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2015年06月06日
【真説】天皇家のルーツと日向族の正体
かなり久しぶりの更新だが、
日向族のルーツについて閃いたことがあるので載せておきたい。
話の骨子は過去の記事と重複するが、
再確認しながら読み進めて頂きたい。
鹿児島神宮の古文書『正八幡の縁起』によると、
伊是名島の陳大王の姫のオオヒルメ
(大比留女)が7歳で処女懐妊して八幡王子を出産した。
王たちはこの幼い母子を船に乗せ、
祈りながら海に送り出し、鹿児島の大隅に漂着した。
まず、オオヒルメというのは天照大神のことである。
では、陳大王とは何者か……。
陳は中国人の名前なので、
陳大王は中国から渡ってきた部族なのだろう。
『記紀』では、イザナギとイザナミの子の
オオヒルメが流されたとされている。
つまり、陳大王はイザナギのことになる。
歴史言語学者の加治木氏によると、
陳は沖縄語の天(チン)、イザナは伊是名の転訛で、
イザナギは伊是名島の王だったそうだ。
そして、天照大神は卑弥呼だが、
卑弥呼は神功皇后とも同一視されている。
神功皇后の子供が八幡なので、
オオヒルメの子が八幡というのは合っている。
但し、「イザナギ」「イザナミ」「アマテラス」
といった神名は子孫に継承されていったようで、
アマテラスが成長すると「イザナミ」と呼ばれ、
今度はその娘が「アマテラス」と呼ばれるようになった。
で、伊是名島から鹿児島に上陸したアマテラスは、
北上して日向地方に拠点を構えた。
ここまでの話は、マクモニーグルが透視した
「卑弥呼の出身部族の渡来ルート」とほぼ一致する。
マクモニーグルによると、
卑弥呼の部族の出自は中国の昆明とのことだが、
『正八幡の縁起』と参照すると、
それが「陳大王家」だったことになる。
それが現在の天皇家に繋がっていくのだが、
中国の昆明はアリオンが明かす「日向族の出自」とは異なる。
日向族はパミール高原からインドに降臨し、
インドネシア、パキスタン、ネパール、中国の江南を経由して、
博多湾沿岸に上陸したとされている。
一方、マクモニーグルの話では、
卑弥呼の出自部族は中国の昆明から出発し、
ベトナム、マカオ、台北、沖縄を経由して福岡に辿り着いた。
両者の話の矛盾については説明のしようがなく、
無理やり話を合成した仮説を立ててきたが、
今ようやく真相が閃いた。
アリオンによると、
日向族は先住民を併合しながら勢力拡大したという。
つまり、アリオンがいう「日向族」と、
マクモニーグルがいう「卑弥呼の部族」はもともと別物だが、
併合したということになる。
イスラエル2支族のユダヤ人である日向族の王だったイザナギが、
陳大王の娘だったオオヒルメ(アマテラス)を娶ったのだ。
ここで注意するべき点は、
「日向族の王だったイザナギ」と
「オオヒルメ(アマテラス)の父である陳大王=イザナギ」は、
全く別人であるということ。
そして、日向王イザナギと婚姻したオオヒルメ(アマテラス)が、
「イザナミ」と呼ばれるようになったのだ。
これがアリオンのいう「日向族のイザナギ・イザナミ」で、
その娘の「アマテラス」が出雲族のスサノオと政略結婚をして、
それが実質的な「天皇家の起源」だと言えるだろう。
そのアマテラスの子供の1人にも「八幡」と名付けられたが、
出雲族と日向族がインドから出発する時に、
ギリシャ人も混ざっていたであろうことは、
加治木説によってお分かりだと思う。
超能力者で発明家だった工学博士の政木和三氏は、
『驚異の超科学が実証された』の中で、
八幡大菩薩から受けた啓示を載せている↓
「われは、八幡大菩薩である。
汝は永年にわたり、陰徳を積みたるがゆえに、
汝の寿命を延ばし、汝に大いなる力を授く。
汝の守護神となる。
汝につくまでは、神功皇后の子供の守護神であった」
歴史的には、神功皇后の子供の名前が八幡で、
八幡の神霊が「八幡大菩薩」として祀られている。
それはそうとして、八幡の守護神の名前が「八幡大菩薩」だったら、
八幡は「八幡」と名乗るようになったのだろう。
政木和三によると八幡大菩薩の啓示は、
最初の10分間はインドの言語だったが、
そのあとは日本語に変わっていったそうである。
加治木氏は『黄金の女王・卑弥呼』の中で次のように述べている。
『あらゆる角度から「八幡」の語源を検討して、
一致点のないものを消去していくと、あとに残るのは
インド・サンスクリット語の「ヤヴァーナ」だけになる。
これは「ギリシャ人」という意味である』
とりあえずこれで整合性が取れて、
多角的に検証してみても、
今のところは否定できる根拠はないと思われる。
日向族のルーツについて閃いたことがあるので載せておきたい。
話の骨子は過去の記事と重複するが、
再確認しながら読み進めて頂きたい。
鹿児島神宮の古文書『正八幡の縁起』によると、
伊是名島の陳大王の姫のオオヒルメ
(大比留女)が7歳で処女懐妊して八幡王子を出産した。
王たちはこの幼い母子を船に乗せ、
祈りながら海に送り出し、鹿児島の大隅に漂着した。
まず、オオヒルメというのは天照大神のことである。
では、陳大王とは何者か……。
陳は中国人の名前なので、
陳大王は中国から渡ってきた部族なのだろう。
『記紀』では、イザナギとイザナミの子の
オオヒルメが流されたとされている。
つまり、陳大王はイザナギのことになる。
歴史言語学者の加治木氏によると、
陳は沖縄語の天(チン)、イザナは伊是名の転訛で、
イザナギは伊是名島の王だったそうだ。
そして、天照大神は卑弥呼だが、
卑弥呼は神功皇后とも同一視されている。
神功皇后の子供が八幡なので、
オオヒルメの子が八幡というのは合っている。
但し、「イザナギ」「イザナミ」「アマテラス」
といった神名は子孫に継承されていったようで、
アマテラスが成長すると「イザナミ」と呼ばれ、
今度はその娘が「アマテラス」と呼ばれるようになった。
で、伊是名島から鹿児島に上陸したアマテラスは、
北上して日向地方に拠点を構えた。
ここまでの話は、マクモニーグルが透視した
「卑弥呼の出身部族の渡来ルート」とほぼ一致する。
マクモニーグルによると、
卑弥呼の部族の出自は中国の昆明とのことだが、
『正八幡の縁起』と参照すると、
それが「陳大王家」だったことになる。
それが現在の天皇家に繋がっていくのだが、
中国の昆明はアリオンが明かす「日向族の出自」とは異なる。
日向族はパミール高原からインドに降臨し、
インドネシア、パキスタン、ネパール、中国の江南を経由して、
博多湾沿岸に上陸したとされている。
一方、マクモニーグルの話では、
卑弥呼の出自部族は中国の昆明から出発し、
ベトナム、マカオ、台北、沖縄を経由して福岡に辿り着いた。
両者の話の矛盾については説明のしようがなく、
無理やり話を合成した仮説を立ててきたが、
今ようやく真相が閃いた。
アリオンによると、
日向族は先住民を併合しながら勢力拡大したという。
つまり、アリオンがいう「日向族」と、
マクモニーグルがいう「卑弥呼の部族」はもともと別物だが、
併合したということになる。
イスラエル2支族のユダヤ人である日向族の王だったイザナギが、
陳大王の娘だったオオヒルメ(アマテラス)を娶ったのだ。
ここで注意するべき点は、
「日向族の王だったイザナギ」と
「オオヒルメ(アマテラス)の父である陳大王=イザナギ」は、
全く別人であるということ。
そして、日向王イザナギと婚姻したオオヒルメ(アマテラス)が、
「イザナミ」と呼ばれるようになったのだ。
これがアリオンのいう「日向族のイザナギ・イザナミ」で、
その娘の「アマテラス」が出雲族のスサノオと政略結婚をして、
それが実質的な「天皇家の起源」だと言えるだろう。
そのアマテラスの子供の1人にも「八幡」と名付けられたが、
出雲族と日向族がインドから出発する時に、
ギリシャ人も混ざっていたであろうことは、
加治木説によってお分かりだと思う。
超能力者で発明家だった工学博士の政木和三氏は、
『驚異の超科学が実証された』の中で、
八幡大菩薩から受けた啓示を載せている↓
「われは、八幡大菩薩である。
汝は永年にわたり、陰徳を積みたるがゆえに、
汝の寿命を延ばし、汝に大いなる力を授く。
汝の守護神となる。
汝につくまでは、神功皇后の子供の守護神であった」
歴史的には、神功皇后の子供の名前が八幡で、
八幡の神霊が「八幡大菩薩」として祀られている。
それはそうとして、八幡の守護神の名前が「八幡大菩薩」だったら、
八幡は「八幡」と名乗るようになったのだろう。
政木和三によると八幡大菩薩の啓示は、
最初の10分間はインドの言語だったが、
そのあとは日本語に変わっていったそうである。
加治木氏は『黄金の女王・卑弥呼』の中で次のように述べている。
『あらゆる角度から「八幡」の語源を検討して、
一致点のないものを消去していくと、あとに残るのは
インド・サンスクリット語の「ヤヴァーナ」だけになる。
これは「ギリシャ人」という意味である』
とりあえずこれで整合性が取れて、
多角的に検証してみても、
今のところは否定できる根拠はないと思われる。
2015年03月10日
2012年12月28日
皇祖神「天照大神」と初代天皇「神武天皇」の正体
今年は皇紀(神武暦)2672年だが、岩戸開きが始まった今、
日本史の根源的な歪みを修復しておくことが急務である。
『日本書紀』の神武天皇元年正月朔の条に
「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と記されている。
簡単に言うと、「神武天皇が橿原宮で即位した辛酉の年の
春正月を天皇元年とする」という意味である。
西暦に対応させると、紀元前660年2月11日になるということで、
2月11日が「建国記念日」とされているのだ。

