2010年03月30日

世界の高天原と葦原中国の謎

人間界を現世(うつしよ)というが、神界で起きた出来事がタイムラグを経て人間界に移写されていることは、『日月神示』や「スウェデンボルグ」も述べている。
つまり、神話は神界での出来事と人間界での出来事の二重構造になっているのだ。
従って、本当の「高天原」は神界を指し、『日月神示』によれば宇宙全体のことだという。
中でも、我々地球人にとって、直接的な「高天原」は太陽であろう。
では、地上における「高天原」はどこに存在するのだろうか。

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ノアの大洪水後、最初の高天原は、ノア一家がアララト山系から降りたタガーマハラ(タガーマ州ハラン)であろう。
もっとも、アララト山系そのものが「高天原」だったと考えて良い。
そして、アーリア人(恐らくヒッタイト系)がイラン高原に移動したことで、イラン高原も「高天原」になったとも言える。
また、徐福が富士山麓に王朝を築いたのであれば、富士山も「高天原」である。

『宮下文書』によれば、それより遥か以前の約6300年前、ペルシャ東北地方から日本列島に渡来した神々が、富士麓に王朝を築いたという。
年代はともかく、ペルシャの地はエラムであり、首都はスサだった。
エラムが滅亡し、スサの王が東の果ての日本列島に移動して富士高天原王朝を樹立した後、再び世界各地に散らばり、その末裔が日本列島に戻ってきたとすれば、王仁三郎の「里帰り民族説」は、最後の部分だけを霊視していたと考えることもできる。

日本人の原郷を「高天原」だと定義すれば、世界各地に高天原があったということになる。
従って、高天原の所在地について様々な説があるが、いずれも間違いだとは言えない。
要は、アララト山系から降りたノア一家の子孫たちが、日本列島に渡来するまでに定住していた山々や高原などの全てを「高天原」と呼ぶことができる。

それを裏付けるのが「葦原中国(あしはらのなかつくに)」である。
天孫民族は、葦原中国の統治の為に高天原から降臨したとされる。
この「葦原中国」は日本のことだとされているが、高天原が世界各地に点在したとすれば、葦原中国も世界各地に点在したことになる。
まず注目するべきは、ニニギノミコトが高天原から降臨した、日向の高千穂の峰(葦原中国)もまた、「高天原」だということである。
つまり、ノア一家がアララト山系(高天原)から降りて住み着いたタガーマ州ハラン(葦原中国)も「高天原」なのだ。

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その後、セム族はタガーマハラ(高天原)からシュメール地方に降臨した。
シュメール人は、自分たちの国を「ギー・エン・ギ」と呼んでいたが、その意味は「葦の繁る地」で、後に「メソポタミア」と呼ばれるようになったが、それは「河の間」という意味で、チグリス河とユーフラテス河の間にあるメソポタミア(ギー・エン・ギ)地方は、まさに「葦原中国」なのである。
更に、その葦原中国であるメソポタミア地方が高天原となり、そこから移動した土地(古代文明発祥地)が新たな「葦原中国」となる。

事実、シュメール人一派が移住した黄河地方は文字通り「中国」だが、そこは黄河と楊子江の大河に挟まれた地域である。
それだけではない。
古代史評論家の佐治芳彦氏は、『日本国成立の謎(日本文芸社)』の中で、このように指摘している。

「ナイルの三角州に成立した葦原の中ッ国(エジプト)と、インダス河の三角州に成立したモヘンジョ・ダロの葦原の中ッ国、ガンジス河口の三角州の葦原の中ッ国、それにインドシナ半島のメコン河の中流のバンチェンの中ッ国、これはのちに『海のシルクロード』とよばれた古代航海民の開拓した航路上にある。
そして、この中ッ国もすべて西から東へ移動している。
そして、もっとも重要な点は、この葦原の中ッ国の二本の移動線が、豊葦原の中ッ国――日本列島に、みごとに収束されていることだろう」


それでは次に、日本神話における「高天原」と「葦原中国」、そして「天孫民族」の謎に迫ってみよう。
posted by 夢蛇鬼 at 16:59| Comment(0) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月29日

富士高天原王朝と七福神の謎

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「八」は出雲族の象徴だが、もしかすると「ハッティ(ヒッタイト)」を意味しているのかも知れない。
そして、「八」と「秦」で「八秦」→ 「八幡(やはた)」となり、京都府八幡市は製鉄所で有名である。
恐らく、シン(秦)は元々シュメール人が築いた国で、そこにヒッタイト人+イスラエル10支族が融合して「秦」が成立したと考えられる。
その後、ギリシア系バクトリア王ディオドトス率いるペルシャ系騎馬民族+2支族(ユダヤ人)が侵略し、秦の支配者となったようだ。

だが後に、紀元前334年頃、アレクサンドロス大王率いる騎馬民族がペルシア帝国を壊滅させた。
そして、現地のユダヤ人を従わせて、秦を支配していたペルシア系騎馬民族を焼き殺し、長安を作ったという説もある。
この事から、秦を滅ぼして漢を建国した反秦軍は、アレクサンドロス軍だった可能性もある。
先述の通り、漢を建国したのは、秦に反乱を起こして破れた河南人の意志を継承した反秦軍である。

紀元前538年、フェニキアがペルシアの4属領に分割され、捕囚のユダヤ人が解放されたが、この頃にフェニキア人も中国に移動した可能性がある。
フェニキア人は多民族で構成されているが、民族的には主にハム族のカナン人やエブス人系だが、限りなくイスラエル民族に近いと考えられる。
以前述べた通り、カナン人は、イスラエル民族とかなりの割合で混血していた可能性がある。
そして、カナン人とイスラエル10支族はバアル(スサノオ)信仰である。

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また、アレクサンドロスは「イスカンダル双角王」と呼ばれ、牡牛族だったことが分かる。
河南人がカナン人だとすると、秦・ユダヤ人に対抗するアレクサンドロス勢力だったということで、一応話の筋は通る。
注目すべきは、ヒッタイト人は「イスラエル12支族」と同化しており、「ディオドトス軍」にも「アレクサンドロス軍」にも2支族がいた。
そして、紀元8年に前漢が滅び、紀元25年に光武帝(劉秀)が後漢を興したが、この時に、漢の支配者が秦の勢力に移り変わったのではないかと思われる。

少しややこしい話になったが、この流れを1つの仮説として記憶に留めておいて頂きたい。
尚、哲学者プラトンの弟子アリストテレスがアレクサンドロス王子の家庭教師をしていたが、プラトンはゾロアスターの弟子だったという説もある。

さて、秦代に大勢の使者が、日本列島に渡来した記録がある。
王仁三郎によると、太古の富士山にあった「高天原王朝」から天孫民族が降臨し、世界を統治すべく各地に散らばり、最初にできた王朝が出雲で、スサノオは大国主命に日本を任せて朝鮮に渡ったという。
だが、私はこの説には懐疑的である。
王仁三郎の「富士高天原説」は、霊言による口述ではなく、恐らく『竹内文書』の影響を受けた王仁三郎独自の歴史観で、絶対性はなく、あくまでも仮説に過ぎない。

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日本には、アカデミズムが黙殺する『古史古伝』と呼ばれる古文書がいくつか存在し、その1つに『富士古文献』がある。
富士山麓の宮下家によって保存されてきたことから『宮下文書』とも呼ばれているが、それによると、日本人のルーツは中央アジアに住んでいた民族で、富士山を目指して日本列島に移住し、約6400年前に高天原王朝を築いたことが記されている。

6400年前といえばノアの大洪水の少し後で、以前述べた通り、ノアの大洪水後に日本列島に渡来した民族がいた可能性もあることはあるが、残念ながらそれと「富士高天原王朝」は基本的に関係なさそうだ。

まず、『宮下文書』は『徐福文献』とも言われ、徐福伝説と深く関わっている。
司馬遷の『史記』によると、紀元前213年頃、徐福は秦始皇帝の命を受けて不老不死の仙薬を探すべく、85艘の船団で、3000人を率いて日本に渡来したとされており、全国各地に徐福伝説が残っている。
これが「秦氏」だという説もあるが、徐福の渡来が紀元前の秦代であるなら、秦氏(原始キリスト教徒)の可能性はない。
既に察しの通り、徐福一行の正体はイスラエル2支族(ユダヤ人)である。

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だが、中国北宋の欧陽脩(政治家・詩人)の『日本刀歌』の中には、次のような詩がある。

