言われている。
そして、ピタゴラス学派の考え方は、プラトン哲学及びギリシア思想の主流となった。
紀元前343年には、プラトンの弟子アリストテレスがアレクサンドロスの家庭教師となったが、この流れを見ていくと、アショカ仏教には「ゾロアスター教」や「ギリシア神話」の思想も流れていた事は想像に難しくない。

そこで木村鷹太郎氏が、「アラシト」を「アリストテレス」に比定していた事は興味深い。
そして、ゾロアスター教は「拝火教」と和訳されているが、 「火は日」「水は月」であり、ヒミコを「火見子・火巫女・火神子」等と当て字する事も出来る。

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鬼道のギリシア色側面について、加治木氏はこのように述べている。

――ヒミコはなぜ宮殿の奥深くにいて人に会わなかったのか?
なぜ、ただ一人の男子だけが、その言葉を伝えたのか?
その理由がはっきり分かる。
それはギリシャで太陽神アポローンに使えた「ピューティアと呼ばれる巫女」の特徴を全部備えているからである……
古代ギリシャのデルプォイ神殿の背後にある洞窟や、イオニアのディディマの神殿の奥深くに、そのピューティアはいて、岩の裂け目などで湯を沸かし、その音から神の言葉を聞き取って、男性の神官(日本ではサニワという)にそれを伝える。
神官はそれをまた解釈して信者に解説して伝える。
ヒミコの場合と全く同じだし、後世の天皇も、直接だれとも会わず、自分は御簾の中にいて、会いに来たもののコトバは、大中小の「納言」という役人がそれを取り次ぎ、天皇のコトバもまた彼らが取り次ぐという特殊な制度になっていた。
これもまた、ヒミコの場合と全く同じで、それがギリシャ起源のものであることを証明している――


「アマテラス」と「スサノオ」の祖先は、ギリシア人だったのだ。
posted by 夢蛇鬼 at 01:11| Comment(7) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月01日

アショカ王の「カースト仏教」と鉄柱オーパーツの謎

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紀元前317年頃、インドで栄えたマガダ国にマウリヤ朝が興り、3代目のアショカ王(在位:紀元前268年-232年)時代に全盛期を迎え、南端部分を除くインド亜大陸全域を統一したとされる。
「アショカ王暴君説」もあるが、それが事実なら、スサノオよろしく「荒らぶる王」だったことになる。
だが、それを証明する歴史的資料はなく、暴君説は後世の創作とする意見もある。
いずれにしても、アショカ王の石柱には、パーリ語やギリシャ語で様々な文章が刻まれており、「上座部仏教」を支持していたらしい事が分かっている。

上座部仏教は「小乗仏教」とも呼ばれているが、これは大乗仏教に対する蔑称であり、世界仏教徒会議で「小乗仏教」という呼称を使用しないことが決議されている。
また、上座部仏教はアショカ王の時代に、スリランカ、タイ、ミャンマー(ビルマ)などの東南アジアに伝播した為、「南伝仏教」とも呼ばれる。

釈迦は重要ではない戒律の変更を認めていたが、釈迦の死後、戒律の変更を支持する大衆派と、保守派の上座部の「根本分裂」が起こり、更に枝葉分裂が起きて「部派仏教」の時代に入った。
その中で最も大きな勢力を誇ったのが「説一切有部」で、大乗仏教が主な論敵としたのはこの「説一切有部」だった。
その後、大乗仏教は他の部派仏教を吸収する形で北インドから東アジアに広がったが、説一切有部の分派であるスリランカの一派がこれに対抗し、再び「上座部」の名称を用いたことで部派仏教が終焉を迎え、仏教は「大乗」と「上座部」に二分された。

現在の「上座部」は、この部派仏教の一宗派の教えを起源としており、根本分裂の頃の「上座部」とは異なるという指摘がある。
上座部仏教では、釈迦の教えを純粋に守り伝えてきたとされるが、大乗仏教の経典に残る部派仏教の教えや、パキスタンで発見された別の部派仏教の教典と、上座部のパーリ教典の相違からも確認されている。
要は、現在の「上座部」はアショカ王の時代のそれとは同一とは呼べないが、仏教は大別して「大乗仏教」と「上座部仏教」があるという事だ。
本来の上座部仏教は、釈迦が定めた教義と戒律、智慧と慈悲の実践、即ち「根本分裂」以前の「初期仏教」を根幹に据えていた。

