2010年04月06日

「日向国=邪馬台国」建国の謎

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アリオンによると、大陸から渡来した日向族は、日本列島の原住民を併合し、九州に強大な国家を建設した。
これについて多くの人は、「日向族=騎馬民族」「原住民国家=邪馬台国」と認識するだろうが、これは見当違いのようだ。
真相は、日向族が日本の原住民を併合して、南九州(鹿児島県)に建設した国家が「邪馬台国」だったのだ。
つまり、邪馬台国は原住民が建国した国家ではなく、日向族によって建国された国だったのである。

日本列島の原住民については今まで述べてきた通り、超古代から陸・海の両ルートで実に様々な民族が上陸してきているが、琉球王朝を築いた主な民族について、加治木氏はこのように述べている。

「3000年前に台湾・沖縄を中心に宝貝貨幣を世界に供給して栄えた琉球。
その中核だったのが、<バビロン>から来たカリエン=和人=高麗人でした。
彼等は<エラム>出身者は永良部島といったふうに、故郷の名を新居住地に残しています」


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そこに紀元前3〜2世紀、日向族が渡来。

――それに続いてやってきたのがギリシャ人たちで、彼等はインド系の住民から「ヨーナ」と呼ばれて与那国島の名を残し、<アテナ>出身者は嘉手納(かてな)、<チラナ>出身者は知覧の名を残すというふうに、「地名文化財」を南九州から南西諸島の至るところに残しました。
その中でも最大のものが台湾で、「タイワン」というその名もギリシャ人が「タイナロン」として記録しているものの遺物だったのです。
「台湾に現存するギリシャ系倭人(アミ族)」
後からきた侵入者に追われて山地に住んでいる人々の中にはギリシャ系倭人たちがいる。
その容貌、服装、家屋、言語、土器など実に多くのものが、その古いルーツがインド経由の地中海人だったことを示している。
「臺」はウティナで沖縄のこと。
「湾」はワニで「倭人」の唐代以後の読み方。
ここはその頃[小琉球]と呼ばれていた。
だから、[台湾]とは[琉球人の国」という意味なのだ。
沖縄には今もアイヌ系の人たちと体格、顔かたちが非常によく似た人が多い。
また昔、沖縄が流求と書かれていたころ、沖縄は「大リュウキュウ」と呼ばれ、その支配下にあって「小リュウキュウ」と呼ばれていた大きな島がある。
台湾である。
そこには昔のアイヌ系の婦人が、自分たち一族の誇るべき習慣として、口の回りに入れていた大きな「入れ墨」と完全に同じ入れ墨をしている<アミ>と呼ばれる人々が今もいる。
アイヌ系の人たちとアミ系の人たちは、そのほかにも口でくわえて演奏する口琴(ムックリ)など多くの同じ文化をもっていることが分かった――

(「日本人のルーツ」保育社)

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――忘れてならないのは「三母音」というのは、マレー語の特徴だということである。
沖縄民謡がインドネシアのメロディに非常によく似ていることは、昔からよく知られているが、曲だけでなく歌詞の発音もまたよく似ている。
古代にマレー語を話す人たちが沖縄に住んでいて、その言葉が今まで残っていることは、どこからみても間違いない。
またカリエンの人たちの都は今も花蓮(カリエン)港と呼ばれ、「鬼道」の子孫も現存している。
……ギリシヤ系インド人の子孫であるアミ族の人々やその系列に入る部族の人々が今も住んでいる。
台湾は『後漢書』や『太平御覧』が注記に引いている3世紀の呉人・沈瑩(チンエイ)の『臨海水土誌』が書かれた当時から17世紀の明未まで「流求=琉球」と呼ばれていた。
しかし後半は「小流求」になり、沖縄が同時に「大流求」と呼ばれたから、沖縄の支配下にあったことがわかる。
「男女とも髪を丁髷(ちょんまげ)に結い男は裸体で戦闘を好み、勝者も死者も共に讃える……」などと古代ギリシャ人+日本人に似た風俗を伝えている――