「その先祖徐福は、秦を偽って薬を取りに行くと言い、若い男女と共にその土地で老いた」

もし徐福の渡来が紀元後の話であるなら、「秦始皇帝の子孫」を偽称した秦氏(ユダヤ人)である可能性もある。
しかし、『宮下文書』の記録だけではなく、中国の『史記』にも記録されている以上、やはり2支族のユダヤ人だったと考えて間違いないだろう。

徐福は中国には帰らず日本で他界し、3羽の鶴となって舞い上がったと伝えられており、中国では徐福は「神武天皇」だったとする説もある。
「三」は日向族を象徴する数字で、「神武天皇」は日向族であり、改めて解説するが、日向族の本隊は2支族のユダヤ人なのである。
更に死後、白鳥となった「ヤマトタケル」との関連性もあるだろう。

詳細は、神仙組Tの「初代天皇の座を奪った桃太郎(ピーチボーイ・メーソン)の謎」を参照して頂きたい。
http://mujaki666.seesaa.net/article/125129805.html

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このように古代中国では、大別して2大勢力の対立があったことが窺える。
ところで私は、エブス人、エドム人、そして徐福の話で気付いたことがある。
七福神の信仰は関西から始まったとされているが、まず、宝船に乗った「恵比寿」はエブス人のことであろう。
そして「大黒天」「毘沙門天」「弁才天」の大黒天は製鉄神であり、ヒンドゥー教のシヴァでもあり、「スサノオ」の一表現である。
毘沙門天・弁才天もヒンドゥー教の神が原型となっているが、要はインド経由で古代日本列島に稲作や鉄器文明をもたらした「出雲族」を象徴している。

一方、「布袋」は中国仏教、「福禄寿」「寿老人」は道教の老師で、中国をルーツとしている。
これらは、宝を積んで船で日本列島に渡来した「徐福」を象徴しているのではないかと思われる。
彼らの間で、対立や派閥はあったにせよ、その中枢となる部族が、南アジアと東アジアの中継地点として「パミール高天原王朝」を築いていたらしい。
posted by 夢蛇鬼 at 22:51| Comment(1) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

イスラエル民族の双児「エドム人」の謎

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少し時代を遡るが、ソロモン王の時代(紀元前965〜925年)、ユダヤ教はまだ成立しておらず、エジプトやヒッタイトの影響を大きく受けた「イスラエル教」と呼ぶべき宗教だった。
それは、黄金の子牛像「アモン」を主とする多神教である。

聖書に登場する民族の中で、最も重要且つ要となっているのがヘテ人(ヒッタイト人)である。
ヒッタイト人はイスラエル民族から尊敬され、また混血によって深い繋がりを持ち、ユダ王国を支配していたヒッタイト系ユダヤ人も、ヒッタイト人として神と契約を結んだとされている。
その神の名は「ヤハウェ」で、荒らぶる神だと言われている。

ヒッタイト人は元々、太陽神に対する信仰が主だったが、強風や暴風が製鉄の神として、天候神が崇められるようになった。
それはシュメール神話の「マルドゥク」であり、カナン神話の「バアル」、日本神話でいう「スサノオ」である。
そして、スサノオは「ルシファー」である。

「ヤハウェ=マルドゥク=バアル=スサノオ=ルシファー」

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カルタゴでは、フェニキア人が赤ん坊を丸焼きにする「バアル信仰の儀式」があり、ユダヤ人がこのような邪教に陥らない為に、シリアの風の神「ヤハウェ」を主神とする一神教を打ち出したと言われている。
言うまでもなく、ユダヤ人の選択は人として正しい。

だが、フェニキア人の悪魔的儀式は、バアル信仰が原因という訳ではない。
何を隠そう、 「ヤハウェ=バアル」であり、ヤハウェの正体はバアルなのだが、これは一筋縄ではいかないので、この話の続きは別の機会に詳述する。

さて、ソロモンの母親はヒッタイト人であった。
『旧約聖書』の「列王記」で、ソロモンは次のように語っている。

「主は日を天に置かれた。
しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。
わたしはあなたのために高き家、永遠の御住まいを建てた」


スサノオも、これと同じような表現をしている。

――八雲たつ出雲八重垣つまごみに
八重垣造るその八重垣を――


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異端の歴史学者・木村鷹太郎氏は、八雲(ヤクモ)と出雲(イズモ)は「ヤコブ」と「エドム」だと主張した。
エドムは本名を「エサウ」といい、ヤコブ(イスラエル)の双子の兄である。
つまり、エドム人はイスラエル12支族の兄弟民族なのだ。

『創世記』によると、彼らは産まれた時から対抗的な関係にあり、確執のある兄弟だったが後に和解した。
しかし、エサウの子孫であるエドム人とヤコブの子孫であるイスラエル人は、互いに張り合う民となった。
また、エサウは長子の特権として、2倍の相続権と、神からの祝福を与えられていたが、一杯の食物で弟のヤコブに売ってしまったらしい。

元来、弟ヤコブ(イスラエル)ではなく、兄エサウ(エドム)に神権が与えられていたのだ。
そしてエサウが40歳の時、2人のヒッタイト人を妻にめとり、エドム人もヒッタイトとのハイブリッド民族となった。
更に、エドム人はイスラエル民族の中に融け混んでいった。

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ソロモンは、製鉄によってイスラエル王国を繁栄に導いたが、エドムの地(紅海の岸)でタルシン船を製造し、貿易でも巨富を築いた。
マレー半島に、ソロモンの名が登場する『鹿とワニの民話』は、『出雲風土記』の「因幡の白兎」に酷似しており、この当時から「海のシルクロード」が出来ていたようである。

また、大分県の国東半島に、紀元前10世紀頃の製鉄所と思われる、東洋最大の遺跡が発見され、その製鉄方法は聖書の記述通り「赤土から採る」というもので、出雲族(エドム族)が日本列島にも来ていた可能性が高い。
勿論、イスラエル民族も海路ルートで日本列島に渡来していた可能性も高い。

その他、「天皇アラブ渡来説」や「天皇エジプト渡来説」などもあるが、アラブ人やエジプト人が渡来したことがあったとしても不思議ではない。
尚、古代エジプト型の構造船が出土した大阪府堺市では、商売の神様としてエビス(えべっさん)信仰が盛んである。

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紀元前3世紀のエジプト人マネトは、「エジプトを支配していたヒクソスが、後にユダヤと呼ばれる国にエルサレムという町を築いた」と述べており、それはフェニキア人だという。
フェニキア人は、エブス人と呼ばれる民族が主体だったという説もあるが、彼らがエドム人と共に南港に上陸し、堺市に住み着いてエビス信仰をもたらしたようだ。

またこの頃に、イスラエル民族がアメリカ大陸にも渡って、ホピ族と同化していたとすると、モルモン教の主張もあながち的外れではないことになる。
また、フェニキアのユダヤ系カナン人の一部がヨーロッパに移住し、商人として財を築いた彼らは、ヨーロッパの王侯貴族の中に溶け込んで白人となり、いわゆるユダヤ財閥になったと思われる。
そして、中国に亡命したユダヤ人の末裔が、華僑だろう。

尚、ケルト人も日本人のルーツになっているという説もあるが、これは正しくもあり、正確でもない。
ケルト人とは、中央アジアの草原から馬と戦車(車輪付きの乗り物)を持って、ヨーロッパに鉄器文明をもたらしたインド・ヨーロッパ語族のことで、言うまでもなくヒッタイト人(スキタイ人)である。
つまり、日本列島と逆の方角のヨーロッパに移住したヒッタイト人が、ケルト人だと定義して良いだろう。

ちなみに、エサウは「赤い」「毛深い」という意味だが、日本列島の原住民とされる毛人は、エドム人である可能性も高い。
いずれにせよ、エドム人(出雲族)は、海のシルクロードの先住民(ポリネシアン等の環太平洋海人族)と、太いパイプが出来ていたことは間違いない。
posted by 夢蛇鬼 at 21:33| Comment(4) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アレクサンドロスと秦始皇帝の謎

天文学者の飯島忠夫氏は、中国古典の天文記事には、中国で観測されなかったはずのバビロニアの星も記されており、中国の天文学はバビロニアの天文学そのものだという論文を発表した。
だが、バビロニアの天文学はシュメールの天文学を受け継いだものであり、シュメール人を追い出したアッカド人が、バビロニアを築いたという事実から判断すると、やはり、シュメール人一派が中国大陸の原住民となり、長江文明や黄河文明を築いたということになる。
そして、周代や春秋時代という王朝時代を経て、晋、そして秦の時代が始まった。