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【上座部の教義】では、輪廻を繰り返す生は苦しみであり、その原因は心の執着(貪瞋癡)である。
心の執着を断ち、輪廻を解脱する方法が「教典の学習」「戒律の厳守」「瞑想修行」だとしている。
確かにこれは、初期仏教の経典「阿含教」の真髄と一致する。
大乗仏教はこれを、「自己の修行により自分だけが救われる小乗仏教」と呼んだのである。
私の個人的意見だが、自己を救えない者が他者を救うことは出来ず、その自己を救済する方法が「上座部」であるなら、それを広めることで各々が自分で自分を救済し、人類救済に繋がると思うのだが……。

この「上座部仏教」の賛否は兎も角、アショカ王が支持していたのが「上座部仏教」だった。
だが、釈迦の教義のみを純粋に守り伝えるというスタンスではなく、アショカ王は仏教以外の様々な宗教をも保護した事が分かっている。
アショカ王の政治は、ダルマ(仏教の法)を前面に押し出さず、バラモン教、ジャイナ教、アージーヴィカ教などを、仏教と対等の立場として位置付けていた。

アショカ王のダルマの内容は、「不殺生」「正しい人間関係」「父母に従順」「礼儀正しく」「バラモンやシャモンを敬い、布施を怠らないこと」「年長者を敬うこと」「奴隷や貧民を正しく扱い、他者の立場を配慮すること」などで、バラモン教・ヒンドゥー教のカースト制度も採用している事が分かるが、あくまでも共生の理念が根本にある。
これは、邪馬台国の社会システムにも共通する。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国の厳しい階級制度について記されているが、仏教の「慈悲」の思想によって共存共栄が図られていた。

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加治木氏は『黄金の女王・卑弥呼』の中で、このように述べている。

――ソナカの初代がインドを出発したのは、紀元前三世紀の半ばだから、ヒミコの時代まで五百年たっている。
それでも日本列島に到着したその支配者は、やはりソナカの名を持ち続けていた。
この数世紀にわたる永続する支配力は何によるのだろう?
その答えは、その統治システムにある。
それはインド独特の「カースト制度」である。
これは「四姓」という階級を永久に持続させるシステムで、時代とは無関係に、機械的に「同じ仕事」をこなしていく。
古代の変化の少ない経済基盤は、権力闘争ですべてが破壊される以外には、ほとんど変わらなかったから、その「権力闘争」が起こらないシステムの社会構造が、うまくいけば国は栄えた。
それはちょうど「アリ=蟻」の社会である。
だから今からみればずいぶん不合理な、非人道的なカースト制だが、当時はそれがうまく機能したし、また仏教の教義として「慈悲・絶対の平和主義」があった。
だからカリエンその他の人々とも共存し、国民にも広く支持されたのである。
このこともヒミコの「鬼道」の中身として、忘れてはならないものなのである――


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尚、『雑阿含経』には、アショカ王の前世の因縁についての説話がある。
釈迦が弟子のアーナンダーを連れて行乞していると、徳勝童子と無勝童子が砂遊びをしていた。
徳勝は釈迦を見ると、砂の餅を作って供養し、無勝は合掌した。

釈迦はアーナンダーにこう言った。
「この童子は、私が滅度して100年後に華氏城で転輪聖王になるであろう。
姓は孔雀、名を阿育(アショカ)といい、仏法を以て国を治め、8万4千の仏塔を建立し、衆生を安楽にするであろう」


この予言通り、頻頭沙羅王の王子として、徳勝は無憂(アショカ)、無勝は離憂という名前で生まれたとされている。
さて、アショカ王には数多くの王子がいたが、彼らは総督や将軍として各地に派遣されていた。
これが、「アショカ仏教宣布団」の各リーダーだったのだろうか。