(「日本国誕生の秘密」徳間書店)

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つまり、台湾は本来、日本列島の一部だったと考えて良いだろう。
これは、日本列島を龍体に見立てた場合も、台湾は龍の尾端となる。
そして、邪馬台国の所在地が鹿児島だった事は間違いない。
熊毛郡をはじめ、「熊本県」「球磨(クマ)川」など、「クマ」は南九州に集中する地名で、そこを支配する豪族が「熊襲」だった。
本居宜長が唱えた「卑弥呼=熊襲の女酋長説」も、間違いではなかったと言えるだろう。

伊是名島に拠点を構えていた日向族の族長「イザナギ・イザナミ」は、娘のアマテラスに「天上の事」をさせるべく天に送った。
沖縄で「天上」は「チンヅウ」、本土語では「シンドウ」となり、「神道」と当て字することが出来る。

鹿児島県隼人町の鹿児島神宮に伝わる古文書『正八幡の縁起』によれば、
「オオヒルメが七歳の時、貴人と寝た夢を見て身ごもって王子を産んだ。
そして、王たちは幼い母子を舟に乗せ、『流れ着いた地を領地にしなさい』と祈りながら、海に送り出した。
その辿り着いた地が鹿児島県の大隅で、王子の名が八幡(ハチマン)だった為に、その地を八幡崎と名付けられた」


オオヒルメ(卑弥呼)が処女懐妊したという話は「聖母マリア」と一致し、八幡が舟で流されたのは「モーゼ」と同じである。
熊本県の弊立神社には、モーゼが渡来したという伝説があるが、これが事実ではないにしろ、イスラエル民族が日本列島に渡来し、聖書の伝説を重ね合わせたものだろう。
鹿児島神宮の近くに「姫木山」という丘があるが、木は「コ」とも読み、「ヒメコ(ヒミコ)山」と読める。
その一帯には、「姫城」という地名が広がっており、加治木氏によると古代沖縄語で「フィミ・グスッ」だという。

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『肥前国風土記』に「姫社(ヒメコソ)郷」という名が登場するが、これは 『日本書紀』 では「比売語曽(ヒメゴソ)の社」として登場し、その社の祭神「ヒメゴソ」は「阿加流比売(アカルヒメ)」とも呼ばれている。
この「ヒメコソ」の人物像は「神功皇后」と一致し、更に「比売語曽」を古代沖縄語で「フィミ・グス」と発音するという。

また、オオヒルメの処女懐妊は「ヒメコソ」とも共通し、子の名前が「八幡」というのは「神功皇后」と同じである。
「八幡」は『古事紀』 に登場する「イザナギ・イザナミ」の最初の子「水蛭子(ヒルコ)」と共通し、不具の為に葦の舟で流されてしまう。
蛭子は「エビス」とも読み、水蛭子は「恵比寿・戎」と同一視されることもある。
また、古代日本に舟で渡来した「エブス人」との関連性も窺える。
そして、この鹿児島神宮の主祭神が「蛭子命(ヒルコノミコト)」で、副祭神が「神功皇后」となっており、皇后にまつわる「潮の干満を操る玉」も現存しているが、これは「モーゼの紅海割れの奇跡」を彷彿させる。

姫木山の南には霧島山があり、霧島の語源は「ギリシア」だが、加治木氏はこれを、古代インド人が「スメラ山」に見立てたものだとしている。
そして、姫木山のある隼人町は「姶良(アイラ)郡」だが、古代インドで「アイラ」は「神聖」を意味する言葉であった。
尚、霧島山は鹿児島と宮崎の県境に位置する連峰で、その中の「高千穂峰」が「天孫降臨の地」とされている場所でもあるが、霧島連峰は「スメラ山」であるだけではなく、「シナイ山」にも見立てられていた事だろう。