秦氏は秦始皇帝の子孫を名乗っているが、実のところ「ユダヤ人原始キリスト教徒」だった可能性が非常に高い。
詳細は、飛鳥昭雄氏+三神たける氏の共著『失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』(学研)をお読み頂きたい。

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実際、秦は紀元前778年から始まったとされているので、秦氏が秦始皇帝だったとすると、年代が全く合わない。
秦は紀元前221年に中国を統一し、紀元前206年に滅亡したが、それまでの期間が秦代と呼ばれているが、晋や秦はシュメールの月神「シン」に通じ、原住民の国だったのではないかと思われる。
そして忘れてはいけないのが、ヒッタイト人やイスラエル10支族の中国大陸進出である。

だが、それだけではない。
秦代以前の紀元前597年、南ユダ王国がバビロニアに滅ぼされ、バビロンに捕虜として連れ去られたが、後にペルシアによって解放された。
ペルシアには数多くのヒッタイト人(スキタイ人)がいた。
2支族もヒッタイトとの結び付きが深く、ダビデの時代から血統的に同化していた。
イエスの自我はゾロアスターだという説があるが、先述の通り、もしゾロアスターがスサの王だったとしたら、ゾロアスターもまた「スサノオ」の御魂を持つ預言者で、ダビデ王やソロモン王、イエスも「スサノオ」だったと言えるだろう。

2支族がスペインに移住したことは定説だが、実は10支族同様、南アジアや東アジアにも多くのユダヤ人が移住していたことが明らかになっている。
イスラエル2支族が中国の原住民国「シン」を支配したのだろうか。
「鹿島史観」を打ち出した故・鹿島昇氏は、中国の古典「秦本紀」はペルシア史を漢訳した偽史であり、始皇帝以前の記録は、アレクサンドロスが戦ったアケメネス朝ペルシアの歴史だと主張した。
尚、ユダヤ人が遺した「マカベア書」に、アレクサンドロスの出自が「ヒッティム(ヒッタイト)の地」と記されており、ヒッタイトの粘土板には「アラクサンドゥス(アレクサンドロス)」の名が登場する。

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そして、秦(ハタ)はハッティ(ヒッタイト)ではないかという説もあり、その関連性も否定できない。
さて、中国ではローマ帝国を「大秦」と呼ぶが、仏典に記されている「大秦」はバクトリア王国を指しており、ギリシア人によって建国されたバクトリアも「大秦」と呼び、中国の「秦」はその植民地だったと考えられている。
そして、秦始皇帝はバクトリア王「ディオドトス」で、兵馬俑はペルシャ軍だというが、実際、秦始皇帝は金髪碧眼だったという伝説があり、始皇帝陵の陪葬墓で出土した人骨からも、ペルシャ系のDNAが検出されている。

鹿島説では、バビロンに捕虜となっていたユダヤ人(2支族)は、ペルシアによって解放された後、ペルシアに仕えて植民地・中国の建設に参加した者もいた。
その後、紀元前334年、アレクサンドロスがペルシア軍を壊滅させ、この時にアレクサンドロスの軍に大勢のユダヤ人が参加し、秦の支配者となったらしい。
そして、紀元前209年、河南人が反乱を起こしたが、秦の討伐軍に破れ、旧楚の名族である項梁が反秦軍を受け継いだ。

漢の創始者・劉邦はその部下として動き、秦を滅ぼして前漢(紀元前206年〜西暦8年)の時代となったが、これも年代的に秦氏(原始キリスト教徒)と関係があるとは思えない。
ちなみに、万里の長城や、土を押し固めて造られた中国の巨大ピラミッド群は、前漢時代に造られたものだと考えられている。
その後、前漢は一旦滅んだが、皇族の劉秀によって再興され、これを後漢と呼ぶ。

後漢は西暦25〜220年に興った王朝で、「三国志」として知られているが、西暦30年以降に原始キリスト教徒が漢王朝に融け込んだ可能性が高い。
念の為に説明しておくが、本来はユダ族をユダヤ人と呼び、広義の意味では、ユダ族とベニヤミン族を合わせた南ユダ王国の2支族、そして祭司職という特別な立場から12支族に数えない「レビ族」を「ユダヤ人」という。
従って、イスラエル10支族が日本列島に来ただけでは「日ユ同祖論」は成立しない。
posted by 夢蛇鬼 at 07:02| Comment(0) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三国史記と失われたイスラエル10支族の謎

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ヒッタイト帝国滅亡後、ヒッタイト人はヒマラヤ周辺に民族移動したという説もある。
だとすれば、イラン高原を経由してインド亜大陸に入ったということは間違いないだろう。
だが、ヒッタイト人が移動したのは、インド亜大陸だけとは限らない。
ヒマラヤ周辺ということは、パミール高原も該当する。
そして、インドと中国を結ぶルートは、パミール越えと天山越えがあるが、天山を隔てて西にカザフスタンが隣接している。

現在のカザフスタンはロシア語が使われているが、日本人とカザフスタン人のDNAは90%同じで、ゾロアスターが誕生した地でもある。
イラン・インドのアーリア人のルーツとなった中央アジアの遊牧アーリア人は、夢蛇鬼説ではヒッタイト人である。
彼らは司祭を中心とし、部族単位で麦を栽培し、自然現象を神として信仰していた。

紀元前646年、エラムはアッシリアに滅ぼされ、スサは完全に破壊された。
その後、ペルシア帝国が興り、紀元前550年頃にメディアが滅ぼされ、ペルシア人との同化が進んだとされているが、スサの王(スメラ族)の騎馬部隊は北東アジアに進出した。
この頃には、もう一方のヒッタイト人(新ヒッタイトを築いた騎馬民族)との違いは分からないが、いずれもユーラシア大陸を闊歩する遊牧民タタール人になったことは間違いないだろう。

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アリオンによると、スサノオの父の名前は「フツ」だという。
確かに、出雲の宇美神社には、スサノオの父である「布都御魂(フツノミタマ)」が祀られている。
更に、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社には、「布都御魂」「布都斯御魂(フツシノミタマ)=スサノオ」「布留御魂(フルノミタマ)=ニギハヤヒ」「宇摩志麻治尊(ウマシマジノミコト)=ニギハヤヒの長男」が祀られており、フツ、フツシ、フルという名前は、モンゴル系民族の名前だという。

これは、シュメール出身のスメラ族がヒッタイト人となり、スサに移住した後に、モンゴル高原に進出してきたことを物語っているのではないだろうか。
ちなみに、石上は石神に通じ、青森の鉄・巨石文化を象徴する磐石信仰に通じる。
「いそのかみ」という読み方は「五十の神」に通じ、シュメールの「五十柱の神」にも通じる。
また、『日本書紀』には、スサノオが「五十猛神(イタケルノカミ)」を率いて天降ったことが記されている。
だが、モンゴルに定住したスメラ族が、朝鮮半島から日本列島に渡来したのかというと、それがどうも違うのである。

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アリオン曰く、彼らはパミール高原から海路ルートでやってきたという。
やはり、中央アジアの真ん中に位置する世界の屋根「パミール高原」がキーである。
パミール高原を越えた先は、イラン高原から南アジアに移動したヒッタイト人がいる。
彼らは、パミール高原をルートに交流していたことは恐らく間違いない。

それを裏付けるのが、インドの「タータラ」である。
タタラの語源は、タタール族のダッタン語で熱を意味する「タタトル」だと言われているが、インドのサンスクリット語でも熱を「タータラ」という。
ヒンディー語では鋼を「サケラー」といい、出雲で鋼を「ケラ」と呼ぶのに似ている。
また、ミャンマー語でも刀は「カタナ」である。
そして、古代朝鮮語でもタタラは「もっと加熱する」という意味で、明らかに製鉄と関連した言葉で、インド・中国・朝鮮の繋がりを無視することはできない。

古事記によると、朝鮮半島南西部にあった百済や新羅との交渉の場に、「たたら場」という言葉が登場する。
また、パミール高原の麓のタジキスタンを中心に、アフガニスタン北部や中国領ウイグル自治区に居住するタジク族は、中央アジアの多くの民族の系譜を引いているが、インド・ヨーロッパ系の言語を使い、カザフ族やモンゴル族に似て、勇壮なこと好むという。
以上の事から、タジク族もヒッタイト系民族の末裔であることは間違いないだろう。