『プラーナ文献』によると、アショカ王の次の王は「クラーナ」だとされているが、他の伝説や仏典の記録とは名前も年代も一致しておらず、アショカ王の死後、王位争奪戦によって王朝は分裂し、紀元前2世紀初頭にはシュンガ朝の勃興により滅亡している。
アリオン説では、ソナカ(出雲族)が王位継承の証である「十種神宝」を所有していたとされ、ソナカがアショカ王の真の王位継承者だった可能性が高い。
だとすれば、アショカ王がイスラエル10支族の末裔だったのだろうか……。
それは、もう少し時代を遡る必要があるが、興味深い話がある。

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インドのデリー郊外に、1500年間錆びない鉄柱があり、オーパーツとして知られているが、一説ではアショカ王の建造物とされ、「アショカ・ピラー」と呼ばれている。
高度な製鉄技術を持つ民族と言えば、真っ先にヒッタイト人が思い浮かぶ。
そして、ソナカ率いる「出雲族」も製鉄民だった。
アショカ王とは、一体何者なのだろうか……。
そう言えば、釈迦も「サカ族=スキタイ」で、夢蛇鬼説では「ヒッタイト+イスラエル10支族」の末裔である。
果たして、真相は如何に……。
posted by 夢蛇鬼 at 04:34| Comment(4) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月30日

インドから渡海した「出雲族=ソナカ仏教布教団」と「鬼道」の関係

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アリオンによれば、人類の進化を促し、真の繁栄に導くことを目的に、紀元前3〜2世紀、パミール高原を旅立った複数のアマ族のグループの内、2グループがインドを経由して、陸路と海路に分かれて日本列島を目指したという。
実は、これと良く似た話が存在する。
そう、天照大神が「ニニギ」と「ニギハヤヒ」を、高天原から天孫降臨させた話である。
だが、この神話の真相は加治木氏が解明している通り、「高天原(コー・オマ・ゲン)」=「熊毛」だった。

しかし、歴史は繰り返す……という事は、それ以前にも「天孫降臨」は起きたはずで、パミール高原からアマ族の2グループが熊毛地方に上陸した事が、それに当たると言えるだろう。
でも実は、アリオンの話に似ているのは「天孫降臨」の事ではない。
紀元前308年〜紀元前257年、アショカ王がインドの辺りから、東西南北に仏教宣教師団を派遣している。
その数、一方向につき、護衛の軍隊を含めて1万人にも及び、5年毎に会議を開いて報告させたことが、岩に刻んで記録されている。
西に向かったグループは、エジプトのアレクサンドリアで仏教を布教したことが、エジプト側にも記録が残っており、その他、シリア、マケドニア、チレニア、イピルス等の国々で布教したことが記録されている。
しかし、東に向かったグループの記録が残っていないらしい。

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だが、各国に散らばったグループの、部族名と行き先の記録は残っているらしく、加治木氏がそれを解読している。

――アショカ王が四方に派遣した人々の顔ぶれを見てみると、「アパランタカへ行ったヨナカ」というのがある。
これは中国で当て字したものを見ると「阿波蘭多迦」となっている。
この国名は「阿波」と「タカ」という名前の組み合わせが日本的でおもしろい。
それは別の字を使うと「芦原の高」(福井県に[芦原=アハラ]温泉がある)と書くこともできる。
また「ヤナカ・ロカに行ったマハーラッキタ」がある。
これも東京都の「谷中(ヤナカ)」と同じ発音だし、梁河・柳川といった当て字もできる。
「タムバ・パンニディーパへ行ったウッチヤ」というのもある。これは「丹波」に合う。
次が「スバンナ・ブーミーへ行ったソナカ」だ。
私たちの「ソナカ」とまったく同じ名の人がいるのである。
この「ロカとかディーパとかマハーラッキタ」とかいうのは、「世界、地帯、島、地方」といった意味のコトバであるから、ソナカ氏が行ったのは「スバンナ」というところだった。
これに「邪馬臺国」を見比べてみると「邪=ス」「馬=バ」「ン=の」「国=ナ」と、いかにもそれらしく見えるのである――