だが、辛酉は60年ごと巡ってくるため、年代は特定できない。
では、なぜ紀元前660年とされたのか……。
そこに聖徳太子の陰謀がある。
六十干支は60年周期だが、
それを21倍した「1260年」という周期もある。
以前も同じような「聖徳太子陰謀説」を書いたが、
聖書やノストラダムスの予言も「1260年周期」に基づいている。
結論から言うと、聖徳太子は西暦601年(推古9年)の辛酉の年から
1260年を引いた「紀元前660年」を神武天皇即位の年と定めたのである。
中国では「辛酉の年」は革命が起こって王朝が倒れる年だと考えられ、
「辛酉革命」とよんで恐れていたという。
もちろん、聖徳太子は「辛酉革命思想」や
「1260年周期」のことも熟知していたはずである。

年表を見ると、西暦601年(推古9年)の辛酉の年に、
聖徳太子が斑鳩宮(上宮王家の拠点)を建立している。
革命的な出来事は特になかったように見えるが、
斑鳩宮を建立して天皇中心の新しい国体の構築を
始めたことが「革命」だったと言えるだろう。
その1260年前の辛酉の年を、
初代天皇である「神武天皇」の即位の年としたのである。
それによって天皇家の権威を増す目的もあったと思うが、
最大の目的は、暦の操作によって、日本国民の無意識を
操作することが目的だったのである。
推古天皇は第33代とされているが、
実際には初代天皇から推古天皇まで33代もない。
仮に33代まで続いていたとしても、
天皇の即位から防御までの期間を平均「50年」と仮定すると、
紀元前660年から西暦601年までの1260年間の間に、
252人の天皇が存在しなければならない。
つまり、推古天皇は第252代くらいになるはずで、
初代天皇の即位が紀元前660年だったというのは無理がある。

伯家神道の予言によると、皇太子が天皇に即位する際に行われる
「祝神事」が100年間、或いは4代行われないと天皇家は滅びるという。
その100年目が今年の7月30日だったが、今のところ天皇家は滅びていない。
普通に考えると、今年中に天皇家が滅びるとも思えない。
では、来年以降に天皇家が滅びるのかというと、そうではない。
出口王仁三郎は、広島と長崎の原爆投下を予言し、
広島は昭和天皇「ヒロヒト」、長崎は皇后「ナガコ」を暗示し、
日本の敗戦は天皇家にお詫びをさせるためだったことを明らかにした。
翌年1946年の元旦、昭和天皇が「人間宣言」をして、
現人神とされていた天皇は「人間」となり、天皇家の権威は失墜した。
『大本神諭』では痛烈な天皇批判がされていたが、
『日月神示』では天皇が世界を治める神となることが予言されている。

詳しい話は以前書いたので省略するが、
現在の天皇家の時代は終焉を迎えるということである。
だが、現在の天皇家が滅びるわけではない。
現在の天皇(日向族)の血統に、本来の天皇(出雲族)の霊統が
復活することで「世界天皇」が誕生するのだ。
それが、ユダヤ教が予言する「ダビデ王の末裔のメシア」であり、
キリスト教が予言する「キリストの再臨」であり、
仏教が予言する「弥勒菩薩の下生」なのである。
もちろん、それは一人一人に当てはまることなのだが、
人類の中心となる特定の人物が「天皇」だということである。
そこで、新しい時代が始まったことにより、
「アカシックの修復」のために再認識して頂きたいことがある。
皇祖神「天照大神」と初代天皇「神武天皇」についてである。
秦氏によって、イエス・キリストも「天照大神」に習合しているが、
それは別として、皇祖神とされる天照大神は女神であり、
それはスサノオと呼ばれたフツシの日向の妻だった「アマテラス」、
『魏志倭人伝』で言うところの卑弥呼のことである。

だが、卑弥呼は「神功皇后」として描かれているので、
真の皇祖神「天照大神」は別に存在するということになる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくし たまにぎはやのみこと)
スサノオとクシナダヒメの第5子で、
スサノオの後継者でもある「ニギハヤヒ」、
それが男神「天照大神」で真の皇祖なのである。
暴風雨神「バアル」の子が太陽神「ミトラ」だが、
スサノオは「バアル」、ニギハヤヒは「ミトラ」に対応する。
そして、ミトラ(マイトレーヤ)は救世神として終末に再臨するが、
それが「キリストの再臨=弥勒下生」と呼ばれているものである。

神武天皇から始まる天皇家は「日向族」の血統である。
神武天皇は、ニギハヤヒの後継者イスケヨリヒメを娶っているので、
天皇家は日向族と出雲族との統合による家系ではあるが、
出雲族の系統は天皇家から排除され、歴史から抹殺されてきた。
ニギハヤヒこそ、皇位継承の証「十種神宝」を持って大和で即位した、
出雲系の初代天皇だったのだが、それが真の皇祖神の正体なのだ。
そのニギハヤヒ(キリスト神霊)が天皇に霊的再臨することにより、
天皇が「現人神」として復権して世界を統治することになるのである。
天皇のことを「天子様」というが、『日月神示』には次のように示されている。
「今度の戦済みたら、てんし様が世界中治しめて、外国には王はなくなるのざぞ」
「七王も八王も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。
てんし様が世界みそなわすのざぞ」
「神にとけ入れよ、てんし様にとけ入れよ立て直しと申すのは
世の元の大神様の御心のままにすることぞ。御光りの世にすることぞ。
てんし様の御稜威輝く御代とすることぞ。
三四五とはてんし様の稜威出づことぞ。
神が世界の王になる。てんし様が神と判らん臣民」
「伊勢神宮の完成」と「キリストの再臨」と「宗教破壊」
http://kemono666.seesaa.net/article/299507743.html
『竹内文書』と『日月神示』が予言する天津日嗣天皇の再臨
http://mujaki666.seesaa.net/article/167655629.html
『日月神示』と岩戸成る「平成」の悠仁親王の君が代
http://mujaki666.seesaa.net/article/167659607.html
改竄された日本の古代史
http://jew-beast.seesaa.net/article/153734614.html

もう1つ重要なことがある。
初代天皇は「神武天皇」である。
ニギハヤヒが事実上の初代天皇であれば、
「真の神武天皇」の正体はニギハヤヒということになる。
『記紀』に記されている神武天皇は、
ニギハヤヒの後継者であるイスケヨリヒメと結婚し、
第2代天皇となった日向族の「イワレヒコ」である。
日本史における第2代天皇は「綏靖天皇」で、
それが実在した人物かどうかは不明である。
また、私は「綏靖天皇=イワレヒコ」と言っているわけではない。
事実上の初代天皇である「真の神武天皇」がニギハヤヒで、
第2代天皇が「イワレヒコ」だったということを主張しているのだ。
なぜ「真の神武天皇=ニギハヤヒ」に拘るかというと、
その認識を持つことが重要だからである。
真の皇祖神「天照大神」もニギハヤヒだが、
それは人間界のニギハヤヒではなく、
あくまでも太陽神(キリスト神霊)のことであり、
その御魂を宿した初代天皇が「ニギハヤヒ」だったのだ。
「神武天皇」という名称は「初代天皇」の代名詞である。
ゆえに、神武天皇は「ニギハヤヒ」でなければならないのだ。
もちろん、そのような単純な理由で説得するつもりはない。

アリオンによると、神武天皇の東征神話の真相は、
日向国のイワレヒコがニギハヤヒ王家に養子に入るために、
大和入りしたときのエピソードだという。
また、アレクサンドロスの東征伝説をなぞって、
神武天皇の東征神話が創作されたことは間違いない。
だが、そこからが問題である。
アレクサンドロスはアケメネス朝ペルシアを征服し、
古都「スサ」の王として即位した。
その「スサの王」が「スサノオ」の語源である。
また、アレクサンドロスは「双角王」と呼ばれたが、
それもスサノオ(牛頭天王)の二本角とシンクロしている。
アレクサンドロスはエジプトではファラオに即位し、
「太陽神アメンの子」を名乗ったが、
それは黄金の子牛「アモン=バアル」である。
それらのシンクロは文字通り「意味ある偶然の一致」で、
歴史的必然だと言って良いものである。
その「スサの王」という肩書きを継承してきたのが出雲族で、
日本建国の父であるフツシが「スサノオ」と呼ばれていた。
従って、アレクサンドロス伝説を重ねた「神武天皇」は、
出雲族のスサノオであって、決して日向族のイワレヒコではない。
だが、スサノオは出雲で生まれて出雲で亡くなっている。
また、スサノオは出雲の大王ではあったが、初代天皇ではない。
そのことから、大和に東遷して初代天皇となったニギハヤヒが、
「真の神武天皇」と呼ぶべき存在だということである。

「出雲族=イスラエル10支族」「日向族=ユダヤ2支族」
という仮説を発表してきたが、それは間違いないと思われる。
天皇の古語である「スメラミコト」はシュメール語で、
古代シュメール人が日本列島に移住したと言われいてるが、
それも事実であろう。
だが、シュメールの首都ウル(「牛」の意)から出発した
アブラハムの子孫からヤコブ(イスラエル)が生まれたので、
イスラエル民族もまたシュメール人の末裔であるがゆえに、
彼らも「スメラミコト」の名称を受け継いできた可能性がある。
そして、日本に渡来した出雲族(イスラエル10支族)が、
日本の先住民である国津神を併合して出雲王国を樹立した。
国津神には世界各地の人種がいたが、「スメラミコト」
と呼ばれるシュメール系の王が中心となっていたようだが、
出雲族のスサノオ王家と融合し、スサノオが大王となった。
それが私の仮説だが、そう判断して間違いではないだろう。
イスラエル10支族がいた北イスラエル王国の首都はサマリアだが、
スメラミコトはヘブライ語では「サマリアの王」という意味だという。
イメージ画像