更に、タジキスタンには「クダラ」という地名が残っているが、クダラの民族が朝鮮半島に移動して、百済を建国した可能性もある。
百済は、346年〜660年に朝鮮半島南西部にあった国だが、『三国史記』では、紀元前18から存在したとされおり、史実とは考えられていないが、紀元前から存在した可能性はある。

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『三国史記』の「百済本紀」によれば、扶余王・解扶婁(カイフル)の庶孫の、優台(ユウタイ)と召西奴(ショウセイヌ)との間に、沸流(フツリュウ)と温祚(オンソ)が生まれたという。
「扶余」とは、満州(中国の東北部とモンゴル高原)に住んでいた民族である。
「カイフル」や「フツリュウ」には「フツ」が付いているが、スサノオの家系なのではないだろうか。
少なくとも、スサノオは扶余族だったはずで、当然ながら扶余族は、モンゴル高原を遊牧する騎馬系遊牧民(タタール人=ヒッタイト人)だったと考えて良い。

彼らがインド地方に移住したヒッタイト人と交流があったことを示す事例も存在する。
釈迦に最後の食事を給したのが鍛冶工のチュンダ(漢訳では純陀)だとされているが、これは百済の武寧王の子「純陀太子」だったのではないだろうか。

ヒッタイトは牡牛族だが、釈迦も牛を神使とし、インドラは「牛の主=バアル」であり、ハラッパーでは角を生やした神像が出土している。
そして、釈迦の時代を考えると、やはり百済は少なくとも紀元前500年以上前から存在したと言える。
ちなみに、桓武天皇の実母・高野新笠は、家系図によると百済の武寧王の子純陀太子から出ている。
釈迦も満州から来たヒッタイト一派の系譜だった可能性が高い。

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以前、釈迦はイスラエル10支族のガド族の末裔である可能性が高いということを述べたが、恐らく扶余族は、10支族とスキタイ(ヒッタイト人)が同化した民族だったのだ。
釈迦を生んだシャーキャ族(サカ族)は、天山・パミール地区からカスピ海にかけて栄えたペルシャ系の遊族民族だとされているが、要はサカ族とは「スキタイ」のことである。
スキタイ一派は農耕も行なっていたが、扶余の宰相が解夫婁に次のように述べ、解夫婁は東扶余に遷都した。

「天の神の子孫がいずれ国を作ります。
東海に迦葉原という地があり、そこは五穀が良く実ります。
ここを離れ、その地に都を遷してください」


このように、扶余族(スキタイ)は農耕民でもあり、日本に稲作文化をもたらしたのもスサノオだと言われているが、釈迦の父は「浄飯王」、つまり米を主食とする民族で、インドの歴史学者チャクラヴァルティも、「シャカ族は、ネパール地域のモンゴル人だった」と述べている。

ヒマラヤからアッサム、雲南にかけての山岳地帯に住む蒙古系人種をキターラというが、インドの古文献にも「シャカ族はキラータ」と書かれており、ネパールのシャカ族の末裔を名乗る一族の赤ん坊には、実際に蒙古斑が出るという。
やはり扶余族は、ヒッタイト民族とイスラエル10支族のハイブリッド民族だったのだ。
その証拠に、扶余王の解夫婁(カイフル)は「ヘブル」と読むが、ヘブルとは「ヘブライ人=イスラエル民族」のことである。

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また、半島北部から満州地方にあった高句麗の始祖・朱蒙(温祚の父)も扶余族だが、『三国史記』の建国神話によると、紀元前18年高句麗の王族が10人の家臣と大勢の民衆と共に南方に逃れ、現在のソウルに建国したという。
「10人の家臣と大勢の民衆」とは、ズバリ「イスラエル10支族」ではないのか。
そして、イスラエル10支族も牛神「アモン=バアル」を信仰する牡牛族で、朝鮮に「牛頭州」という地名があり、ソウルの「ウル」もシュメールの首都ウル(牛の意)とも無関係ではないだろう。
ちなみに、牛を聖獣とする一族を、朝鮮語で「ウル・サラム(牛人)」という。

紀元前922年頃、イスラエル王国が分裂し、2支族がエルサレムを首都とする南ユダ王国を建国し、10支族がサマリアを首都とする北イスラエル王朝を樹立した。
その2世紀後の紀元前722年、北イスラエル王朝はアッシリア帝国に侵攻され、10支族は捕虜として連れ去られた後、歴史の表舞台から消息を絶った。
まず、彼らはユーフラテス河を遡り、メソポタミア地方に来たことは間違いないだろう。
そこにはエラム王国があり、首都スサにヒッタイト王(スサの王=スメラミコト)が移り住んでいた。

「スメラミコト」はヘブライ語で「サマリアの王」だという説があるが、トルコには、4世紀頃に建設されたとされる「スメラ修道院」というギリシア正教会の廃墟が遺されており、スメラミコトの名残りである可能性もある。
いずれにしても私は、彼らが合流した可能性は高いと見ている。

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そして紀元前644年、エラム王国もアッシリア人に滅ぼされた。
既に述べた通り、ヒッタイト人は騎馬戦に長けていた。
ゾロアスターを生んだメディアの部族のいくつかは、スキタイの部族名とも一致している。
この仮説が正しければ、後に北イスラエル王朝滅亡後、イスラエル10支族とスキタイが合流した経緯も納得できる。
つまるところ、これはスメラ族とイスラエル10支族の正式な合体である。

尚、中国の河南省は黄河の南にあることから名付けられた地名で、黄河文明を築いた古代シュメール人一派が定住していたと思われるが、もしかすると後にカナン人の一部が移住したことを暗示しているようにも思える。
そして、カナン人もイスラエル民族に巧みに融け込み、カナン神話の主神「バアル」を信仰する民族である。
posted by 夢蛇鬼 at 06:26| Comment(0) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

有色アーリア人とゾロアスター教成立の謎

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一説によると、紀元前1160年頃にヒッタイト帝国は滅亡したという。
東南アナトリアに移動して都市国家群を築いた、新ヒッタイトと決裂したグループは、早い時期にアジア全域に進出したことだろう。
恐らく、彼らが「スメラ族」で、タタール人と呼ばれる騎馬系遊牧民の先陣となったと考えられる。
私の仮説では、シュメール王国のスメラミコトはエラム支配時代、またはシュメール王国滅亡後に「スサの王」となった。
そして、ヒッタイト帝国のあったトルコの隣が現在のイランだが、その南西部は「スサ」のあるエラムだった。

エラムは紀元前12世紀頃にバビロニアに侵攻され、バビロニアの影響を強く受けて楔型文字が多様されたが、紀元前8世紀頃までの記録が殆んどない。
この頃に、スメラ族がエラムに移った可能性もある。
また、スメラ族の族長(スメラミコト)が、この時に初めて「スサの王」になった可能性もある。
エラムはメディアと交流があったが、バビロニアの支配を受けたエラム人やスメラ族は、メディアにも進出していたと考えることもできる。
私が言いたいことは、スメラ族がアナトリア(現トルコ)、エラム(現イラン)、パミール高原、メディア(現カザフスタン)のステップ地帯に進出したのではないかということである。

そのメディアで誕生したのが「ゾロアスター」である。
ゾロアスター教は紀元前1000年以上前に誕生したと考えられているが、ヒッタイト帝国が滅亡した時期とほぼ一致し、「マタイによる福音書」で、占星術でメシア(イエス)誕生を予言した「東方の三賢者」の祖がゾロアスターだという伝承があり、シュメールの高度な天文学を彷彿させる。
ゾロアスターはバクトリアの王だったと言われているが、バクトリアが成立したのは紀元前255年頃なので、バクトリア以前のメディア王国のことである。
従って、ゾロアスターがスメラミコト(スサの王)だった可能性も有り得える。

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ゾロアスター教は、日本では「拝火教」として知られているが、火を拝むとはまさに製鉄民ヒッタイトを連想させる。
イランは「アーリア人の国」という意味だが、アーリア人は本来、人種的にコーカソイドである。
ヒッタイト人は「セム系スメラ族」と「アーリア系ハッティ」の混合民族だが、「ヒッタイト」を名乗っていた事から考えて、アーリア人化していたはずである。
それが、エラムやメディアにアーリア言語をもたらしたのだと考えると、アーリア・イラン人が白人ではない理由も氷解する。
そもそも、エラムは言語系統は不明だが、ドラヴィダ語族だったという学説があり、アーリア人の国ではなかったのだ。