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――また他の当て字を使って「諏訪の国」と書くこともできるから、これは確かに日本のことだという気がするかもしれない。
しかしそう思うのは早合点で、この国はミャンマー(=ビルマ)のことだと分かっている。
だが「それでは日本と全然、無関係だ」と思うと、それもまた早合点なのである。
この「スバンナ」は、アショカ王やお釈迦様が使っていた古代インド語の「パーリ語」で、黄金という意味である。
これは日本が「黄金の国ジパング」としてマルコポーロに紹介されたことを思い出させる。
それは十三世紀のことだが、彼はその情報を中国人から聞いたのである。
その中国ではいつから日本と黄金を結び付けて考えていたのか分からない。
「こがね(黄金)花咲く」とうたわれた奥州は、まだ正確には分からないほど、もっと古くからの産金地だったからである。
同じ十三世紀に、暴風にあって沖縄へ流れ着いた九州の商人が写生したスケッチがあるが、その風俗は完全に、今ビルマからタイにかけて住んでいる「カリエン人」と同じなのである。
それはどちらも鉢巻きを左結びにするところまで同じだし、沖縄の婦人たちが、髪の毛を巻いて、一本のカンザシで止める、あの風俗もまた共通なのである。
……だからソナカ氏一行が、ビルマからマレーに、そしてインドネシアにと、足をのばして日本まできた可能性は、いよいよ強くなってきた。
なぜなら卑弥呼の「鬼道」は「シンドゥ教」の要素が多分に入っているだけでなく、それ以外にソナカ氏がインド東方に広めた仏教や、そのほかの宗教の要素らしいものまで、また多分に入っているからである――


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やはり、ソナカ(スサノオ)はインドから日本に来ていたのだ。
だが、これは紀元前3〜2世紀の話であり、卑弥呼(神功皇后)の夫のソナカ(仲哀天皇)の事ではない。

アリオンは言う。

「海路グループの族長は、スサノオの曾祖父、およびスサノオの父フツであった」

つまり、後にスサノオを生んだ部族「ソナカ王家=出雲族」が渡来したという事なのだ。
では、卑弥呼の「鬼道」の本当の正体は、一体何なのか。

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引き続き、『黄金の女王・卑弥呼』から抜粋したい。

―――純粋のインドのシンドゥ教は、今でもスリランカのタミル人が宗教戦争を繰り返すくらい神経質で、とても卑弥呼のように多くの宗教要素を「取りいれる」ことはありえない。
これは古代はもっとひどかったことが分かっている。
仏教はそれとは正反対に、シンドゥ教もギリシャの神々も取り入れた。
ガンダーラ仏を見ればお分かりのように、仏像はギリシャ文化の産物なのである。
とすれば卑弥呼の一見シンドゥふうの「鬼道」は、そのソナカ氏の「アショカ仏教」だったとしなければならなくなるのである。
というより彼女の夫がソナカという名をもっており、卑弥呼自身も神功皇后としての名乗りが「ソナカ・タラシヒメ」だったのだから、その「鬼道」と記録されたものこそ、ソナカ家が代々、インドより東方の国へ広め続けてきた「アショカ仏教」そのもので、なければならないことになる――


本当に「鬼道」は仏教だったのか、そして「鬼道」が神道になったのか……。
そうすると、神道の本質は「仏教」という事になるが……。
そして、「シンドゥ」の本当の意味は……。