イワレヒコの正式名は「カムヤマトイワレビコ」だが、
ヘブライ語とアラム語で次のように読めるという。
カム=「KUM」創立
ヤマト=「YA・UMATO」神の民
イワレ=「IWRA」アラム語でユダヤ人
ビコ=「BEKHOR」最初に生まれた子
諸説あるが、全体的な意味はともかくとして、
「神の民」を名乗るのはアテン信仰のユダヤ人である。
「ヤマトイワレ」で「神の民ユダヤ人」ということは、
明らかにイスラエル10支族ではないことを示している。
その観点からも、「出雲族=イスラエル10支族」
「日向族=ユダヤ2支族」であることを裏付けることができる。
私の説を基にして将軍が作成してくれた。

また、日本に渡来した日向族の王は「イザナギ」と呼ばれた人物で、
「イザナミ」との間に「アマテラス」という娘が生まれた。
つまり、日本にユダヤ人が入ってきたのはアマテラスの時代なのだが、
『ガイアの法則』にも同じことが書かれていた。
「あなたの国、日本の歴史は、あなた方が神話として知る
アマテラスの時代からユダヤの血縁が関与している」
また、次のように示されている。
「民族の歴史というものは、その民族の
始まりとなった人物のソウルパターンに導かれる」
それゆえ、日本人の集合的無意識(アカシック)の修復のために、
1人でも多くの人々の歴史認識を変える必要があるのだ。
特に、今回述べた「真の皇祖神」と「真の神武天皇」の正体が
「ニギハヤヒ」であり、その再臨が太陽神ミトラ(マイトレーヤ)、
いわゆる「キリストの再臨=弥勒下生」の真の意味だと知ってもらいたい。
それがナイトルシファーの活動の1つでもあるが、
将軍がツイッターを開設してくれたので紹介しておきたい
https://twitter.com/SATANIC_JAPAN
日本史の根源的な歪みを修復しておくことが急務である。
『日本書紀』の神武天皇元年正月朔の条に
「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」と記されている。
簡単に言うと、「神武天皇が橿原宮で即位した辛酉の年の
春正月を天皇元年とする」という意味である。
西暦に対応させると、紀元前660年2月11日になるということで、
2月11日が「建国記念日」とされているのだ。

だが、辛酉は60年ごと巡ってくるため、年代は特定できない。
では、なぜ紀元前660年とされたのか……。
そこに聖徳太子の陰謀がある。
六十干支は60年周期だが、
それを21倍した「1260年」という周期もある。
以前も同じような「聖徳太子陰謀説」を書いたが、
聖書やノストラダムスの予言も「1260年周期」に基づいている。
結論から言うと、聖徳太子は西暦601年(推古9年)の辛酉の年から
1260年を引いた「紀元前660年」を神武天皇即位の年と定めたのである。
中国では「辛酉の年」は革命が起こって王朝が倒れる年だと考えられ、
「辛酉革命」とよんで恐れていたという。
もちろん、聖徳太子は「辛酉革命思想」や
「1260年周期」のことも熟知していたはずである。
年表を見ると、西暦601年(推古9年)の辛酉の年に、
聖徳太子が斑鳩宮(上宮王家の拠点)を建立している。
革命的な出来事は特になかったように見えるが、
斑鳩宮を建立して天皇中心の新しい国体の構築を
始めたことが「革命」だったと言えるだろう。
その1260年前の辛酉の年を、
初代天皇である「神武天皇」の即位の年としたのである。
それによって天皇家の権威を増す目的もあったと思うが、
最大の目的は、暦の操作によって、日本国民の無意識を
操作することが目的だったのである。
推古天皇は第33代とされているが、
実際には初代天皇から推古天皇まで33代もない。
仮に33代まで続いていたとしても、
天皇の即位から防御までの期間を平均「50年」と仮定すると、
紀元前660年から西暦601年までの1260年間の間に、
252人の天皇が存在しなければならない。
つまり、推古天皇は第252代くらいになるはずで、
初代天皇の即位が紀元前660年だったというのは無理がある。

伯家神道の予言によると、皇太子が天皇に即位する際に行われる
「祝神事」が100年間、或いは4代行われないと天皇家は滅びるという。
その100年目が今年の7月30日だったが、今のところ天皇家は滅びていない。
普通に考えると、今年中に天皇家が滅びるとも思えない。
では、来年以降に天皇家が滅びるのかというと、そうではない。
出口王仁三郎は、広島と長崎の原爆投下を予言し、
広島は昭和天皇「ヒロヒト」、長崎は皇后「ナガコ」を暗示し、
日本の敗戦は天皇家にお詫びをさせるためだったことを明らかにした。
翌年1946年の元旦、昭和天皇が「人間宣言」をして、
現人神とされていた天皇は「人間」となり、天皇家の権威は失墜した。
『大本神諭』では痛烈な天皇批判がされていたが、
『日月神示』では天皇が世界を治める神となることが予言されている。

詳しい話は以前書いたので省略するが、
現在の天皇家の時代は終焉を迎えるということである。
だが、現在の天皇家が滅びるわけではない。
現在の天皇(日向族)の血統に、本来の天皇(出雲族)の霊統が
復活することで「世界天皇」が誕生するのだ。
それが、ユダヤ教が予言する「ダビデ王の末裔のメシア」であり、
キリスト教が予言する「キリストの再臨」であり、
仏教が予言する「弥勒菩薩の下生」なのである。
もちろん、それは一人一人に当てはまることなのだが、
人類の中心となる特定の人物が「天皇」だということである。
そこで、新しい時代が始まったことにより、
「アカシックの修復」のために再認識して頂きたいことがある。
皇祖神「天照大神」と初代天皇「神武天皇」についてである。
秦氏によって、イエス・キリストも「天照大神」に習合しているが、
それは別として、皇祖神とされる天照大神は女神であり、
それはスサノオと呼ばれたフツシの日向の妻だった「アマテラス」、
『魏志倭人伝』で言うところの卑弥呼のことである。

だが、卑弥呼は「神功皇后」として描かれているので、
真の皇祖神「天照大神」は別に存在するということになる。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
(あまてるくにてるひこあめのほあかりくし たまにぎはやのみこと)
スサノオとクシナダヒメの第5子で、
スサノオの後継者でもある「ニギハヤヒ」、
それが男神「天照大神」で真の皇祖なのである。
暴風雨神「バアル」の子が太陽神「ミトラ」だが、
スサノオは「バアル」、ニギハヤヒは「ミトラ」に対応する。
そして、ミトラ(マイトレーヤ)は救世神として終末に再臨するが、
それが「キリストの再臨=弥勒下生」と呼ばれているものである。

神武天皇から始まる天皇家は「日向族」の血統である。
神武天皇は、ニギハヤヒの後継者イスケヨリヒメを娶っているので、
天皇家は日向族と出雲族との統合による家系ではあるが、
出雲族の系統は天皇家から排除され、歴史から抹殺されてきた。
ニギハヤヒこそ、皇位継承の証「十種神宝」を持って大和で即位した、
出雲系の初代天皇だったのだが、それが真の皇祖神の正体なのだ。
そのニギハヤヒ(キリスト神霊)が天皇に霊的再臨することにより、
天皇が「現人神」として復権して世界を統治することになるのである。
天皇のことを「天子様」というが、『日月神示』には次のように示されている。
「今度の戦済みたら、てんし様が世界中治しめて、外国には王はなくなるのざぞ」
「七王も八王も作らせんぞ、一つの王で治めさすぞ。
てんし様が世界みそなわすのざぞ」
「神にとけ入れよ、てんし様にとけ入れよ立て直しと申すのは
世の元の大神様の御心のままにすることぞ。御光りの世にすることぞ。
てんし様の御稜威輝く御代とすることぞ。
三四五とはてんし様の稜威出づことぞ。
神が世界の王になる。てんし様が神と判らん臣民」
「伊勢神宮の完成」と「キリストの再臨」と「宗教破壊」
http://kemono666.seesaa.net/article/299507743.html
『竹内文書』と『日月神示』が予言する天津日嗣天皇の再臨
http://mujaki666.seesaa.net/article/167655629.html
『日月神示』と岩戸成る「平成」の悠仁親王の君が代
http://mujaki666.seesaa.net/article/167659607.html
改竄された日本の古代史
http://jew-beast.seesaa.net/article/153734614.html

もう1つ重要なことがある。
初代天皇は「神武天皇」である。
ニギハヤヒが事実上の初代天皇であれば、
「真の神武天皇」の正体はニギハヤヒということになる。
『記紀』に記されている神武天皇は、
ニギハヤヒの後継者であるイスケヨリヒメと結婚し、
第2代天皇となった日向族の「イワレヒコ」である。
日本史における第2代天皇は「綏靖天皇」で、
それが実在した人物かどうかは不明である。
また、私は「綏靖天皇=イワレヒコ」と言っているわけではない。
事実上の初代天皇である「真の神武天皇」がニギハヤヒで、
第2代天皇が「イワレヒコ」だったということを主張しているのだ。
なぜ「真の神武天皇=ニギハヤヒ」に拘るかというと、
その認識を持つことが重要だからである。
真の皇祖神「天照大神」もニギハヤヒだが、
それは人間界のニギハヤヒではなく、
あくまでも太陽神(キリスト神霊)のことであり、
その御魂を宿した初代天皇が「ニギハヤヒ」だったのだ。
「神武天皇」という名称は「初代天皇」の代名詞である。
ゆえに、神武天皇は「ニギハヤヒ」でなければならないのだ。
もちろん、そのような単純な理由で説得するつもりはない。

アリオンによると、神武天皇の東征神話の真相は、
日向国のイワレヒコがニギハヤヒ王家に養子に入るために、
大和入りしたときのエピソードだという。
また、アレクサンドロスの東征伝説をなぞって、
神武天皇の東征神話が創作されたことは間違いない。
だが、そこからが問題である。
アレクサンドロスはアケメネス朝ペルシアを征服し、
古都「スサ」の王として即位した。
その「スサの王」が「スサノオ」の語源である。
また、アレクサンドロスは「双角王」と呼ばれたが、
それもスサノオ(牛頭天王)の二本角とシンクロしている。
アレクサンドロスはエジプトではファラオに即位し、
「太陽神アメンの子」を名乗ったが、
それは黄金の子牛「アモン=バアル」である。
それらのシンクロは文字通り「意味ある偶然の一致」で、
歴史的必然だと言って良いものである。
その「スサの王」という肩書きを継承してきたのが出雲族で、
日本建国の父であるフツシが「スサノオ」と呼ばれていた。
従って、アレクサンドロス伝説を重ねた「神武天皇」は、
出雲族のスサノオであって、決して日向族のイワレヒコではない。
だが、スサノオは出雲で生まれて出雲で亡くなっている。
また、スサノオは出雲の大王ではあったが、初代天皇ではない。
そのことから、大和に東遷して初代天皇となったニギハヤヒが、
「真の神武天皇」と呼ぶべき存在だということである。