アカデミズムでは、紀元前1000年頃にはイラン高原全域にアーリア人が定着し、この時期にイラン高原は鉄器時代に入ったとされているが、これが正しければ、やはり、イラン高原に移住したのはヒッタイトのスメラ族であろう。
そして、イラン高原周辺に移住したヒッタイト人は、インド亜大陸にも進出してインド・アーリア人となったのだろう。
恐らくこの時に、鉄器文明やゾロアスター教の『アヴェスター』をもたらし、『ヴェーダ聖典』を教典とするバラモン教を成立させたのだ。

また、メディア王国のマゴイ族は、血統によって地位を継承する祭司階級だったことから、先住のドラヴィダ人を支配する形でカースト制を作ったのは、彼らだったのかも知れない。
ゾロアスター教とバラモン教・ヒンドゥー教については別の機会に述べるとして、スメラ族の行方を追ってみることにしよう。
posted by 夢蛇鬼 at 05:35| Comment(2) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月28日

失われたヒッタイト人とカチカチ山の謎

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ヒッタイト帝国滅亡後、ヒッタイト人は東南アナトリアに移動して新ヒッタイトを築き、紀元前800頃まで活動したが、その後、消息を絶っている。
改めて確認しておくが、ヒッタイト人はハッティの文化を受け継いで、アーリア系言語を使っていたらしいことが分かっている。
そして、トルコは黒海に面し、彼らは優れた製鉄技術と騎馬戦法を持つ民族だった。
そこで気になるのが「スキタイ人」である。

スキタイ人は、新ヒッタイトが消えた紀元前8〜3世紀にかけて、世界最古の遊牧騎馬民族国家を築き、西シベリアからカスピ海、黒海地方にまで居住し、黄金製の工芸品を数多く残している。
言語は不明だが、アーリア系言語だと考えられている。
つまり、ヒッタイト人がスキタイ人になり、更にタタールの遊牧騎馬民族になったとしか考えられないのだが……この説を唱える学者がいないのが不思議である。

現在のタタール人は、ロシアのタタールスタン共和国に住むタタール人、黒海の北側に位置するウクライナ領のクリミア自治共和国に住むクリミア・タタール人、中国領に住むタタール人を指すが、タタールの名称は元々、モンゴル高原に住んでいた遊牧民の総称(タタル)だとされており、北アジアから東ヨーロッパにかけての広域で活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な遊牧民が、タタール人と称されてきた。

恐らく、ヒッタイト帝国滅亡後、ヒッタイト人の一派がスキタイ人となり、東ヨーロッパから北アジアに進出し、先住民と混血を重ねていったのだろう。
更に、タタール人の源泉がヒッタイト人であるならば、日本列島にも渡来した可能性は十分ある。
何故なら、国常立尊がトルコのエルズルムから日本列島に移動したことを、王仁三郎が伝えているからである。

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オックスフォード大学の考古学・セイヌ博士は、「日本人の中に確かにヒッタイト人の血が入っている」と断言している。
また、日本書紀に登場する「天忍穂耳命(アメノオシホミミ)」は、古事記では「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」と表記されているが、「勝勝(カチカチ)」はヒッタイトを意味するという説もある。
更に、秋田県の大湯ストーンサークルで出土した土器が、ヒッタイトで発掘された土器と酷似しており、ヒッタイト人が古代日本に渡来したことを証明していると言っても過言ではない。

出雲安来地方の島根県の製鉄工場では、タタラ製鉄の高い技術を受け継いで特殊な鋼を生産しているが、タタラ製鉄は朝鮮半島を経て伝来したものだと言われており、タタラの語源はタタル(タタール)である可能性が非常に高い。

出雲といえば、スサノオの「ヤマタノオロチ伝説」の地である。
ヒッタイト人は「牡牛族」であり、スサノオは「牛頭天王」と呼ばれている。
しかも、島根はスサノオが行った「根の国」に通じ、更には「生命の樹」の根に当たる「死の樹」に堕ちたルシファーにも符号する。

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さて、カチカチといえば「カチカチ山」を思い出すが、ストーリーをザッと見てみよう。

――お爺さんが悪さをする狸を捕まえて、狸汁を作るようにお婆さんに言い残して出掛け、夕方帰宅して狸汁を食べると、実はお婆さんは狸に殺されていて、お爺さんが食べたのはババア汁だった。
そして、お爺さんの話を聞いた裏山の白兎が、狸の隠れ家の前で鎌で芝刈りをしながら栗を食べ始めると、穴の中から狸が出てきて栗を分けてくれるよう頼み、兎は向こうの山まで芝を背負って行くという交換条件を出した。
兎は狸の後ろで火打ち石を出し、「カチカチ」と火を切り始めると、変に思った狸が「カチカチ鳴るのは何だろう」と質問した。
「この山はカチカチ山だからさ」と答えると狸は納得し、また歩き出した。
やがて、兎の着けた火が狸が背負った芝に移って燃もえ出すと、狸は 「ボウボウいうのは何だろう」と質問した。
「向こうの山はボウボウ山だからさ」と兎が答えると狸は納得したが、既に火は背中に燃え拡がり、狸は燃える芝を振り落として穴の中に逃げ込んだ。
兎はわざと大声で、「火事だ!火事だ!」と言いながら帰っていった。
翌日、兎は味噌の中に唐辛子を擦り込んで膏薬を作り、大火傷をした狸のお見舞いに行って塗って来た。
それから数日後、兎は狸を海に連れ出して、兎は木の舟を造り、狸は泥で舟を造って沖に出て、泥舟は溶けて狸は溺れ死んだ――


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火打ち石で「カチカチ」と火を切るというのは、製鉄を象徴しているのではないだろうか。
「火事」は、音も字義も「鍛冶」に通じる。
更に、木の舟を造って航海技術を持っていた。
カチカチ山の白兎の正体は、古代日本列島に製鉄技術をもたらして山人となった「アマ族」ではないだろうか。
ここで注意すべきは、兎は「製鉄技術を持っていたアマ族」で、陸路ルートで渡来したヒッタイト人(牡牛族)だということである。

また、白兎といえば「稲葉の白兎」の神話もある。
淤岐島の白兎が渡海する為に、ワニを利用して毛皮を剥がされるのだが、白兎が牡牛族だとすると、ワニは舟を示唆し、龍蛇族系のアマ族であることを暗に示している。
また、白兎は大国主命の処方によって怪我を治癒させたことから、大国主命も牡牛族だった可能性がある。

この神話の舞台は鳥取県だが、やがて島根県(出雲地方)に移っていく。
出雲は「製鉄民=牡牛族=鬼」所縁の地だが、彼らは最終的に日本列島の鬼門(東北地方)に追いやられていった。
牡牛族は隠れたことから「隠(鬼)」となったが、大湯ストーンサークルのある秋田県ではナマハゲが有名である。
これはまさしく鬼であり、「生剥げ」の名称は、白兎が毛皮を剥がされて赤くなったことに因んでいるのかも知れない。

秋田県の上の青森県では、古来より大国主信仰が盛んだが、鉄を産出する山に「大国主命」が祀られている。
また、大国主命が信仰していた「磐座信仰」があるが、これは黒い鉄鉱石であることから、「大国主命=大黒天」と同一視されており、そのルーツはヒンドゥー教の破壊神「シヴァ」である。
いずれにしても、スサの王が率いるヒッタイト人が、朝鮮半島から渡来したことは間違いないと思われる。

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ところがアリオンによると、紀元前3〜2世紀に海路ルートで上陸したアマ族が「出雲族」だという。
しかも、その出発地点はパミール高原である。
だとすれば、前述のシュメール系アマ族が「出雲族」ということになるが、出雲族が渡来する以前からアマ族は日本列島に渡来していた。
それに、出雲族は「牡牛族」で、それより遥か以前から渡来していたアマ族は「龍蛇族」だと言える。

以上の仮説を踏まえた上で、もう1度振り出しに戻って、よく考えて頂きたい。
ヒッタイト帝国が、王位を巡る内紛が原因で国家の崩壊を招いたのであれば、勢力の分裂があったはずである。
つまり、東南アナトリアに移動して新ヒッタイトを築いたグループの他に、もう1つのグループがあったと考えるのが自然である。
それが陸路ルートで日本列島に上陸したのだろうか。
大黒天のルーツがシヴァであるなら、インドと無関係ではない。
もしかすると、古代シュメール人が日本列島に入ってきた同じルートで、ヒッタイト人が渡来したのではないだろうか。
posted by 夢蛇鬼 at 04:27| Comment(6) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