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加治木の結論は次の通りである。

――「鬼道」がどんなものか大体分かったが、まだ疑問が残っている。
それは仏教とも神道とも、どうも様子が変わり過ぎていることだ。
それはインド発生か、それともヒミコの人種構成に見るように中東起源のものだろうか。
ひとつ日本以外の痕跡を調べてみよう。
先に倭と同じ「エンブダイ」からきたらしい名にだまされた「ジャワ・邪馬台説」を見たが、あそこはなにか教えてはくれないだろうか?
魏の次の晋が末期に余命を保った東晋王朝の時代、三九九年にインドへ旅してマカダ国へも行き、 『仏国記』をのこした中国の僧法顕は、仏教史上では最も有名な人物の一人だが、その『仏国記』の中にも、彼がその旅で実際に見た「ヤバダイコク=耶婆提国」が登場する。
これは名は邪馬臺国に似ているが、彼が記録した旅程と、その位置関係からみて、それが例の「ジャワ・邪馬台説」のヒントになった当時のジャバ国、現在のインドネシアのジャワ島のことだと、はっきり確認できる国である。
その国は、その当時「シンドゥ教国」で、仏教徒も少しはいたが、それはごくわずかだったと書いている。
これは前にお話したように、国の名前はもともと「ジャムブ・ディパ=中国の当て字=閻浮提(エンブダイ)」から、「ジャバ」になったものであった。
だが、この法顕の当て字では「ヤバ」とは読めても「ジャバ」とは読めない。
これは日本のほうも「ジャマダイ」から「ヤマダ」に変わったのと、全く同じ現象をみせている。
ここで少し読者の誤解をといておかねばならない。
それはシンドゥという名の本当の意味だ。
インドでシンドゥ教が、宗教として発展し定着したのは、ヒミコ時代よりずっと後の八世紀のことである。
そしてインドには宗教というコトバはなかった。
だから日本で、古代に呼ばれた「シンドゥ」も宗教名ではなくて、シンド人という「種族名」だったのである。
またジャワで「ジャバ」が「ヤバ」に変わった法顕の時代に、そこでは「仏教」はすたれて「シンドゥ教」になっていたように、倭国でも「鬼道」がすたれて「神道」に変わり、同時に「ジャマダイ」も「ヤマダ」に変わった、という相関関係がはっきり認められる。
ということは、ここで疑問になった「鬼道と仏教と神道の違和感」の原因は、 「神道」とは鬼道ではなくヒミコの後の「人種名」だったためなのだ。
鬼道は神道ではなかったのである……――


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私は過去、「日向族=ユダヤ人」「出雲族=失われた10支族」で、ユダヤ教が神道になったと仮説していたが、検討外れだったようだ。
だとすれば、「日ユ同祖論」も根本的な見直しが必要である。
だが、本当に無関係なのか。
その前に、世界各地に仏教布教団を派遣した「アショカ王」に迫ってみよう。
posted by 夢蛇鬼 at 14:00| Comment(4) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月28日

尼寺の拝み手「卑弥呼」と倭人の正体と日本建国の秘密

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いきなりだが、『黄金の女王・卑弥呼』より抜粋する。

――鹿児島湾に面した大根占(オオネシメ)という町がある。
鹿児島の方言は、大隅側は沖縄語の影響が強いとお話したが、この名は地元では「オニシメ」と発音されている。
これに当て字すると「鬼姫」という名ができる。
これは怖い名だが「鬼道」と書かれた卑弥呼の仕事と、何か共通する何でもある。
また広東語などの南中国語では、「倭人」を「オニ」と読む。
とすれば確かに卑弥呼も天照大神も神功皇后も、実名ともに「鬼姫」だったことはまちがいない。
皆、よろいかぶとに身を固めて、戦争をした記憶をもっているからである。
そしてこの地方では、幼児が夜遊びをしたり、いうことをきかないと、「ワンがくっど(ワニ=倭人が来るぞ)」といっておどかす。
いまもなお、潜在意識の下に、かつて倭人が攻めてきて上陸した記憶が残っているのである――


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『出雲風土記』の「因幡の白兎」の物語は、マレー半島の「鹿とワニの民話」をルーツとしているが、「ワニ」とは海人族の「倭人」のことではないだろうか。
因みに、インドにはワニを神聖な生物として飼育する寺院があり、船の守護神である海神の「金毘羅」は、ヒンドゥー教のガンジス川の神「クンビーラ」をルーツとしているが、それはガンジス川に棲むワニを神格化したものである。
また、パプア・ニューギニア、インドネシアなどに、ワニをトーテムとする部族がいる。