「出雲族=イスラエル10支族」「日向族=ユダヤ2支族」
という仮説を発表してきたが、それは間違いないと思われる。
天皇の古語である「スメラミコト」はシュメール語で、
古代シュメール人が日本列島に移住したと言われいてるが、
それも事実であろう。
だが、シュメールの首都ウル(「牛」の意)から出発した
アブラハムの子孫からヤコブ(イスラエル)が生まれたので、
イスラエル民族もまたシュメール人の末裔であるがゆえに、
彼らも「スメラミコト」の名称を受け継いできた可能性がある。
そして、日本に渡来した出雲族(イスラエル10支族)が、
日本の先住民である国津神を併合して出雲王国を樹立した。
国津神には世界各地の人種がいたが、「スメラミコト」
と呼ばれるシュメール系の王が中心となっていたようだが、
出雲族のスサノオ王家と融合し、スサノオが大王となった。
それが私の仮説だが、そう判断して間違いではないだろう。
イスラエル10支族がいた北イスラエル王国の首都はサマリアだが、
スメラミコトはヘブライ語では「サマリアの王」という意味だという。
イメージ画像

イワレヒコの正式名は「カムヤマトイワレビコ」だが、
ヘブライ語とアラム語で次のように読めるという。
カム=「KUM」創立
ヤマト=「YA・UMATO」神の民
イワレ=「IWRA」アラム語でユダヤ人
ビコ=「BEKHOR」最初に生まれた子
諸説あるが、全体的な意味はともかくとして、
「神の民」を名乗るのはアテン信仰のユダヤ人である。
「ヤマトイワレ」で「神の民ユダヤ人」ということは、
明らかにイスラエル10支族ではないことを示している。
その観点からも、「出雲族=イスラエル10支族」
「日向族=ユダヤ2支族」であることを裏付けることができる。
私の説を基にして将軍が作成してくれた。

また、日本に渡来した日向族の王は「イザナギ」と呼ばれた人物で、
「イザナミ」との間に「アマテラス」という娘が生まれた。
つまり、日本にユダヤ人が入ってきたのはアマテラスの時代なのだが、
『ガイアの法則』にも同じことが書かれていた。
「あなたの国、日本の歴史は、あなた方が神話として知る
アマテラスの時代からユダヤの血縁が関与している」
また、次のように示されている。
「民族の歴史というものは、その民族の
始まりとなった人物のソウルパターンに導かれる」
それゆえ、日本人の集合的無意識(アカシック)の修復のために、
1人でも多くの人々の歴史認識を変える必要があるのだ。
特に、今回述べた「真の皇祖神」と「真の神武天皇」の正体が
「ニギハヤヒ」であり、その再臨が太陽神ミトラ(マイトレーヤ)、
いわゆる「キリストの再臨=弥勒下生」の真の意味だと知ってもらいたい。
それがナイトルシファーの活動の1つでもあるが、
将軍がツイッターを開設してくれたので紹介しておきたい

https://twitter.com/SATANIC_JAPAN
2010年05月24日
古史古伝が明かす伝説の世界天皇「A大王」の後継者の正体

王仁三郎の人種論によれば、セム族を「イスラエル人種」と称し、日本人、ユダヤ人、満州人、蒙古人、コーカサス人などを含んでいる。
泉田瑞顕氏は『出口王仁三郎の大警告』の中で、次のように述べている。
「今から約四千年前、中東パレスチナの地に集結して、イスラエル王国を建設した十二部族というのは、セム族である。
このセム族というのは、太古の時代、世界経綸のため富士高天原から各地に降臨した天孫民族である。
中東パレスチナの地にイスラエル王国を建設した十二部族こそ、富士高天原からアジア大陸を西に降った天孫民族の後裔と見るべきである」
だが、これは明らかに間違っている。
「セム族」はノアの息子セムの子孫を指し、「イスラエル人」はヤコブの子孫を指し、イスラエル人は「セム族」ではあっても、「セム族=イスラエル人」ではない。
そして、日本人、ユダヤ人、満州人、蒙古人が「セム族」ではあっても、「イスラエル人」と同一視するのは適切ではない。
また、コーカサス人は「ヤフェト族」に分類するべきであろう。
富士高天原から各地に降臨した天孫民族が「セム族」というのも、明らかにおかしい。
セム族の出自が富士高天原とするなら、「ノアの方舟」は富士山に漂着したことになり、ヤフェト族(白人の祖)やハム族(黒人の祖)も富士高天原から降臨したことになり、聖書の記述と全く異なっている。
「創世記」によると、方舟は3階建てで、長さ300キュビット、幅50キュビット、高さ30キュビットで、アララット山に漂着したことになっている。
1キュビットは約44.5cmなので、方舟の長さは133.5メートルという事になるが、アララット山系で「ノアの方舟」と思われる方舟地形が発見され、全長は約135メートル、人工衛星からスキャンした写真によると、内部構造も聖書の記述通り3階建てで細かく部屋が仕切られており、トルコ政府の調査でも「ノアの方舟」であると発表された。

王仁三郎の「富士高天原王朝説」は、『宮下文書』の影響を受けたものだと思われるが、『宮下文書』では、最初の神人「天之峰火雄神」はペルシアの北方に起源を持ち、約6400年前に「高皇産霊神」の7人の皇子が各地に離散し、その内の「国常立尊」と「国狭槌尊」が「高皇産霊神」と共に富士山に渡来したという。
つまり、富士高天原王朝の神人のルーツは、ペルシアの北方、即ち、トルコとイランの国境にあるアララット山方面であり、「天之峰火雄神=ノア」だと言えるだろう。
そして、約6400年前というのも、オコツトが教える新時代の幕開けの時期ともほぼ一致する。
前置きが長くなってしまったが、バイブル・ランド(聖書の舞台の地)で絶大な権力を持っていたヒッタイト人とエブス人は、牡牛神「バアル」信仰の多神教を守り通した10支族に肩入れしたと考えて良いだろう。
その後、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされて連れ去られたが、後にアッシリア帝国はスキタイ族に滅ぼされ、イスラエル10支族を統合した。
ペルシア系といわれるスキタイ族は、西は北欧、東は沿海州沿岸に至るまで、ユーラシア大陸全土を席巻した。
アレクサンドロスは、ギリシアを統一してペルシアを征服。
ペルシアの衣装を身につけて「スサの王」を名乗り、各地にギリシャ人都市を建設し、ペルシャの儀式を採用した。
また、ペルシア兵を登用し、ペルシャ人との合同結婚を行ない、紀元前324年には、自らもダレイオス3世の娘スタティラと結婚した。
この時、ペルシアにいたユダヤ人やスキタイ族も併合したと考えて間違いないだろう。
人種を融合し、世界帝国の建設を夢見たアレクサンドロスは、ペルシャを併合した後、エジプトで「ファラオ」となり、更に「アジアの王」となるべく中央アジアのバクトリア、ソグディアナ(現トルクメニスタン)、中国、インドへ侵攻し、エジプトからインダス河領域までの広大な地域を征服した。
そして、33歳の若さで大帝国を築き、華やかに散っていったアレクサンドロスの短い生涯の偉業は、ギリシアやローマの歴史家たちに脚色され、伝説的な英雄の物語として後世に伝えられた。

アレクサンドロスの伝説は、ヨーロッパ、北アフリカ、西アジア、インド、東南アジア各地で、「アレクサンドロス・ロマンス」として流布し、世界の歴史書、教訓書、宗教書、神話、叙事詩では、アレクサンドロスは単なる歴史上の英雄ではなく、神の子や預言者として描かれている。
『竹内文書』に登場する、万国を巡幸したという伝説の「世界天皇」の正体は、アレクサンドロスだったのではないだろうか。
『竹内文書』では、「不合(フキアエズ)朝」の世界天皇は73代続いたが、最後の神武天皇が「神倭期」の初代天皇となったので、フキアエズ朝は実質72代という事になる。
同様に、古史古伝の『上記』でも、ウガヤ朝は72代続いた事になっている。
『宮下文書』では、ウガヤ朝は51代までとなっているが、王妃による摂政を含めると75代となる。
「ウガヤ朝」と「フキアエズ朝」は同一王朝で、神武天皇の父「ウガヤフキアエズ」を指している。
つまり、夫余族系の「上伽耶=任那」のことで、73代も続いたというのは明らかに創作である。
フキアエズ朝の初代「武鵜草葺不合身光天津日嗣(タケウガヤフキアエズミヒカリアマツヒツギ)天皇」は、『記紀』の「ウガヤフキアエズ」に対応し、初代と73代目が親子関係となる。
ここで「多次元同時存在の法則」を使うと、初代〜72代目までの天皇が同一人物でまとまる。
飛鳥昭雄氏は、こう述べている。
「多次元同時存在の法則の下では、時間や人数の概念は一切通用しない。
何億年もの寿命や数百世代の隔たりがあっても、たったひとりの人間や神に集約されてしまうからだ」
(『竹内文書』と月の先住宇宙人)