黄河文明と「日本語クレオールタミル語説」の謎

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「日本シュメール起源説」を最初に提唱したのは歴史学者ケンペルで、古代バビロニアの「日像鏡」「月像の首飾り」「剣」が日本の三種の神器に一致し、オリエントに多く見られる菊花紋が皇室の家紋となっていることから、「高天原はバビロニアにあった」と主張した。

だが、バビロニアはシュメール滅亡後に出来た王国なので、真相は恐らく、アッカド、またはアムル人やエラム人、アッシリア人の侵攻を受けたシュメール人の一部がアジア全域に広がり、一部が日本列島まで到達したのだろう。

だが、中国大陸に定住したシュメール人も数多くいたはずだ。
或いは、タガーマハラから出発したセム族は、メソポタミア地方を超えて、東アジアや北アジアに移動したケースも少なくなかったことだろう。
その遺産が世界四大文明の1つ、黄河や長江などの中国文明である。

メソポタミア文明やエジプト文明、インダス文明と同様、黄河文明を築いた連中もカッバーラを継承したフリーメーソンである。
言うなれば、古代チャイニーズ・メーソンである。

中国神話には、アダムとイブに相当する人類の始祖「伏羲(ふっき)」と「女禍(じょか)」が登場するが、メーソン(石工)のシンボルであるコンパスと直角定規を持っている。
下半身が蛇の姿で描かれているその姿は、DNAの二重螺旋構造を意味していると思われるが、蛇と蛇ということから考察して、彼らは「龍蛇族」だったのではないかと思われる。

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龍は神話の中で常に悪者とされてきたが、中国では龍は神獣として尊ばれている。
古代チャイニーズ・メーソンは、シュメールで牡牛族から逃げてきた龍蛇族だったのだろうか。
尚、中国西安郊外にあるピラミッド群は、彼らチャイニーズ・メーソンの作品ではない。
そして彼らは、朝鮮半島(当時は日本列島と陸続き)にも広がっていったことは想像に難しくない。

だが、それだけが日本人のルーツではない。
縄文人のルーツの一部は、アメリカ大陸の原住民「ネイティブ・アメリカン」だという事が判明している。
アメリカのミシガン大学のロリング・ブレイス教授は、アメリカ先住民民の遺骨や現代人の頭部を測定し、アメリカ中西部と北東部の先住民と、古代日本に住んでいた縄文人の関連性を発表した。
また、アラスカとカナダ北西部からメキシコにかけての地域の先住民は、現代の中国人に酷似し、縄文人とは別系統だとしている。

これは遺伝子学的にも証明されつつあるが、マヤ人が日本列島に上陸していたことは、沖縄のオーパーツ「ロゼッタ・ストーン」を見ても明らかである。
ネイティブ・アメリカンの祖とされているホピ族が、イスラエル民族の末裔だという説もあるが、これは学術的に信憑性が低い。

では、ヒッタイト人が日本列島に向かう途中で、ネイティブ・アメリカンになったのだろうか。
否、ヒッタイト人が「牡牛」をトーテムとする民族だったのに対し、ネイティブ・アメリカンは「ククルカン」や「ケツァルコアトル」等の、翼のある「蛇」を信仰していた民族である。
また、ヒッタイトには、ネイティブ・アメリカンが築いたようなジッグラトはなく、ネイティブ・アメリカンには製鉄技術はなかった。

マヤ、アステカ、インカの巨石文明、特に「ジッグラト」と呼ばれる階段ピラミッドは、シュメール文明の遺産そのものである。
そして、ホピ族が使う羽玉や、マヤの遺跡にも、スメラミコトの家紋 「十六弁菊花家紋」が残されている。
ネイティブ・アメリカンは、シュメールから直接やってきたのだろうか。
彼らの高度な巨石文明と天文学的知識は、明らかにシュメール文明そのものだとしか思えない。

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だが、ネイティブ・アメリカンのルーツは、蒙古系モンゴロイドだという説が有力視されている。
当然ながら、蒙古系モンゴロイドはセム族であり、シュメール人の枝分かれだと考えて良い。
シュメール人はアジア全域に広がったが、ウィスコンシン氷河期によって、アジア人(蒙古系モンゴロイド)が新天地を求めて、現在のワシントン州にやってきたと考える学者もいる。
尚、ウィスコンシン氷河期と呼ばれるものは、ノアの大洪水以降に何度か起きたポールシフトで、北方が寒冷地帯になったことだ。

また、古代日本列島には、ネイティブ・アメリカンだけではなく、ポリネシアやミクロネシア等の南方系海洋民族が上陸していたことも分かっている。
日本シュメール起源説を唱える岩田明氏は、『消えたシュメール人の謎』(徳間書店)の中で、「ヤマト」の語源が海の龍「ティアマト」だと主張し、それが「アマト(海人)」となり、南インド、エジプトにまで航海して各地に拠点を築いたシュメール人が、マレー半島、ボルネオ島、スマトラ島、インドシナ半島などに痕跡を残しながら、日本列島に到着したのではないかと推測している。

確かにシュメール人は、インドやエジプトの神話や文明にも大きな影響を与えており、エジプトには、南方から船で文明を伝えに来た人を描写した絵が残っている。
エジプトにも十六弁菊花家紋が見られるが、これはヒッタイトがエジプトを支配下に治めた証しとして刻まれたものであろう。
また、インダス文明の都市遺跡のモヘンジョダロやハラッパー、カンボジア遺跡、ポンペイ島の巨石建造物、イースター島のモアイ、トンガの階段ピラミッド、パラオの巨石建造物等と、ネイティブ・アメリカンのルーツも同じだと思われる。

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実際に、ポリネシア人のルーツについて、「シュメール起源説」と「ネイティブ・アメリカン起源説」などがある。
前者は、ニュージーランドのマオリ族の言葉で「西」を「ウル」と言い、シュメールの首都ウルと符合する。
後者はモルモン教の主張で、ネイティブ・アメリカンの一部がポリネシアに移住したというもので、「ネイティブ・アメリカン=イスラエル民族」かどうかは別として、ポリネシア人が南米からやってきた可能性は十分考えられるし、逆のパターンも考えられる。

また、ポリネシア人のルーツをエジプトに求める説もある。
イースター島の未解読文字が、エジプトのヒエログリフを彷彿させることや、ポリネシア語で太陽を「ラー」と呼ぶこと、ポリネシアにも死者をミイラにする風習があること等が根拠となっている。
だが、南方から船で来た人を描写した絵がエジプトに残っている以上、エジプトがポリネシアのルーツではない。

現在、考古学・言語学などの研究から有力視されているポリネシア人のルーツは、中国の南東部である。
ポリネシア人の痕跡はインドネシアまでしか辿れず、また、東南アジアとの文化の共通点が多く、約4000年前に中国南東部のモンゴロイドが、インドシナ半島、インドネシア、ニューギニア、メラネシア諸島などを経てトンガに定住し、その後、サモア諸島、更にポリネシア諸島に広がったと考えられている。

そして、そのままアメリカ大陸に突入したのが、ネイティブ・アメリカンだろう。
ロリング・ブレイス教授のいうように、アラスカとカナダ北西部からメキシコにかけての先住民が、現代の中国人に酷似しているのは、恐らく他民族との混血なしで今日まで続いてきたのだろう。
そして、彼らの一部がイヌイットになったのではないだろうか。

縄文人系といわれているネイティブ・アメリカンは、恐らく途中の島々に滞在したアマ族との交流があった為、他民族の血が輸入されたことは想像に難しくない。
要は、メソポタミア地方から中国大陸に来たセム族は、太平洋の島々、そしてアメリカ大陸にまで広がった可能性が高いという事である。

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そのルートだが、まず中国南東部からインドシナ半島、インドネシア、ニューギニア、メラネシア諸島などを経由するとなると、パミール高原を越える必要がある。
パミール高原は中央アジアの真ん中に位置する標高5000mの大高原で、タジキスタン、アフガニスタン、中国に股がり、ヒマラヤ、カラコルム、天山、ヒンズークシの4つの大山脈に股がるシルクロード最大の難所で、世界の屋根と呼ばれている。