では、「倭」は何を意味するのか。
加治木氏によると、福建語で「倭」の上古音は「ウワイ」で、これは鹿児島の「上井」姓や中国の「優婆夷」と同じ発音で、インド語の「ウパシカ=女性仏教徒」の当て字だという。
「倭国」とは、女性仏教徒の国という意味だったのだ……。
だとすれば、卑弥呼の「鬼道」は仏教で、「天照大神」は仏教の神だったことになる。
加治木氏は、「アマテラス・大神」を「尼寺之・ウガン(拝み手)」という解釈も試みているくらいだ。

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『日本国誕生の秘密はすべて「おとぎ話」にあった』(徳間書店)には、次のように書かれている。

――台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています。
それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、<アテナ>出身者は嘉手納(かてな)、<チラナ>出身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
その記録とは『ホメロス』[序章]にある彼等がそこへ到着したときの紀行叙事詩です。
「<マレア>なる岬の沖を過ぎ、<ラコニア>の沿岸を辿りたどりて漕ぎ進みしが、やがて四面環海の土地、歓喜の<ヘリオス>(日の大神)の国・<タイナロン>にぞ、着きにけり……」と書いてあります。
<ラコニア>は<六昆>で今のタイ国ですが古代には<ミャンマー>の<ヤンゴン>=ラングーン(六昆)までを含んでいました。
マレアの岬はマレー半島。
四面を海で取り囲まれた大きな土地は、その「タイナ」という名が示す通り「大・臺・台」の国(ナ・ロン)なのです。
<ヘリオス>の妻が本来ギリシャ神話の神々の女王「ヘラ」なのですが、これが「音を音で発音する沖縄語」で「ヒラ」と発音したものに「ヒ=日・ラ=国」と当て字したことから、名実ともに日の国・日本が誕生しました。
だから最初の「日本」はタイナロン=台湾で、古代ギリシャ人の命名によって生まれた国名だったのです。
これで明確にわかることは太陽神・天照大神とは、本来はこの<ヘリオス>と<ヘラ>のことで、そのため男女どちらとも決まらないのだということなのです。
ところがその「天照大神の祭祀者」という名が省略されて、「天照大神」様と呼ばれたために、後世になると卑弥呼や壹與が御神体だとされてしまったのです。
これは菅原道真が「天神様」になってしまったのと同じで、後世の人が彼女らの霊を慰めるために、わざとそうした部分もあります――


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少し加筆しながら整理しよう。
・「琉球」の語源は「リュキア(古代ギリシア領)」で、その中核が、バビロンから来た「カリエン=和人=高麗人」だった。
・永良部島の名を残した「エラム人」は、ペルシアの前身で「スサ」を首都とした。
・インド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれたギリシア人は与那国島の名を残し、「アテナ」出身者は嘉手納、「チラナ」出身者は知覧の名を残した。
・ヒッタイト人は沖縄の「波照間島」(沖縄語でハティマ=ハティ国)の名を残し、朝鮮半島を納めた「アカハチ」や中国の清帝国の祖・金王「ヌルハチ」も、ハティ(ヒッタイト)との繋がりを示している。
・ハティ語はシリア特有の象形文字として見付かっており、ヒッタイトの「ハットウシル三世大王」の印章が発見された「ヨナ国島」とも、切っても切れない関係にある。
・紀元前14世紀のヒッタイト王の名は「ムーワタリ」だが、鹿児島には「馬渡(マワタリ)」という姓があり、九州北部の「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば「ヒッタイト」の当て字である。
・三種の神器の1つである神剣も、日本の鉄器時代の初めのものだけに、ヒッタイト人の物であり象徴である。
・カッシート人は「香椎人」で、その王称「アグム」は『記紀』の天皇を指す言葉「吾君」と酷似している。
・カッシート人は、紀元前1595年、バビロン第1王朝がヒッタイトの侵攻を受けて壊滅した後、バビロニアで勢力を拡大した民族で、カリエン人と同族か、それに近い関係だと思われる。
・その人たちは全部、船に乗って渡海したが、日本語の「フネ」と古代ギリシアの海軍の主力「フェニキア」と切り離して考えられず、沖縄語では「フ二チ国」になり、本土語では「フナキ」で船木姓に一致し、フニチ国は「船津国」と当て字できる。
・ギリシャ神話の「ヘラ」を沖縄語で発音した「ヒラ」に、 「ヒ=日・ラ=国」と当て字されて「日本」が誕生した。
・天照大神は本来、「ヘリオス」と「ヘラ」のことで、そのため性別が決まらない。