結論として、フキアエズ朝は一代の天皇であった。
その天皇の名は文字通り、神武天皇の父「ウガヤフキアエズ」で、本名は「フツ」だったに違いない。
だが、上伽耶王が各国を巡幸したという記録は皆無である。
彼らは「アレクサンドロス大王」の名と伝説を継承する一族である。
大王は「強者が我が帝国を支配せよ」と遺言し、後継者を決めなかった。
その後、後継者争いが起こり、分割された各帝国に「アレクサンドロスの後継者」を名乗る王たちが現れた。
だが我々は、アレクサンドロス軍がインドで仏教に傾倒した事を知っている。
大王によって、マカダ国王に任命されたチャンドラグプタは、名君となって国を繁栄させ、ペルシャ皇帝セレウコスの王女を妻に迎えた。
その孫が、インド亜大陸をほぼ統一した暴君「アショカ王」だった。
そして、アショカ王の後継者として、「ソナカ家」が選ばれたのではないだろうか。
今まで検証してきた通り、ソナカ一族が「出雲族」である事はまず間違いない。
それは日向族同様、スキタイ族である。
その民族構成は、ギリシア・マゲドニアの子孫もいたが、釈迦(サカ)族の子孫も間違いなく存在したはずだ。
その中に、「イスラエル10支族」の末裔がいたことは想像に難しくない。
しかも、家紋の類似性から判断して、釈迦は「ガド族」の末裔だった可能性が高く、釈迦族も「牡牛」をトーテムとしていた。
それ故、出雲族の「ガド族」に、スサノオの神権が与えられたのではないだろうか。
また、スサノオが「出雲族」というのは便宜上の表現ではなく、『日月神示』でも「スサノオは出雲の神」だと示されている。
「出雲とはこの地のことぞ。スサナルの神はこの世の大神様ぞ」

これはマクロな表現で、地球全土が出雲、スサナル(スサノオ)は地球意識という事である。
従って、その現人神のスサノオも「出雲族」でなければならない。
「出雲」の根源的な語源を考察すると、やはり「エドム」であろう。
聖書では、イスラエル民族がバイブル・ランドの主役として描かれているが、イスラエル(ヤコブ)の双子の兄である「エドム」の子孫は、日の目を見ない存在としての扱いである。
日向が「ひなた」であるのに対して、出雲は「日陰」だとも解釈できる。
イスラエルは「神と戦う(神武)」という意味で、エドム人こそが本当の大神権を持っていた可能性も否定できない。
前述の通り、北イスラエル王国が独立後、エドム人やヒッタイト人は、イスラエル10支族と合併したのではないだろうか。
そして、エドム人やヒッタイト人と混血したガド族の末裔から、釈迦やスサノオ(神武天皇)が誕生した……とは考えられないだろうか。

通説では、失われた10支族が中央アジアを経て、シルクロードを通って朝鮮半島を経由し、日本で天皇家となったと言われている。
一方、加治木氏は、インドから渡来したギリシア系仏教集団が天皇家になったと主張。
前者が「日向族」で、後者が「出雲族」と考え勝ちだが、事実はそうではない。
ギリシア人やペルシア人(ユダヤ人含む)、スキタイ族(イスラエル10支族含む)等を併合したマケドニアのアレクサンドロス軍が、インドで仏教に改宗したのが「アショカ仏教宣布団=天孫(アマ)族」だったと、私は考えている。
つまり、出雲族と日向族、即ち「アマ族」は、イスラエル民族を主体とするバイブル・ランドの民をはじめ、ギリシア人、マケドニア人、ペルシア人、スキタイ族の融合民族だったのだ。
木村鷹太郎氏は、ギリシア神話と日本神話の類似性から「日ギ同祖論」を提唱した。
それは、太古に中央アジアから、日本人とギリシア人の祖型となる民族が降りてきて、地中海、そしてインドに移動し、後に日本人とギリシア人に分かれたというもので、ヘブル人もその民族の枝分かれだという。
この「日ギ同祖論」にも異論はあるが、ギリシア人やベブル人がインド経由で日本に渡来した事と比較して、非常に興味深い仮説ではある。

では、木村氏による「日本神話」「ギリシア神話」「聖書」の中の類似語や共通点を、ダイジェストで紹介しよう。
・スサノオの長髪=サムソンの長髪
・大国主の天の詔琴=ダビテの琴
・スサノオの生太刀と生弓矢=ヤコブの大刀と弓
(これを受けたのが大国主とヨセフで物語が一致)
・ヨセフはギリシア語で「吉兆・幸福」を意味するヨセモス→ヨセフス
・「大物主」は、無双唯一の大人物を意味する「オーモノス」
・大国主を救った「ネズミ」とダビテを救った「ヨナザン」の話が類似
(ヨナザン(Jonathan)は「潜伏」のギリシア語「ヨネゼン」で、ヨは「善」という意味の接頭語。
ナザン=ネゼンが「ネヅミ」に転訛し、繋げて「善き鼠」命拾いした潜伏場所)
・スサノオが大国主を黄泉比良坂まで追う=ヨセフの父ヤコブの将に死せんとする時
・宇都志国玉(ウツシクニタマ)=ウスス・コグニタム(Usus Cognitam)→正理よりするに非ず、実際上の事情よりして統治の意
(スサノオが大国主に「宇都志国玉の神となれ」と言ったのは、「葦原中国の仮の支配者になれ」という意味)
・大国主・大物主=ギリシア語の「オイコノモシ」(家宰・経済家の意)
・ヨセフスの「ヨウ」は「善良・豊富・人事・幸福」の意で、「善う・吉し」に通じ、「吉野」はギリシア名称のヨイノスに相当
・聖書でヨセフを「夢見る者」としているが、「夢」はギリシア語のヨメネース・ユメニア(恩恵・寛大・幸福・吉兆)が語源で、「ヨセフ=ユメニア」
「夢なる日本語がユダヤ綴音、ギリシャ綴音の中間に架橋して、その意味を通ぜるものにして、日本語の世界的言語研究の価値は、かくの如き点にも表はるるなり」
2010年05月23日
スサノオの神権を継承したバイブル・ランドの覇者「ガド族」の謎

泉田瑞顕氏は、『出口王仁三郎の大警告』の中で次のように述べている。
「二千七百年前、中東パレスチナの地から姿を消したイスラエル十支族は、海陸両面から東に向かい、縄文晩期の頃から波状的に日本列島各地へ渡来し、当時の列島原住民と同和混血したとみるべきであろう。
東洋史に現れてくる扶余族の主流はおそらく、陸路を東進したイスラエル人であり、倭人というのは、海路を東に向かったイスラエル人であろう。
彼らは日本列島各地の海岸平野地帯に定着し、先住民と同化しつつ、いわゆる弥生経済革命の原動力となった」
氏の主張を要約すると、陸路を東進したイスラエル人が「扶余族」 、海路を東に向かったイスラエル人が「倭人」で、共にイスラエル10支族ということになる。
つまり、「扶余族=日向族」「倭人=出雲族」で、「日向族+出雲族=イスラエル10支族」だというのだ。
だが、倭人はカリエン人(バビロニア人の末裔)で、夫余系国家「高句麗」の原住民もカリエン人である事は、既に解明済み。
そして、加治木説を軸にアリオン説を検証してきた通り、「夫余族=ソナカ家」は海路ルートで渡海した出雲族であった。
また、泉田氏は、イスラエル10支族が陸海各ルートで日本に渡来して共同社会を築いた後、騎馬民族の神武一族が来襲したと結論づけているが、夫余族こそが「騎馬民族」なのであった。
それは、「出雲族」としての神武天皇である。
記紀で、神武天皇が「日向族」だとされているのは何故か……別の機会に改めて詳述する。

アマ族の中のイスラエル民族を分類すると、夢蛇鬼説ではおおよそこのようになる。
「出雲族=イスラエル10支族」「日向族=イスラエル2支族=ユダヤ人」
「出雲族と日向族」の対立は、「10支族と2支族」の対立だったという見方が出来る。
但し、厳密に言えば、その構成は最初から変則的であった。
ヤコブ(イスラエル)は12人の息子を設けた。
即ち、「ルベン」「シメオン」「レビ」「ユダ」「ダン」「ナフタリ」「ガド」「アシェル」「イッサカル」「ゼブルン」「ヨセフ」「ベニヤミン」である。
この12人の息子から「イスラエル12支族」が誕生したが、レビ族は祭祀職として聖別され、12支族から除外視。
代わって、ヨセフの息子「マナセ」と「エフライム」が独立した支族を形成し、「イスラエル12支族」は次の構成となっている。
「ルベン族」「シメオン族」「ユダ族」「ダン族」「ナフタリ族」「ガド族」「アシェル族」「イッサカル族」「ゼブルン族」「マナセ族」「エフライム族」「ベニヤミン族」
また、イスラエル(ヤコブ)には、「エドム」という兄弟がいた。
もっと言えば、イスラエルはアブラハムの子孫ではなかった可能性が高い。
更に『大本神諭』では、「イスラエルの十二の支流の源を明らかにする」と示されているが、今のところ、イスラエル12支族の源はイスラエル(ヤコブ)であるとしか言いようがない。
従って、それらを総称して「ヘブライ人=イスラエル民族」としよう。
彼らはエジプトに移住し、膨大な数に膨れ上がった。
水上涼氏は、「イスラエル民族の中にはエジプト人と呼んだ方が良い部族もいる」と指摘しているが、エジプト人も加わったと見て良いだろう。
また、エルサレムには「エブス人」という先住民がいたが、水上氏によると、ソロモンに事業の経営を指導したのはエルサレムのエブス人で、エルサレムを陣取ったダビデが、実はエブス人と同盟していたという。