また、加治木氏によると、「八幡」は「ギリシア人」を意味するサンスクリット語の「ヤヴァーナ」だという。
これは単純に「ギリシア人」というよりも、「八=ハッティ」を表し、更に「八幡」を「ヤハタ」と読んだ時に「幡=ハッティ」とも読める。
また、「ハタ」を「秦」と当て字すると、「秦始皇帝」とも関連する。
秦始皇帝の正体が、アレクサンドロス軍の「ディオドトス」だったことは以前述べたが、彼はアフガニスタン北部でバクトリアを建国した人物で、ギリシア人ともユダヤ人とも言われている。
つまり、ヒッタイト民族とイスラエル民族が融合した「スキタイ」だったのだ。

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『竹内文書』で見た通り、アマテラスの母イザナミの出自は、アフガニスタン西北部のヘラート(ヘラサカイト)で、「サカ」は「スキタイ」である。
ちなみに、加治木説によれば、沖縄の「波照間島」は、沖縄語や鹿児島語で「ハティマ」と発音し、語尾のマは国を意味するので「ハティ国」となる。
ハティとは、「ハッティ=ヒッタイト」であり、九州北部の「日田(ヒタ)」も「日田人」と書けば「ヒッタイト」の当て字となる。
更に、鹿児島には「馬渡(マワタリ)」という姓があるが、紀元前14世紀のヒッタイト王の名前が「ムーワタリ」だったという。

邪馬台国は、原住民「熊襲」を併合した日向族の女王・卑弥呼が治める国だったのだ。
そして、鹿児島には「ヒメコさあ(様)」という、観音信仰の民間宗教が残っている。

『観音=卑弥呼=オオヒルメ=神功皇后=天照大神=ヒメコソ=アカルヒメ』

但し、「天照大神」も「神功皇后」も「オオヒルメ」も、1人の人物を指した言葉ではなく、「ヒミコという言葉も人名ではない」と加治木は指摘している。
posted by 夢蛇鬼 at 05:18| Comment(3) | 邪馬台国と卑弥呼の真相 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
観音=卑弥呼=オオヒルメ=神功皇后=天照大神・・・・・
神々を一刀両断のように捌けるのは夢蛇鬼さんくらいですよ・・・・・
何も判らずに書いているのではなく、何もかも判って書いてるのですから。
私には読むのも恐ろしい内容なのですが、閣下と聖徳太子の名において読んでいます。
日本の国仕掛けこそが神懸かりですね。
Posted by オクト at 2010年04月06日 22:00
日本の国仕掛けの謎解きは急務だと思います。
聖徳太子の名において解明、暴露したいと思います。
Posted by 夢蛇鬼 at 2010年04月07日 02:31
古事記は712年に発表され日本書紀は720年に発表である。
古事記を見た朝廷は716年に史誌編さんに携わっていた山上憶良を伯耆国の国司に派遣する。
伯耆国の調査報告を逐一受けた朝廷は当時の朝廷に都合のよい解釈をして日本書紀などの史誌を編さんした。
その後721年に山上憶良は朝廷へ帰ったが史誌編さんの上司であった藤原不比等が720年に亡くなったため自分の考えを通すことができた。
726年再び筑前の国司となる。
 大伴旅人(九州全体の長官)と仲良くなり、日本書紀などの史誌に合うように九州の地名・神社の創設・神楽の創設をしていった。
白村江の戦で敗れた朝廷は都を大津に移し、百済の王族を宮崎県に逃がしている。山上憶良は百済人である。
九州の記紀伝説は伯耆国のコピーである。
高天原は蒜山であり、天孫降臨の地は伯耆国の高千穂である。
この説を取るとほとんどのことが矛盾なく説明できる。
ニニギのお供の者も大宮を中心に自然な距離に祭られている。
コノハナサクヤヒメはニニギの尊の居られた御所と同じ丘陵のすこし下ったところの神社に祭られている。
Posted by 天孫降臨 at 2010年08月26日 04:01
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