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「日本」の国名の由来が、ギリシア神話の女神「ヘラ」だったとは、実に壮大な仮説である。
更に、「卑弥呼の血統には、アテネ人の血と知性と技術と思想と信仰が重なり合っている」とし、仏像はギリシア人によって、ギリシアの神像をモデルに造られ始め、アテネの守護神「アテナ」の像が、十一面観音や馬頭観音になったらしい。
そして卑弥呼は、天照(ゼウス)大神に使えるピュティア(稗田阿礼)として天に送られ、天孫(アマゾン)の指導者として「アテナ」の地位にあったという。
加治木氏は、「卑弥呼」と「稗田阿礼」が同一人物だと言っているのだろうか……。

ギリシア神話の主神「ゼウス」は、天候や雷を操る天空神、「ヘリオス」は太陽神(=天照大神)で、「ヘラ」はゼウスの姉にして正妻である。
ゼウスは様々な女神と交わったが、これは、非インド・ヨーロッパ語族の先住民との和合と融合を象徴していると考えられている。
これは、「日向族は先住民を統合していった」というアリオン説に符合する。
また、加治木氏は「卑弥呼がカリエン人と共存共栄をはかっていたことは、彼女の教えが仏教だったことからみて当然のことだ」と述べている。

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カリエン人について、加治木氏説を私なりにまとめてみた。
カリエン人の出身地であるバビロンは、シュメールがアッカドの支配を受けて出来たバビロニアの首都で、牡牛神マルドゥクを主神としていた。
そして、バビロン崩壊と共に東へ逃れた集団が、南インド経由で沖縄から日本列島と朝鮮半島へ広がった。
彼らは世界最大の宝貝産地だった沖縄を拠点に、中国の殷にそれを供給して中国を統一し、高句麗や蒙古はその販売支社だった。
彼らは「カウリー・高離人・カリエン・カレン・高麗」と呼ばれ、 「コーリア」の語源となり、今のインドや英語で宝貝を「カウリー」「コウリー」と発音する。

前漢が滅んだ後に政権を握った王莽と、聖徳太子の手紙を見て怒った隋の皇帝・煬帝が、高句麗人に江南地方で水田を開発させ、その子孫が西に広がって、ミャンマーのカレン、カレンニの2州を作ったという。
福岡県の香椎宮の祭神は「仲哀天皇」と「神功皇后=卑弥呼」で、同じく福岡県の若椙山でオオヒルメ(卑弥呼)は「香椎聖母大明神」として信仰されている。

また、卑弥呼はカリエン人の女王であった。
だとすれは、やはりカリエン人とカッシート人は、共にバビロニアを出自とする以上、同系統の民族だったのだろう。
だが、卑弥呼の血族は、カリエン人でもカッシート人でもない。
あくまでも卑弥呼(日向族)は、先住民である彼らと共存しただけである。

マクモニーグルには、その違いが解らなかったようだ。
彼らは縄文時代から日本列島にいた人々で、その後に入ってきた倭人(天孫族)とは区別する必要がある。
だが、それを前期倭人と見るなら、その勢力圏は日本から江南、ミャンマーまでの広大な地域に拡がっている。
しかし、少し複雑な話になるが、加治木説によれば、鹿児島では貝を「ケ」と発音し、「貝人」と当て字された。
本土では貝は「カイ」であり、『日本書紀』では「蝦夷」と当て字しているが「エミシ」と読む。
また、「毛人」も「エミシ」で「ケ人=カイ人」という事になる。