水上氏は著書『ユダヤ人と日本人の秘密』で、こう述べている。
――聖書によれば、エルサレムはたしかダビデがエブス人から奪い取ったことになっていたはずだが、そこには謎めいた王がいたことになる。
しかもその王は驚嘆すべき富を持っていたのは疑う余地がないが、もう一つの力である軍事力を持っていたことも推定できる。
その王とソロモンの間に軍事上の完全な信頼関係があったことを物語る。
これはエルサレムのエブス人であろう。
彼はダビデを後援してとらせた王位を、ソロモンによって再び確保したのであった。
それでは、彼はなぜソロモンを選び出したのか?
ソロモンがどういう集団に属していたかについて、私にある一つの考えは、ヒッタイトの存在である。
そのかかわりは、ソロモンの母親がヒッタイト人だったからかも知れない――
また、次のように述べている。
――「日ユ同祖論」とはいっても、イスラエル民族の周辺にいた民族、ヘテ・エブス・エドムもまた我々の祖先である。
「列王記上」には、「ソロモン王はエドムの地、紅海の岸のエラテに近いエジオン・ゲベルで数隻の船をつくった」とあるので、たしかにエドム人たちが、あるいはエドム人による造船会社がタルシン船を製造したものらしい。
またマレー半島での、ソロモンの名が出てくる鹿とワニの民話の日本版は「出雲風土記」に載っている。
エドム人は船をつくっただけでなく、その船に乗って日本にも来たのである。
彼らが出雲族なのだ。
「創世記」によれば「エサウは四十歳のとき、ヘテ人とベエリの娘ユデデとヘテ人とエロンの娘バスマテとを妻にめとった」とある。
エサウはエドムの本名であり、ヘテは世界最古の製鉄民族のヒッタイト人なのだが、エドム人とヒッタイト人は親密な関係にあったことを意味している――

出雲族はエドム人なのだ。
しかし、ここでいう「出雲族」は、年代的に見て、アリオンの預言者・北川氏が便宜上名付けた「出雲族」とは異なる。
縄文時代に日本列島に渡来した「先住出雲族」である。
ここで注目すべきは、「エドム人とヒッタイト人が親密な関係にあった」ということ、「ダビデがエブス人と同盟していた」ということである。
エドム人(出雲族)とヒッタイト人は切っても切れない関係のようだ。
古代イスラエル王国の初代大王は、ベニヤミン族のサウルだった。
そして、サウル亡き後、ユダ族のダビデが大王に選ばれた。
ここで確認できる事は、「ユダ族」のみがイスラエル民族の絶対的王権を持っている訳ではないということ。
また、当時、ユダ族が肩入れされていた理由は、ヒッタイト人との関係であった。
ソロモンの時代、ユダヤ教はまだ成立していなかった。
初代大王のサウルは、息子に「エシュバール」と名付け、バアル信仰を明らかにした。
2代目のダビデは、偶像を寝床に入れて逃走した。
3代目のソロモンは神殿を建て、12頭の牛の像を3頭ずつ東西南北に向けて設置していた。
シュメール〜ヒッタイトの流れを汲むイスラエル民族が、牡牛を中心とする多神教だったことは、当然といえば当然のことだった。

そして、ソロモンが神殿に「契約の箱」を収めると、雲が神殿に満ち、ソロモンはこう言った。
主は日を天に置かれた。
しかも主は自ら濃き雲の中に住まおうと言われた。
わたしはあなたのために高き家、
とこしえのみすまいを建てた。
同様に、スサノオが出雲で宮殿を建てた時にも雲が現れ、スサノオは日本で最初の和歌を詠んだ。
八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を
木村鷹太郎氏は、「八雲=ヤコブ」「出雲=エドム」であるとし、水上氏は「スサノオはヒッタイト〜ユダ族を貫く神」だと主張した。
ところが、イスラエル王国の南北が分裂し、ユダヤ教の成立に伴って、ユダ族の信仰は一神教に変貌していった。
「一神教」については、別の機会に詳述したい。
一方、エフライム族の「ヤラベアム」が10支族の王として、北イスラエル王国を建国。
後に、10支族が「出雲族」となり、2支族が「日向族」となったとするならば、出雲族と日向族を統合する大王(天皇)になる為には、古代イスラエル王国を治めた「ユダ族」を超える王権を備えている必要がある。
イスラエル民族の中で、特に目立った存在ではなかった「ガド族」が、皇位継承の証を保持して日本に渡来した経緯は、どのようなものだったのだろうか。
2010年05月22日
夫余系騎馬民族とヘブライ人「スサノオ」の部族と天皇家の秘密

「辰」の意味が「ふるう」であるなら、辰王こそが「初代フル=沸流」だった可能性を指摘したが、真相は更に奥深い。
辰王の故郷である高句麗の初代の王「朱蒙」は、スキタイ族の一派である夫余族(扶余族)の出身である。
その夫余族の始祖の名前を「解夫婁」といい、古代朝鮮語で「ヘブル」と読む。
日本では「ヘブライ」と言うが、これは中国の漢字で「希伯来」と表記したものが、日本語に翻訳された時に「ヘブライ」と誤訳された名残らしい。
しかも、イスラエル人には「フル」という名前は普通に存在するらしく、『旧約聖書』でもユダ族の「フル」という人物が、アロンと共にモーゼに仕えている。
「解夫婁――ヘブル」「布流――沸流――フル」
夫余系騎馬民族は、ヘブル人だった可能性が高いのだ。
シュメールのウル(牛の意)から出発したアブラハム族(ヘブル人)は、「牡牛族」と呼べる民族である。
そして、アブラハムの子孫を「ヘブル人」というが、アブラハム、イサク、ヤコブ(イスラエル)は、王朝系譜が繋がらない別々の部族で、ヘブル人とイスラエル人は異なる民族だという水上説を紹介した。
では、夫余族はヘブル人であって、イスラエル民族ではなかったのだろうか。
ヘブル人はイスラエル民族と共にいた。
また、イスラエル民族の兄弟であるエドム人も、イスラエル民族と共に生活していた。
ヘブル人やエドム人は、イスラエル人に溶け込んでいた可能性は十分考えられる。
「出エジプト記」に於いては、イスラエル民族を指して「ヘブル人」と呼んでいる。
ヘブル人とは、アブラハムの子孫の総称だと言っても良いのではないだろうか。

ヘブルは「移動する民」の意で、要は遊牧民である。
木村鷹太郎氏は、「ダビデ」の語音は「旅人→ダビト」だとしている。
という事で、ここでは「ヘブル人=イスラエル人」と仮定して、話を進めていきたい。
ユダ族のダビデは、イスラエル民族の王である。
ダビデ王・ソロモン王を産み出した「ユダ族」は、イスラエル12支族の王家であった。
『旧約聖書』は、ユダ族とヒッタイト人との深い繋がりを強調している。
ヒッタイト人は、世界最古の製鉄民族にして騎馬民族。
アリオンは、スサノオを生んだ出雲族は、鉄鉱民にして、王位継承の証を保持していたと伝えている。
日本の天皇は「万世一系」だと言われているが、聖書で神は「ソロモンの家系を永遠に保つ」と約束している。
ちなみに、紀元前5世紀〜紀元10世紀にかけて、現在のエチオピア辺りの地域で繁栄したアクスム王国の王は、「王の王」と呼ばれ、ソロモン王とシバ女王の後継を名乗っていた。
ユダヤ人を含むイスラエル民族が、世界各地に離散している以上、可能性は無きにしも非ずだが、話を戻そう。
つまり、 「夫余族=出雲族」は、ユダ族だった可能性がある。
勿論、ユダ族に限定する必要はなく、ユダ族とベニヤミン族で構成される「イスラエル2支族」のユダヤ人だと言えるだろう。
ユダヤ人は、龍をサタンと見なしていた。
八岐大蛇を退治したスサノオは、正に「ユダヤ人=イスラエル2支族」の王の後裔だったのではないだろうか。
だが、出雲族である辰王の「辰」には「龍」の意味がある。
また、高天原から追放されたスサノオは、堕天使ルシファー(龍)でもある。

大本から分かれて「皇道赤心会」を結成した泉田瑞顕氏は、著書「出口王仁三郎の大警告」の中で、次のように述べている。
「昔の中国北東地域に存在したと言われる扶余族が、勢力を拡大して高句麗を建国し、その一派が朝鮮半島を南下して百済を建国した。
その後さらに南進して狗邪韓国(加羅国)をつくり、その部族集団が天孫族と称して日本へ侵入して来た」
泉田説によれば、扶余族こそ「失われたイスラエル10支族」だという。
飛鳥昭雄氏など、多くの学者が「余夫系騎馬民族=イスラエル10支族」だと主張している。
古代イスラエル王国は南北に分裂し、10支族の北イスラエル王朝は「サマリア」を首都とした。
そして、黄金の子牛像を崇拝した「イスラエル10支族」から、牛頭天王「スサノオ」が生まれたとは考えられないか。
では、出雲族がイスラエル10支族だと仮定して、スサノオは何族だったのだろうか。
通説では、ガド族が「帝=天皇」になったと言われている。
尊称の御を付けて「御ガド」、又はヘブル語で「出身」を意味するミを付けて「ミ・ガド」になったのだという。
本来、ミカドはミガドと呼ばれ、現在でも、宮中への参内を「ミガドマイリ」、正月の朝賀を「ミガドオガミ」という。
また、ガド族の紋章と天皇家の「五七の桐紋」が似ている事も指摘されている。
古来、天皇は「スメラミコト」と呼ばれていた。
スメラミコトはヘブル語の「サマリアの王」だという説もある。
また、「スメラ」は古代バビロニア語の「シュメール(SUMER)」と同じ発音で、「ミコト」は「天降る者」の古代バビロニア語「ミグト(MIGUT)」が変化したものだとも考えられている。
確かに、ヘブル人はシュメールから天降った(出発した)民族である。
また、ミコトは本来、「ミガド」と呼ばれていたという説がある。
そうすると、スメラミコトは「スメラミガド」となり、「シュメール出身のガド族」という意味にもとれる。
何故、古代バビロニア語なのか。
朱蒙が建国したとされる高句麗の原住民「倭人=カリエン人」が、古代バビロニア人の末裔だからに他ならない。