このような世界の中心とも言えるパミール高原を目指して、定住した集団もいたとしてもおかしくはない。
恐らく、彼らの一部がヒマラヤの「聖者」と呼ばれる人々ではないかと思われる。
また、チベット南西部のカイラス山周辺で、ピラミッド群や巨大な石像が100以上発見されたが、中でも最大級の階段ピラミッドは、クフ王のピラミッド(146メートル)を超える180メートルの高さだという。

一方、太平洋諸島に進出した人々は、海洋民族故に「海人(アマ)族」と呼ばれるが、元々、シュメール人は航海術にも長けた民族だった。
インドシナ半島や太平洋諸島、アメリカ大陸などに巨石文明を築いた彼らは、各諸島やアメリカ大陸にネットワークを張り、頻繁に仲間と交流していたことは間違いなく、日本列島も例外ではない。

パラオ諸島には巨石テラス状の丘が多数有るが、日本各地の人工ピラミッド山や与那国島の海底遺跡などの石工構造と酷似しており、同系統の民族によって築かれたことが分かるし、また、沖縄人とフィリピン人の遺伝子も極めて近いことが判明している。

パミール高原の南西側は、インダス文明の都市遺跡があるパキスタンだが、アマ族の阿波一族はパキスタンのアワミ一族だと考えられ、また、古代インドやネパール、ペルー(マヤ人の末裔)からも、有明海や伊勢志摩にやって来た可能性があるとされている。

学習院大学の大野晋教授によると、シュメール語を祖語とした南インドやスリランカのタミル人言語(ドラヴィダ語の一部)も日本語に似ていると主張し、モヘンジョダロの文字はタミル語で解読できるという。
タミル人は、人種的にはオーストラロイド、またはヴェダロイドで、世界中に散らばっているが、元はシュメールから南インドに移住したドラヴィダ系の民族である。

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「十種神宝」などの宮中祭祀に関わる伯家神道の伝承によれば、古事記に登場する「土蜘蛛」はインドネシヤ系のアマ族とされている。
尚、パラオ人の祖先が、インドネシアのマレイ族、ニユーギニアのメラネシア人とポリネシア人だったことが判明している。

このように、アマ族の直接的なルーツはパキスタンやインドであり、シュメールから南アジアに南下してインダス文明を築いたシュメール人と、シュメールから東アジアの中国に移動した後にパミールを越えたシュメール人が、インド亜大陸で合流したものと思われる。
また、「日本語オーストロネシア語起源説」というのがあり、日本語がアルタイ語とオーストロネシア(南島)語の混合語だと主張する学者も多いが、タミル人の経緯を見れば、それも正しいと言えるだろう。

五島勉氏が『幻の超古代文明アスカ』の中で、インド人と日本人の類似性を挙げているが、結局はインダス文明を築いたシュメール人がアマ族となって、古代日本列島に上陸していたのだ。
また、インド洋の水深37メートルの海底に、9キロ四方に及ぶ大都市遺跡が発見されているが、これも建造物であることは間違いない。
尚、これはレムリア大陸などではなく、インド亜大陸の大陸棚の一部である。

北方起源説では、ツングース系モンゴロイドが樺太でアイヌと接触し、アイヌ人が北海道や東北地方だけではなく、本州の殆んどに居住していたとされている。
つまり、大陸と陸続きだった日本列島に最初に入ってきたのが毛人で、その後、ツングース系モンゴロイドが日本列島に移住したのがアイヌ人で、インドシナ半島、ポリネシア、ミクロネシア、アメリカ大陸に移住して、南方から日本列島に入ってきたのがアマ族なのだ。

だが、DNAの調査結果でも、縄文人はシベリア北部の先住民に近く、近畿を中心として北海道と沖縄で最も縄文人の血が濃くなる為、アマ族もアイヌと同系統の民族で、アマ族が北海道や東北地方に移動してアイヌと呼ばれるようになったケースも少なくないだろう。
いずれもシュメール出身の民族だが、古代日本列島にはこのように断続的にアマ族が上陸し、先住民と調和しながら石器時代を経て、縄文文化や弥生文化が形成されていったのだろう。

しかし、日本列島に製鉄技術をもたらしたのは彼らではなく、ヒッタイト人である。
ヒッタイト人は帝国滅亡後、どこへ消えたのだろうか。
そして、アマ族との関係は……。
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ヒッタイト帝国とスサの王の謎

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世界の龍蛇退治伝説の中でも、ヒッタイト神話ほど「スサノオの八岐大蛇退治」に酷似した物語はないだろう。
ヒッタイトの首都は「ハットウシャ」である。
これを漢字に当てると「八頭蛇」となるのは偶然ではないはずだ。
極単純に考えると、ヒッタイト帝国(龍文明)を退治して製鉄文明を手に入れたのが、「スサノオ」だと考えられる。
シュメールに隣接するエラムの首都を「スサ」といい、スサの王が「スサノオ」だという説がある。

「スサの王」とはあまりにも現代の日本語過ぎるが、実際にスサノオがエラムのスサと関係がある事は信憑性が高い。
ズバリ言うと、スサノオ(マルドゥク)の受肉が「スサの王」だったと考えて良いだろう。
果たして、エラムのスサの王がヒッタイトに侵攻して、製鉄技術を略奪したのだろうか。
そう考えると自然なストーリーだが、可能性は低い。

シュメール王、またはシュメール王の上に君臨していた預言者が「スメラミコト」だったと考えられるが、ハッキリ言えることは「スサノオ=スメラミコト」という事である。
シュメール王国は、エラム王国の侵攻を受けて滅亡したという説もあるが、シュメール王国とアッカド帝国の地にバビロニア王国が誕生したことを考えると、シュメール人はアッカドに追い出されたと考えるのが自然であろう。

だが、エラム人はエラム語を話す人種不明の民族で、シュメール人ではない。
ところが、エラム(日の昇る地)からシリア(日が沈む地)までが、シュメールの領土だったという説がある。
実際に、ウル第3王朝時代に、エラムはシュメールの支配下にあったという記録がある。
様々なパターンが想定できるが、ウル第3王朝時代、シュメールのスメラミコトが「スサの王」として君臨していた可能性も高い。

「シュメール人はエラムに居住して発展した」という説もあるので、シュメール滅亡後にエラムに移った可能性もある。
シュメール滅亡後、エラムがバビロニアに侵攻した事は間違いないようだが、バビロニア(アッカド)に国を奪われたシュメール人がエラムにいたとすると、その理由も頷ける。

そうでなければ、小国エラムのバビロニア侵攻は現実的ではない。
またその後、エラムはバビロニアの侵攻を受けている。
その時にスメル族(スサの王)がエラムを脱出し、アナトリア高原に移住したとは考えられないだろうか。
そして製鉄技術を世界で初めて生み出していたのは、実は先住民のハッティで、彼らは蛇神を信仰していたと仮定すると、「八岐大蛇伝説」の謎は氷解するのである。

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面白い事に、エラムには数多くのフルリ人が関与していた記録が残されている。
細かな点ではまだ謎は残されているが、シュメールのスメラミコトが「スサの王」になり、ハットウシャに侵攻してハッティを征服しつつも、滅ぼしたのではなく、融合していったと考えるのが自然ではないだろうか。

しかし、嵐神の龍退治の神話はシュメール時代から存在している。
それは何故かと言うと、神話の源泉は神界の出来事であり、それが時を変え、場所を変え、人間界に繰り返し移写されるからである。
その伝説が鉄器と共に日本に伝来し、「八岐大蛇」の神話を生んだ事は間違いないだろう。

何故、日本なのか……。
まず、ヒッタイト帝国は、現在のトルコの辺りに存在した。
そして恐らく、ハッティは蛇神信仰の民族だった。
『日月神示』では、泥海の地球を創り固めたのが龍神の総大将である「国常立尊」だという。

王仁三郎は、次のように述べている。
「地球霊界の主宰の位置についたのが国常であった。
国常立大神は、最初トルコのエルズルム(エルサレム)に神都を定め、天地の律法を制定して地上霊界を統治していた。
ところが地上霊界を我が物にしようとする八岐大蛇・金毛九尾の狐が神人に憑依し、国常立大神の神政を妨害して天地の律法を破壊した」


泥海とは、ノアの大洪水後の地球を指す。
エルズルムは「神都」を意味し、トルコのエルズルムとは「ハットウシャ」を指していると思われる。
つまり、当時の地球は、そこが世界の中心だったという事で、ハッティは必然的に蛇神信仰の民族となり、世界の王の御霊を持つスメラミコトは、必然的に世界の中心であるハットウシャに移り住むことになったのだろう。