「カリエン人=貝人=蝦夷=毛人=アイヌ人」

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だが、卑弥呼の部族、つまり「日向族」はカリエン人ではなかったが、「貝の国」を治めていた事は事実である。
「霧島」の語源が「ギリシャ山」だった事は前に紹介したが、以下、 『黄金の女王・卑弥呼』から原文を抜粋したい。

――中国の正史『旧唐書』では倭国と日本国は別で、その日本の条件は鹿児島に合うが、東と北は大山があって国境になっており、その向こうは「毛人の国」だと書いてある。
その大山はぴったり霧島に一致するが毛は沖縄音「キ」。
中国人のジン=人の発音は「リ」と聞こえる。
「シマ」は「之国」で「キリシマ」。
これでみると『記紀』に出てくる「毛人」はギリシャ系の人々だったことになる。
でもなぜ彼らは「毛人」なんだろう?
『平家物語』の中に僧の俊寛が鬼界ガ島に流された話が出てくるが、それに
「島には人、マレなりけり。おのずから人はあれども衣装なければ、この土(日本のこと)の人にも似ず。
言うコトバをも聞き知らず。
身にはシキリに毛生いつつ、色黒くして牛のごとし」
と書いてある。
裸で、毛深くて、がんじょうで、まるで牛のようだ、というのである。
今でも中近東以西の人は私たちに比べて毛深い人が多い。
これが一つの特徴としてとらえられ、ギリシャという名への当て字としても好都合なので、 「毛人」という呼び名が定着した、とみていい。
これを見ると鬼界ガ島の「鬼」もこの「キ=毛」と同じものであって、「鬼界」とは「ギリシャ人の世界」をあらわす名だったのである。
それが『魏志倭人伝』の「鬼国」「鬼奴国」と密接な関係があることはいうまでもないし、なによりも私たちが今、検討している「鬼道」が、その人々の「道=宗教であり、政治でもある=法」だったのだということである――


毛人のイメージは、まさに九州の豪族「熊襲」にピッタリだが、この霧島は「天孫降臨の地」だという。
後期倭人(弥生人)である天孫族を「天津神」とも言うが、「チヌ」と呼ばれていた沖縄では「キをチ」と発音し、本土語では「キン」になる。
そして、マレー語で黄金を「アマス」といい、鹿児島では「スをッ」と発音するため「天津」という当て字ができ、実際に「チヌ」は「天」の意味を持っているそうだ。

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話が横道に逸れたが、問題は、ギリシア神話では「アテナ」が太陽神ではないという事である。
だが、前に述べた通り、飛鳥説では「観音菩薩=イエス・キリスト=天照大神」であり、「アテナ=観音菩薩=天照大神=卑弥呼」という等式が成り立つ。
更に興味深い事は、前述の木村鷹太郎によると、「アマテラス」の語源はギリシア語の「アマ・テロス」で、その意味は「完全円満全権統治」だという。
結論として、「倭人」とは、あらゆる民族の混合で構成され、それを卑弥呼の「鬼道」によってアマ・テロスされた民衆だったという事になる。

加治木氏も述べているが、ユダヤ人は人種ではなく「ユダヤ教」によって結ばれた民族であるのと同じく、倭人は「鬼道」によって結ばれた民族だったのだ。
ギリシア系インド人を祖先に持つ卑弥呼の鬼道は、「仏教」だったのだろうか。
だが、沖縄語では「天照大神」を「チンヅウ・ウガン」と発音し、本土語に翻訳すると「シンドウ・オガミ」、漢字で「神道・拝み」になるという。

倭国は、慈悲を重んじる卑弥呼の仏教政権により、 「完全円満全権統治」による共存共栄が実現していたが、 『魏志倭人伝』によると、ヒンドゥー教特有の「階級制度=カースト」があった事が記されている。
「鬼道」の真相を究明する為には、もう1つの天孫族、即ち卑弥呼(神功皇后)の夫・スサノオ(仲哀天皇)の部族である「出雲族」について調べる必要がありそうだ。
そして、「ユダヤ人」「失われた10支族」との関係は……。
posted by 夢蛇鬼 at 04:30| Comment(8) | 出雲族のルーツと神道の起源 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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