『旧約聖書』では、ヤコブ(イスラエル)が12人の息子を集め、各支族の未来を予言しているが、「ガド族」についてはこのように述べている。
「ガドには侵略者が迫る。しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう」
(「創世記」第49章)
また、モーゼは次のように予言している。
「ガドを大きくする者は、ほむべきかな。
ガドは獅子のように伏し、腕や頭の頂きをかき裂くであろう。
彼は初穂の地を自分のために選んだ。
そこには将軍の分も取り置かれていた。
彼は民のかしらたちと共にきて、イスラエルと共に主の正義と審判とを行なった」
この予言は、出雲族の日向国侵攻に通じるものがある。
アリオンによると、先に日本列島に到着し、既に強大な国を建設しつつあった日向族は、出雲族との協力を拒み、出雲族が保持する皇位継承の証「十種神宝」の引き渡しを要求してきた。
そこで、出雲族の族長であったフツは、息子スサノオ、スサノオの第5子であるトシ(後のニギハヤヒ)らを伴って、九州に住む日向族の制覇に乗り出した。
これは、高天原に攻め入った「スサノオ」であり、邪馬台国を侵攻した狗那国王「卑弥弓呼」や、日向政権を倒した「崇神天皇」とも符合する。
ただ、この時の出雲族の族長がフツとなっているので、ここでは「卑弥弓呼=崇神天皇=フツ」という事になるが、スサノオとアマテラスの誓約がストーリーの核心部なので、出雲族の主役は「スサノオ」と見るべきだろう。
『卑弥弓呼=崇神天皇=スサノオ』
また、皇室の「三種の神器」のルーツがインドである話をしたが、元はやはり「ユダヤの三種の神器」だと思われる。
ユダヤの三種の神器は、2支族のユダ族の王に継承されるもので、また、日向族の象徴は「三」である。
出雲族が保持していた「十種神宝」は、2支族とは無縁のもので、10支族を象徴して「十種神宝」となっていたのかも知れない。
そして、ガド族の祖「ガド」の息子に「ツェフォン」がいるが、日ユ同祖論者の小谷部全一郎氏によると、ツェフォンはヘブル語の発音では「ニッポン」に近いという。
ここで1つの仮説が成立する。
「出雲族=イスラエル10支族」
「日向族=イスラエル2支族=ユダヤ人」
「ガド族の王=初代天皇=神武天皇=スサノオ」
2010年05月21日
アレキサンダーと牛頭天王のルーツと雷神スサノオの本名

前にも紹介したが、奈良県天理市布留(フル)町の布留山の北西麓に鎮座する石上神宮に、その秘密が隠されている。
石上神宮は「布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)」を主祭神とし、その他の配祭神の中で重要な2神が「布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)」と「布都斯魂大神(フツシミタマノオオカミ)」である。
社伝によると、神武東征において建御雷神(タケミカヅチ)が神武天皇に与えた剣と、その霊威を「布都御魂大神」と称える。
神武天皇を「スサノオ」とすると、建御雷神は「スサノオの父」と考える事が出来る。
『古事紀』では、スサノオを「建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)」と表記するが、両者が頭に「建」を冠することから、同族であることは間違いないだろう。
『日本書紀』では、タケミカヅチと共に経津主神(フツヌシノカミ)が降臨したが、『先代旧事本紀』では、経津主神の御魂の剣が「布都御魂」であるとしている。
『古事記』でも、タケミカヅチの別名を「建布都神(タケフツノカミ)」「豊布都神(トヨフツノカミ)」として、タケミカヅチとフツヌシを同一神として扱っている。
やはり、石上神宮の主祭神「布都御魂大神」の正体は、スサノオの父「フツ」なのだ。
『タケミカヅチ=タケフツノカミ=フツヌシノカミ=フツ=スサノオの父』

「布留御魂大神」は、ニギハヤヒが持っていた十種神宝と、その起死回生の霊力を神格化したものである。
という事は、「布留=フル」という名称は、ニギハヤヒが先祖の「沸流」から継承したものだと分かる。
アリオンによれば、スサノオの第5子であるニギハヤヒの本名は「トシ」である。
これは、記紀でスサノオの子として登場する「大歳神」又は「大年神」と一致する。
『布留御魂大神=フル=ニギハヤヒ=大歳神(大年神)=トシ=スサノオの第5子』
そして、スサノオが八岐大蛇を退治した十握剣の霊威を「布都斯魂大神」として祀られている。
つまり、「布都斯魂大神=スサノオ」で、スサノオの名前は「フツシ」だったのだ。
加治木氏の研究により、スサノオは「ソナカ王家」だった事が判明した。
そうすると、朱蒙や辰王や上伽那王も、必然的に「ソナカ王家」という事になる。

加治木氏は著書『日本国誕生の秘密はすべて「おとぎ話」にあった』(徳間書店)の中で、次のように説明している。
――ソナカは任那(ミマナ)・意富加羅(オオカラ)・新羅(シラギ)の王子と『日本書紀』の[崇神・垂仁両紀]に書かれていますが、それらは四〜五世紀にできた国々で卑弥呼当時にはありませんでした。
彼は一体どこからきたのでしょう?
ミャンマーから東南アジアにかけて、非常に大きな仕事をなしとげ、彼の名とぴったり同じ名をもったソナカ王子という人がいました。
このお話はあのアレクサンドロス大王のインド東征にまでさかのぼります。
アレクサンドロス大王がインド西北部を占領して戦勝祝賀式を挙げたときマカダ国王に任命されたチャンドラグプタは、たいへんな名君になり国を繁栄させて、アレクサンドロスの死後、
ペルシャ皇帝になったセレウコスの王女を妻に迎えました。
その孫が有名なアショカ王なのです。
王は戦争に明け暮れたあと悟りを開いて、世界平和を願って仏教を全世界に広めようと思いたち、四方に大掛かりな「宣布団」を派遣しました。
西はギリシャ、エジプトまで行きましたし、北はヒマラヤを越えてタクラマカン砂漠周辺のカロライナ=楼蘭などまで、東はミャンマー、タイ、ベトナムから台湾までを仏教の国々に変えて行きました。
出発は紀元前244年でしたから、卑弥呼の時代に到るまでにその王位は次々に子孫に受け継がれ変わりましたが、その姓はずっと「ソナカ」で変わりなく、少女卑弥呼を追って日本列島へやってきたソナカは、その王家の王子だったのです。
その名はいろいろに当て字されて幾人もの天皇の名前になっています。
「崇神天皇」は、御真木入彦という名乗りですが、「御」は沖縄語では「ウ」、「真=シン」で「ウシン」ですが、これは南九州語では「牛の」です。
それに「木」がついて「ウシキ」です。
牛は朝鮮語で「ソ」、「の木(コ)」は沖縄語で「ナカ」になります。
「アリシチ」も「入彦=イリヒコ」と合います。
沖縄語では<ア>が<イ>になります。
<ヒ>と<シ>が入れ替わるのも鹿児島や関東語のくせです。
また沖縄では<キ>を<チ>と発音しますから「木」と書いてあると「チ」と発音しますし、鹿児島では木は「コ」と発音します。
だから<アリシチ>と<イリヒコ>は同じなのです。
仲衷天皇の名乗りはもっとよくわかります。
「足仲彦」です。
この天皇の妻が有名な神功皇后ですが、その名乗りは「息長帯姫」です。
この二つをよく観察しますと、<足>と<息>はどちらも「ソク」、<仲>と<長>は「ナカとナガ」で、平安時代の清音なら同じ「ナカ」です。
これを別々の名と見るより、夫妻は同じ姓だったと見るのが良識というものでしょう――

という事は、フツの子のスサノオの本名は、「ソナカ・フツシ」だったかも知れない。
「フツ――スサノオ(フツシ)――トシ(ニギハヤヒ・フル)」は、アリオンが示すスサノオの親子3代である。
実際に、石上神宮では、この3神をスサノオの親子3代であるとしている。
飛鳥氏は「多次元同時存在の法則」を用いて、この3神を「同一神」と見なしているが、これは間違いだった事になる。
本来の「スサノオ」の意味は、「スサの王」の継承者という肩書きであり、アレクサンドロスをはじめ、アショカ王や朱蒙、フル、フツ、ニギハヤヒも「スサノオ」だと言えるが、決して同一人物ではない。
事実、朝鮮半島から渡来した「スサノオ」は、アリオンのいう「スサノオ」の先祖であった。
島根県出雲市には「須佐」という地名がある。
ペルシアのスサの王の継承者はインドの「アショカ王」であり、アショカ仏教の「ソナカ王家」が朝鮮半島から出雲に上陸して、「須佐の王」と名乗ったのだろう。
平安時代以前、「神宮」と名の付く神社は「伊勢神宮」と「石上神宮」だけだっただけに、如何に重要な神社であるかが考察できる。
石上神宮には「スサノオ」、伊勢神宮には「アマテラス」という皇祖夫婦神が祀られていたのである。
また、伊勢神宮の古名「磯宮」と「イソノカミ」との関連性も指摘されている。
そして、イソ・イセ・イシの語源は、イスカンダル(アレクサンドロス)にあり、究極的にはシュメールの「五十柱の神」とも無関係とは思えない。

話を少し戻すが、建御雷神の「ミカヅチ」は、文字通り雷の意で、タケミカヅチの降臨は「落雷=ルシファーの天界追放=スサノオの高天原追放」に通じる。
今まで見てきた通り、世界神話に登場する牡牛神は「雷神」であった。
また、「ニギハヤヒ=大年神」の「年」は稲の豊穣を意味し、穀物神とされている。
前にも述べたが、ここでも「雷と稲」の関係が表されている。
ニギハヤヒ自身にも「賀茂別雷命」という別名があり、雷神でもあるのだ。
ちなみに、アレクサンドロスは英語名で「アレキサンダー」と発音するが、「エレキサンダー」と発音すると「電雷」となるのは、日本語の面白い偶然である。
京都の祗園にある八坂神社の主祭神である「スサノオ」のルーツは、高天原を追放されたスサノオが降臨した新羅の「ソシモリ=牛頭山」で、それは古代朝鮮語で「牛頭」を意味し、韓国のソウルもそれを語源としている。
シュメール語で「牛頭」は「ウル・サグ」で、武人の意味も重複しているらしい。
朝鮮半島に於ける牛頭天王の直接的なルーツは仏教教典に登場する祗園精舎の守護神だが、更にそのルーツが、アレクサンドロスにある事は確かである。
『スサの王=牛頭天王=スサノオ』