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ここで、王仁三郎の話とメソポタミア神話を比較して頂きたい。
地上霊界を統治していた国常立大神は「嵐神マルドゥク」に対応し、八岐大蛇は「龍神ティアマト」に対応する。
だが、国常立尊も「龍神」である。
今まで検証してきた通り、龍にも牛の要素が隠されており、牛にも龍の要素が隠されている。

牛と蛇の合体神が「龍」と考えることも出来るが、要は牛神と龍神は同一神であり、裏と表の神一重だということである。
そして更に裏の裏があり、「善の牛」と「悪の蛇」があり、同様に「善の蛇」と「悪の牛」があるが、それらは同一神であり、牛と蛇のどちらが善か悪かを議論するのはナンセンスである。

だが、それが人間に現れると「龍蛇族」と「牡牛族」に分類されるようになる。
アブラハムは牛族だったと言われている。
また、八岐大蛇を退治した牛頭天王「スサノオ」も牛族に分類できるだろう。
そう、牛の角は丑寅の金神の角であり、「牛=鬼」なのだ。

「牡牛と龍蛇の戦い」と言っても、牛神「スサノオ」と龍神「国常立尊」は同一神であり、共に鬼門に封印された「鬼=龍」であることに注意しなければならない。
では、牡牛と龍蛇を封印したのは何者か。
それこそが、現在のキリスト教で「神」と呼ばれている存在である。

世界神話では、八岐大蛇は退治されたことになっているが、王仁三郎は次のように述べている。
「八岐大蛇・金毛九尾の狐が神人に憑依し、国常立大神の神政を妨害して天地の律法を破壊した」

詳細は順を追って明らかにしていくが、龍を封印したのも「龍」である。
これによってヒッタイト帝国は、王位争奪の内紛で崩壊したのだ。
そして、国常立大神は世界の鬼門である日本列島に追いやられた。
恐らく、ポールシフトで地球の霊的磁場の中心が日本列島に移動したのだろう。
そして、日本列島は徐々に龍体を形成し、世界の雛型となった。

地球の霊的磁場の中心が、アナトリア半島から日本に移動したということは、当然ながら、そこに住んでいた神人たちも無意識に日本列島に導かれることになる。
では、どのようなルートで日本列島に辿り着いたのか。
その前に、もう1つの古代アジア文明を忘れてはならない。
posted by 夢蛇鬼 at 00:05| Comment(2) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月27日

牡牛と龍蛇の戦いの謎

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カナン神話の「バアル」は「主」という意味で、聖書の「ヤハウェ」と同義語である。
そのルーツは「マルドゥク」で、エジプト神話の「オシリス」、ギリシア神話の「ゼウス」、ローマ神話の「ジュピター」等に相当する。
そして、バアルは「牛神」である。
という事は、「神=悪魔」「牡牛=龍蛇」という構造になってしまう。

スサノオは海原を治める勅命を受け、また、八岐大蛇退治によって英雄としても語られる。
「スサ」は「荒む」などのように「荒らぶる」の意で、「嵐の神」や「暴風雨の神」ともされている。
また、王仁三郎によると「贖罪神」でもある。
これは、スサノオに対応するヘラクレスが「贖罪の旅」に出た事にも通じる。
つまり、スサノオは「英雄」であり、「海神・嵐神」であり、「贖罪神」でもあるのだ。

ここまでの話を整理すると、次のような等式で結ばれる。

「マルドゥク=プルリヤシュ=ヘラクレス=主=ミカエル=バアル=スサノオ」
「ティアマト=イルルヤンカシュ=ヒドラ=レビヤタン=ルシファー」


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これは「嵐神vs龍」という構図だが、嵐神は牛であり、「牡牛vs龍蛇」ということになる。
ところが、この最後の部分の「スサノオ」と「ルシファー」も同一神なのだ。
「主」である牛神バアルは、キリスト教では悪魔とされる。
魔界の副大統領的存在のベルゼルブは、蝿の姿をした醜悪な姿で描かれているが、「ベル」はバアルのことで、ルシファーと同一視されている。
つまり、牛神バアルは「龍」でもあるということになる。

その証拠に、カナン人はハム族で、エジプト人と血統的にも文化的にも親類だったが、シッチンによると、カナン人はアジアとアフリカの橋渡し役をしていた為、メソポタミア文明の強い影響を受けたという。
カナン人の直接的な接点は、アモリ人(アッカド語の「アムル」とシュメール語の「マルトゥ」の合成語)で、アモリ人の最高神が嵐の神「アダト」であった。

これはバビロニア神話の嵐の神「マルドゥク」に相当し、カナン神話の「バアル」となった。
アダトのシンボルは稲妻だったが、聖書で稲妻は「龍=堕天使ルシファー」の象徴でもある。

それだけではない。
マルドゥクは牡牛神と考えられているが、マルドゥクと龍はワンセットで描かれている。
マルドゥクが授けられた武器も「嵐」と「雷」である。
嵐は「スサノオ=牛」の象徴だが、雷(稲妻)は「ルシファー=龍」の象徴である。
だが、「スサノオ=堕天使ルシファー」である。

ティアマト(龍)は、七俣の大蛇やサソリ尾の龍などの怪獣を生み出したが、その中に「牛人間」がいる。
やはり、牡牛と龍蛇を分離することができない。
そして、龍蛇は悪者とされているが、どうなのだろうか。

ノアの大洪水以前、ムー帝国では7つ頭の蛇である「絶対神ナラヤナ」が崇拝されていたという。
エジプトのクレオパトラは「ナイルの蛇」という称号を持っていたが、ツタンカーメンの額にも蛇の飾りが付いている。

モーゼは杖をヘビに変えてファラオと戦ったが、これは「蛇と蛇の戦い」ということになる。
モーゼは神の命令で青銅の蛇ネホシタンを作り、蛇はイスラエル民族の信仰対象となった。

「青銅のヘビを造り、旗竿の先に掲げよ。
蛇に噛まれたものがそれを見上げれば、命を得る」

(「民数記」第21章6〜8節)

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これは十字架のイエスの象徴であり、「イエス=蛇=ルシファー」、即ち「ヤハウェ=ルシファー」ということになる。
別の見方をすれば、贖罪神スサノオは「イエス・キリスト」だが、同時に堕天使「ルシファー」でもある。
また、スサノオは牛神「バール」だが、同時に「ルシファー」であり「牡牛=龍蛇」ということになる。

マヤ神話のククルカンは「翼ある蛇」とされ、アステカの神ケツァルコアトルも「翼ある蛇」である。
また、空を飛ぶ蛇神は、エジプトの王家の谷でも発見されている。
その他、世界中で蛇神・龍神信仰は見られる。
尚、エジプト文明のルーツもシュメールにあるが、エジプトでも蛇だけではなく、黄金の子牛アモン(バアル)が信仰されていた。

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イスラエル10支族はこの牛神を信仰し、ヤハウェの怒りを買ったとされている。
これは「ヤハウェ」と「バアル(ルシファー)」の対立を表したものだが、バアルも「主(ヤハウェ)」なのである。
そして、ヤハウェの受肉としてイエスが誕生したが、イエスの象徴が蛇ということは、「ヤハウェ=ルシファー」ということで、更に贖罪神スサノオであるイエスは「牛神バアル」でもあるのだ。

また、ヒンドゥー教の象徴「ナーガ」も、7つの首の蛇である。
そして、ヒンドゥー教の絶対神は、「創造神ヴィシュヌ」「維持神ブラフマー」「破壊神シヴァ」の三位一体で、順にキリスト教の「御父エロヒム」「御子ヤハウェ」「聖霊ルーハ」に対応し、シヴァはルシファーにも相当する。
ところが、シヴァは暴風雨の神で「牛」で象徴され、 バビロニア神話の「マルドゥク」や、カナン神話の「バアル」にも相当し、聖書でいう「ヤハウェ」でもあるのだ。

日本神話で言うと、八岐大蛇を退治した牛頭天王「スサノオ」である。
たが、牛神シヴァの体にも蛇が巻き付いているのである。
従って、シヴァは「ヤハウェ」であり、「ルーハ」でもあり、「ルシファー」としての顔も持っていることになる。
話がくどくなったが、「牡牛=龍蛇」というのが結論である。
では、「牡牛と龍蛇の戦い」とは、一体何を意味するのだろうか……。
posted by 夢蛇鬼 at 23:36| Comment(0) | 日本人のルーツの検証 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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