そして、上伽那王(ウガヤフキアエズ)の語源が、ギリシア語の「天地支持者」を意味する「ウ・ガヤ・フォーキス」だという鹿島説。
やはり、ペルシャからパミール高原、インド、東南アジア、中国、朝鮮を経由して日本に伝播した伝説である事は間違いないだろう。
その「牡牛神」のルーツは、ギリシア神話の最高神「ゼウス」、更にはカナン・フェニキア神話の「エル」「バアル」、バビロニア神話の「マルドゥク」、そしてシュメール神話にまで遡る。
アレクサンドロスは双角王と呼ばれ、ヴァイキングは2本角の戦闘帽、戦国時代の兜も三日月型の2本角で、「牛頭と戦」は切っても切れない関係にある。
龍は蛇と牛の合成神ゆえに2本角があり、バビロニア神話のイシュタルをルーツとするエルの妻神「アシュタルト」は、牡牛の角を持つ女神で、蛇の姿で表現される事もある。
龍神のルーツもシュメールに行き着くが、蛇は「水神」で、牛は「火神」に結び付き、両者のフュージョンによって「火水=神」となる。
『漢書』によると、辰王の「辰」には、「ふるう」という意味があるが、これが「フル」の語源である可能性もある。
後に、想像上の動物である「龍」が当て嵌められたらしいが、牛頭天王であるスサノオは、同時にルシファー(龍)でもある。
同様に、八岐大蛇で喩えられる卑弥呼は、アレクサンドロス(ツルカルナイン)の名を継承する鬼姫であった。
既に発表した通り、牡牛神にも龍蛇の要素があり、龍蛇神にも牡牛の要素がある。
が、出雲族が「牡牛」で日向族が「龍蛇」をトーテムとしていたとすると、両者の統合によって「火水」の力が発揮されると言えよう。
この事は特に重要である。
さて、「辰」が「秦」を語源とすると同時に、「フル」の語源となっている可能性があるが、更にその起源があるとすれば、それは……。
2010年05月18日
高句麗建国神話と「アレクサンドロス=山幸彦」の正体

通説では、古代日本に渡来した騎馬民族は、スキタイ族と合流したイスラエル10支族だったと考えられている。
真相は少しずつ明らかになっていくはずだが、まず、スサノオが朝鮮から追放されたというのは、史実としてどういう意味なのか……。
ここに興味深い話がある。
アレクサンドロスが潜水艦で海中の世界に赴く話と、山幸彦が失くした釣り針を求めて海神の国へ行く話が似ており、更に、山幸彦の別名が神武天皇と同じ「ホホデミ命」である事から、「山幸彦=神武天皇」であることは既に紹介した。
これと同じ構図の逸話が、古代朝鮮の『三国史記』にある。
要約すると、高句麗の始祖「朱蒙」には、長男の「沸流(フル)」と次男の「温祚(オンソ)」の2人の息子がいた。
兄の沸流は海側に国を建てたが、繁栄しないことを恥じて自ら命を絶ったという。
弟の温祚は山側に国を創って繁栄し、それが百済となった。
これは、記紀神話に於ける「海幸彦」と「山幸彦」に対応し、その関係は「沸流=海幸彦」「温祚=山幸彦」となる。

だが、飛鳥氏は『失われたイスラエル10支族「神武天皇」の謎』の中で、兄弟の逆転を指摘している。
――騎馬民族説の江上氏も、ここに注目。
「沸流・温祚物語」は「海幸彦・山幸彦物語」の神話的なルーツではないかと指摘している。
確かに、騎馬民族の夫余族が朝鮮半島から日本列島にやってきたとき、この「沸流・温祚物語」を持ち込み、それが南方系の神話の影響を受け、最終的に「海幸彦・山幸彦物語」」となったと考えれば、非常に納得がいく。
しかし、このふたつの物語は、単純に似ている以上に、重要な問題をはらんでいる。
というのは、海に行った人物が、ふたつの物語のなかで逆転しているのである――
何故なら、「海幸彦・山幸彦物語」で海に行ったのは、山幸彦だからである。
つまり、「沸流=山幸彦」なのだ。
『アレクサンドロス=神武天皇=山幸彦=ホホデミ=沸流=スサノオ』
もっとも、アレクサンドロスの名を継承した人物の伝説なので、人物として等式で結ぶのであれば、次のようになる。
『神武天皇=山幸彦=ホホデミ命=沸流=スサノオ』
尚、神武東征神話の原型がアレクサンドロスの東征にあった事を述べたが、歴史学者の三品彰英氏は「高句麗の建国神話」との類似性も指摘している。
だが、「沸流=スサノオ」だとすると、スサノオは朝鮮で死んでいた事になる。

それについて飛鳥氏は、次のように解説している。
――もし沸流が死んではいなかったとすれば、話は別だ。
密かに生き延びて、日本列島に渡ってきたと、十分考えられる。
いや、実は騎馬民族の習慣から考えると、その可能性が高い。
というのは、騎馬民族の相続は、みな「末子相続」を基本とする。
末子に相続させれば、一代の統治期間が長くなるというメリットがあるからだ……
ひるがえって、沸流と温祚について考えてみよう。
彼らは、夫余系騎馬民族国家「高句麗」の始祖「高朱蒙」の息子である。
王家の人間であるといえる。
だが、そのまま高句麗を継承していないところを見ると、彼らの下には、もうひとり弟がいた可能性がある。
ふたりは高句麗を継承せず、自らの国を作る必要に迫り、朝鮮半島を南下してきたのではないか。
もちろん、これは基本的に神話であって、モデルとなった人間が過去にいたと解釈するのが適当かも知れない――
そう考えると、確かに沸流は死んでいなかった可能性が高い。
勿論、「海幸彦・山幸彦物語」でも、山幸彦は死んではいない。
飛鳥氏の解説は更に核心に迫る。
――歴史的な文献からわかることは、東北アジアから朝鮮半島に入ってきた流浪の民、秦人は、西側の土地を継承。
「辰韓(秦韓)」と「弁韓」を建国した。
が、のちに、もともと朝鮮半島を支配していた西側の「馬韓」をも支配下におき、その中心地「月支国」に王家の都を置いた。
この月支国が辰王の宗家の拠点であった。
沸流・温祚は馬韓を完全に征服し、「百済」を建国した。
一方の兄・沸流は、新天地を求めて月支国から移動。
伝説では仁川あたりとなっているが、ここはまだ月支国の範囲内だ。
よって、彼は、さらに南下。
ついには、朝鮮半島の南端にまで達したのではないだろうか――

これは『日本書紀』に於ける「スサノオの追放」に符合し、月支国が「高天原」に比定できる。
そして、高天原を追放されたスサノオは新羅の曽尸茂梨に降臨したが、「この地吾欲さず」と言って、土船を造って出雲国に渡った。
出雲国は島根県であり、「根の国」という訳だ。
それが、次の飛鳥氏の話の続きと符合する。
――ここには同じく秦人の国である弁韓がある。
沸流は、これを支配下におき、伽耶を建国した。
これが日本の記紀でいう「任那」である。
辰王「沸流」は、任那に城を構えた。
すなわち、「任那の王」ゆえ、のちに彼は「ミマキイリヒコイニエ」、すなわち「崇神天皇」と呼ばれることになる。
しかし、時代は戦乱の世。
中国大陸はもとより、朝鮮半島情勢も不穏な雲行きになっていた。
そこで、辰王はさらに兵を南に向ける。
海の向こう、日本列島へと辰王は軍団を進める……――
但し、辰韓が「新羅」となり、弁韓が「伽耶」となったので、「新羅」と「伽耶」という違いがある。
これについて、飛鳥氏はこう説明している。
――ここに新羅とあるが、時代的にいって、これは新羅の前身である「辰韓」のことをいとているのだろう。
スサノオ命は、もともと辰韓にいたのである。
そこから移動して、この日本にやってきたのだ。
ここに神武天皇=スサノオ命の朝鮮半島における記憶を見ることができる。
少なくとも、辰韓に神武天皇もしくは、その一族がいたことは間違いない。
新羅=辰韓に神武天皇、もしくはその一族がいたことはわかった。
だが、ずっと辰韓にいたわけではない。
スサノオ命は、その後、出雲へと渡った。
『日本書紀』では、土で作った船で一気に渡来したように記しているが、実際は、そうではないだろう……――
という事で、月支国を追放されたスサノオは辰韓(新羅)に降臨したが、その地を不服に思い、弁韓に移って伽耶を建国。
しかし、社会情勢の都合で日本列島に渡海したという事らしい。
何故、スサノオが新羅を嫌がったのかは、別の機会に発表したいと思う。
念の為に述べておくが、アリオンのいう「スサノオ」は、朝鮮生まれではなく、後の日本で産声を上げた。
従って、朝鮮から渡来した「スサノオ」の正体は、スサノオの父「フツ」だったことになる。
しかし、『日本書紀』では、スサノオは息子の五十猛尊(イタケル)を連れて出雲に上陸したことになっている。
という事は、朝鮮から来たスサノオは、スサノオの祖父だったのだろうか。
だが、アリオン・メッセージでは、日本に渡来したスサノオ一家の中に、スサノオの祖父が入っていない。
アリオンの話が事実であれば、この『日本書紀』の朝鮮から来た「スサノオ」と「イタケル」は、前者がスサノオの曾祖父、後者がスサノオの父という事になる。
では、沸流(フル)とは一体何者なのか……。
通説では、スサノオの子「ニギハヤヒ」の名前が「フル」だったとされているが、これはニギハヤヒが生まれる以前の朝鮮半島にいた人物である。
また、アリオンによると、ニギハヤヒの名前は「トシ」だという。
仮に、トシの別名が「フル」だったとしても、それは明らかに祖先の名前を受け継いだものである。
そう考えると、アリオンはスサノオの曾祖父の名前までは明かしていないので、スサノオの曾祖父が「フル」だった可能性がある。
或いは、スサノオの祖父が「フル」だった可能性も高い。
日本に渡来したスサノオ一家の中に、スサノオの祖父が入っていないからである。
だとすると、「沸流・温祚物語」の沸流は本当に自殺していた可能性があり、それがスサノオの祖父だったという事も有り得る。
であれば、スサノオの曾祖父が高句麗の始祖「朱蒙」だった事になるが、確証は得られない。
では、スサノオの名前は何だったのだろうか。